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洋介とエマの暮らしはそうして始まった。
朝、起きてどちらかが朝食を作って、一緒に食べる。一緒に歯を磨く。洋介がインターネットで調べ物をしているとき、彼女は一人で退屈そうにしている。昼食。歯磨き。そのあとは、外に出かけることもある。彼一人の場合があり、彼と彼女の両方の場合もある。彼女一人のときはない。出かける先は、両方の場合はスーパーマーケットや川べりや本屋、彼一人の場合は意味のない放浪だった。
彼はこういうとき、朝子を探しているつもりでいたが、実際はまともにものを見ていなかった。街の人々や奴隷たちを眺めながら、あの中に朝子がいたら、と想像をたくましくする程度だ。果ては薄暗い昼のラブホテル街に入り込み、この中に朝子が連れ込まれていたら、と考えて、絶望する有様だった。彼の頼みの綱は奴隷倉庫に並べられる奴隷たちであり、それらは毎月一日にしか見ることができなかった。奴隷が新しく仕入れられるのは一日のみだからだ。彼はその日を待ちわびながら、街をさまよう。
エマと二人で出かけるときは、幾分気楽であるように思う。エマは彼にくっついて、嬉しそうに歩く。家の中には何もない。退屈に違いない。だから彼は、彼女に本を買い与える。彼のノートパソコンを使わせる手もあるが、それだとインターネット上のありとあらゆる情報が、彼女を串刺しにしそうだった。
彼女は本というものをあまり手にしたことがなかったらしい。不思議そうに、漫画や小説を手に取った。彼女が選んだのは、彼には馬鹿馬鹿しく思える類のものばかりだ。ちらりと読んでみても、甘ったるさや感傷が、ページから匂ってくる。それでも彼女は初めて文明に触れた未開人のように、それらを摂取していった。漫画に関しては、表紙の非現実的な絵柄の少女より、彼女のほうがよほど少女らしいように思えたが、彼女にとってはそうでもないらしい。漫画や小説を読むとき、彼女はとても真剣だった。
帰ると、夕食、歯磨き、風呂だ。風呂に入る順番はいい加減だけれど、彼女の風呂上りの習慣は変わらない。彼に髪を梳いてもらい、彼に爪を塗ってもらうのだ。彼は彼女の髪と爪に執着していた。髪と違って爪は早く伸びるけれど、彼は彼女の爪を切るのも、除光液でマニキュアを剥がすのも、新しくマニキュアを塗るのも自分の仕事だと心得ていた。彼女のほうもその習慣にすっかり慣れて、彼が彼女の足に覆いかぶさっている間、あくびをかみ殺したりもした。マニキュアは近所のドラッグストアで数種類買い集められている。赤、青、黄、紫、緑、橙、黒。最初の白を加えると、八種類のマニキュアがあることになる。彼は自分の気分次第に、彼女の爪の色を変えた。彼女の爪は、少しずつ、健康を失うようだった。髪を梳かす習慣は、朝と昼は彼女のものだったが、夜の濡れた髪だけは、彼のものだ。彼は彼女の黒すぎるまでに黒い、猫毛ぎみの髪をそっと梳かした。欠点が見当たらないか、いちいち調べた。
彼女の髪が乾くころ、二人は隣り合った別々の部屋で寝る。彼は居間に、彼女は仏間に。二人とも静かだ。彼女のほうは最初、眠れない日々が続いたようだが、今では彼より寝つきがいい。彼は、最近になってからため息をつきながら体を起こすことが多い。そしてこう考えている。おれは何をしているんだ。
全てが遅々として進まないという気がする。自分がやっていることが手ぬるいと思う。インターネットで闇取引される女奴隷の、生々しい裸体写真を見てどうなる? 殺された奴隷たちを朝子に重ね合わせてみて、どうなる? 街に彼女の姿を探してどうなる? 全ては不確実だ。彼は一歩踏み出すことをいつもためらっている。いつでも制度内で処理しようとする。これは朝子から呆れられた、彼の性質だった。それなのに、朝子のために費やす時間の他に、エマと戯れる時間があるのだ。これは、明らかに無駄だ。
しかし、彼はエマを放り出せない。エマが哀れだというだけではない。エマを売るのが悪であるならば、手段はあるのだ。彼はエマに吸い寄せられているのだ。彼女の持つ、体の華奢さだとか、肌の滑らかさだとか、丸いひざ小僧だとか、子犬のような目だとか、花弁のような唇だとか、黒い、どこまでも黒い長い髪だとか、伸びていく爪に。そして彼女の中にある、少女らしさに。白痴的な信じやすさや感じやすさに。彼女は彼が十代のときに追い求めていた少女とは違う。あれらはもっと生々しかった。エマは脆い。焼いた人骨のように、触れてしまった次の瞬間にはほろほろと崩れ落ちそうだった。彼はその脆さに飲み込まれつつあったのだ。
彼女の癖で、彼が未だに慣れないものがある。
初めて本を買い与えた日のことだ。彼女は十代の少女が好みそうな少女漫画を熱心に読んだ。彼が声をかけてもなかなか気づかないほどだ。だから彼女を放っておいたのだが、しばらく経ってインターネットを見ている彼の右腕に、温かな湿り気を帯びたものがまとわりついた。ぎょっとして振り向くと、彼女だった。彼女は彼の腕にからみつき、涙ぐんだ目と微笑んだ口元を向けていた。
「何?」
動転した彼が乱暴に訊くと、彼女はさっきまで自身がいた場所を指差した。そこにあったのは、漫画の山だ。彼女はにっこり笑って彼を見ながら、それらを示した。つまりは、こう言いたいのだろう。あれ、とても面白かったです。買ってくれてありがとうございます。
彼にとってはインターネットの世界から引きずり出されてこのような驚きを与えられ、更には奇妙な恐怖感も手伝って、不愉快だった。彼はそのとき、彼女から乱暴に自分の腕を引き抜いた。彼女はふるい落とされた手を持て余すようにぱたんとひざに落とし、切なげな顔をした。彼は罪悪感を覚えたが、
「忙しいから」
と簡単な言い訳をしたあとは、無言だった。
これが繰り返されたのだ。しかも、何度も何度も。新しい本を与えたとき、小川にきれいな白鷺がいたとき、空が茜色に染まったとき、彼が彼女にふと笑いかけたとき。彼女は全てが嬉しいようだった。嬉しいと彼に擦り寄るのだ。それはすっかり馴れた小さな動物のようでもあった。彼は最初、ぶっきらぼうに離れていたが、次第に諦めて何もしなくなった。されるがままになる。右腕の横は彼女の占有席だった。彼女はいつもそこにいて、気分が高まると腕に飛びついた。彼女の体温や速い心臓の音が伝わってくる。彼は居心地の悪さに、どうしようもなく戸惑っている。
彼は彼女の明るい面や、弱い面しか見たことがない。笑ったり泣いたりするところしか、彼女は見せない。ただ、一度だけ驚いたことがある。
ドラッグストアで、風船のセットを買った。彼女のマニキュアほどに色とりどりの風船だ。彼女が欲しがるし、それは極めて安価であるしで、彼は特に気にすることなくそれをレジに通した。
家に帰ると、彼女は早速風船を膨らませ始めた。最初の一つを膨らませ、酸欠気味になる。それを見た彼が、手助けをして一緒に膨らませる。彼女が一心になって次々に風船を丸くするので、彼は戸惑いつつも従った。彼自身もかなり疲れたころに、彼女はどこからか持ってきた黒い油性マジックで、風船に落書きをした。顔を書いているようだった。簡略化された目と口と髪の毛だけの顔で、全部同じように見えるけれど、しわの有無や髪形が違った。彼女は八つほどある風船全てに顔を書き、ぽんぽんと空中に浮かべて楽しそうに遊んでいたが、不意に無表情になった。彼が、どうしたのだろう、と思っているうちに、彼女は台所に走っていき、何かを持って戻ってきた。風船の一つを捕まえ、こぶしを振り下ろす。ぱん、と風船は驚くような耳障りな音を立てて割れた。残骸が重力に従って落ちる。彼女は爪楊枝を握っているらしかった。また風船を捕らえ、爪楊枝を刺す。ぱん。風船が割れる。彼は何か不安になり、彼女に近寄って話しかけた。
「何してるの。せっかく膨らませたんだろ」
彼女は相変わらずの表情のまま、彼を見ずに風船を割った。そして、そのまま黙っている彼の前で、八つの風船を全て割ってしまった。彼女はそのあとも、彼が凍りつくような冷たい表情を顔に浮かべながらうずくまっていた。
彼女との暮らしは、戸惑いの連続だ。彼は、自分の立場が時折わからなくなる。恋人である朝子を探す男。これはわかりやすい。奴隷であるエマを買って育てている男。こう考えるとわからなくなる。その二つが同時に彼に重なっていると思うと、更にわからない。
気の滅入ることに、外に出たときの人々の目は、更に厳しくなっていた。彼らが決まった場所に現れるために、あるいはエマの耳にある番号札のために、彼らは噂になっていた。
「困ったね」
彼がつぶやくと、彼女は彼の顔を見上げる。
「ずっと見られてる」
こうしたブロック塀とトタンの壁の地区では、奴隷を飼う人間が珍しい。昔からいる人々は、奴隷が近くにいること自体を嫌悪していたりする。だから、ちょっとした視線が意味ありげだし、中には彼らが近づいてから遠ざかるまで見つめていたりする者もいる。今日彼らを見つめているのは、ブロック塀に挟まれた道の真ん中に立っている、小学生くらいの男の子だった。子供の目は、あからさまだ。彼らのことを悪だと教えられ続けた結果の怒りを直接的にぶつけてくる。洋介はそれに参ったし、エマもそうだった。振り向いて何かくどくど言おうかと洋介は思ったが、この間の老人の件を思い出して、やめた。
「歩いていくしかないよ」
彼は彼女の手を握り、できるだけゆっくりと歩き始めた。どうしてですか? という彼女の目。
「いいんだよ。勝手に言わせておけばいいんだ」
そう答えると、彼は子供の前を通った。
「売女」
子供は言った。
すっかりしょげ返ったエマを、彼もまた落ち込んだ気分で連れて歩いた。街に出ると、視線は気にならなくなる。ビルの間をするすると歩く人々の横に、首輪をつけた奴隷がつき従っているからだ。彼は一瞬ほっとした自分を叱りつけた。この、奴隷が当たり前にいる状況を認めるとはどういうことだ、と彼は怒った。その途端、つないでいた手が引っ張られた。見下ろすと、エマが彼を見つめている。怒らないでください。
「怒るよ」
彼はつぶやき、はっと辺りを見た。見られていない。
「君は平和主義がすぎる」
彼女は困った顔をする。彼は、厳しい表情を解いて、
「怒るのは自然な感情なんだ。怒ることを制御されたらおれは破裂するよ」
とため息をついた。彼女がわかっていないような顔をしたので、何か例えを考えているうちに、声がぶつけられた。
「奴隷ば連れて散歩ですか。楽しそうですね」
振り向くと、美奈だった。彼のほうに無感情に見える顔を向けて、立っている。背後に見える花は、この間とはまた違う色彩を彼に見せていた。
「あ、着いた」
「着いたって、ここに来るつもりで来たとですか」
「そうだよ」
一瞬、美奈の顔はほころんだように見えた。しかしまた元に戻って、不機嫌な声を上げる。
「この間の花が枯れたとですか」
「うん。結構前になるね」
彼がエマを見ると、エマは慎重にうなずく。
「殺風景な生活だからね。花がほしいんだよ」
「殺風景な生活?」
美奈の顔が、嘲笑に歪んだ。彼はどきりとしたが、すぐに自分をつくろって笑顔を作った。
「君が何を想像してるか、よくわかる。そういうの、やめてもらえないかな」
美奈がさっと青ざめる。
「どういうことですか」
「おれとエマのことを、勝手に想像しないでくれ」
「だって本当のことじゃなかですか」
声を荒げた美奈を、奥にいた彼女の両親が見る。途方に暮れた表情。
「違うよ。君の考えていることは、間違いだ。だから」
「花がほしかとなら別の花屋で買ってください」
やや落ち着いた声で、美奈がつぶやいた。自制心の強い女だ、と彼は思う。このまま彼女の勝手な想像も封じ込めてくれたらいいのに。
「そうか。じゃあ、そうする」
彼はエマを連れ、歩き出した。エマは戸惑い気味に彼を見上げる。可哀想です。あの人、可哀想です。
「大丈夫だよ、エマ。彼女は強いから、すぐに許してくれるよ。花だって、いつか売ってくれる。気にするな」
それでもエマは後ろを気にした。彼もそれに倣って振り向いてみたけれど、道際に、美奈はいなかった。
「平気だよ」
そうつぶやく彼を、エマは心配そうな顔で見つめた。




