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 家に着き、エマはやはり戸惑う様子で玄関をくぐった。洋介はそれを見ても昨日ほどは不快ではなかった。彼女が怯えるのも不思議はない、と思った。彼は彼のことも信用できないのだから。これから夕食を取ったり風呂に入ったり眠ったりすることを、一つ屋根の下で行うのだ。誰も守ってくれない。彼女を彼から守るべき人間がいるとしたら、彼だけなのだ。一人のときは何も感じなかったこの家に、彼は息苦しささえ感じた。

 彼女を本当の奴隷にしてしまうことが彼の最後の砦を壊すことだと、彼は思った。本当の奴隷にするというのは、彼女の柔らかで滑らかな肌を、自分のものにすることだ。それはしようと思えばいつでもできた。難しいことではない。自分のイメージする「人間」を諦めたときに、それは可能となる。だが、しない。人間でありたいからだ。朝子のこともあるが、一番の理由はそれだった。

 花束と化粧品の入った袋を持ったまま、彼女は居心地が悪そうに立っている。彼がスニーカーの紐を解く間、彼女は唇を小さく結んでそれらを見ていた。彼は何気なく、彼女のひざを見つめた。丸くて小さなひざだ。華奢な体に似合っている。ワンピースの裾からこちらを覗き見ているようだ。しかし、どきりとして、視線を送るのをやめた。何か悪いことをしているような気がした。

 洋介が上がると、エマは簡単に靴を脱いでついてきた。彼が居間に入ると彼女は台所に行く。マーガレットの花束を背の高いコップに生けてから、彼女は居間へと持ってきた。彼と彼女はちゃぶ台の上で無邪気に咲くその白い花を見つめる。そして気詰まりなときが訪れる。

「どうも、よくないね」

 彼が正直につぶやくと、彼女は首をかしげた。

「君と二人きりというのは、何だか変だよ。今更だけど」

 彼女はぼんやりと彼を見て、物思いにふけるようにうつむいた。彼は大きくため息をついて、うなずいた。

「慣れの問題かな。そうだよ」

 そうではないことは、自分でわかっていた。しかし、彼は彼女の前ではそういうことにしておこうという気になったのだ。彼女が安心して暮らせるよう。朝子はこのことを知ったらどう思うだろうか。彼女ならどうするだろう。そもそも朝子はエマを気に入るだろうか。朝子は人間の好き嫌いがはっきりしていたから。

 考え事が馬鹿馬鹿しくなって、彼はエマに向き直った。エマはちゃぶ台の隅に化粧品を立てて眺めていた。あからさまではないが至極嬉しそうなその表情に、洋介は思わず笑みを浮かべた。

「女の子は化粧品が好きだね」

 声をかけると、彼女は顔を上げる。白い歯を見せて笑い、また口を閉じる。

「化粧品を持つのは初めて?」

 こくりとうなずく。

「じゃあ、おれも悪いことをしたね」

 首をかしげて彼を見つめる。

「女性は化粧しないほうが、おれは好きだからさ。化粧するタイミングを自ら与えて、おれも馬鹿だね」

 彼女はにこにこと笑って応えた。

 彼は彼女相手にどうでもいい話をし、時間が来ると彼女を連れて近所のスーパーマーケットに行った。外の空気を吸うと、やはりくつろいだ気分になった。あの気詰まりな感じ。あれが幾度も繰り返されるのか。そう思うと、気が重くなった。

 適当に買い物を済ませ、家に帰り、また少し緊張して夕食を作って食べた。それが終わると歯を磨いて、彼、彼女の順で風呂に入る。

 彼女が風呂に入っている間、彼はただ黙ってパソコンの画面を眺めていた。インターネット上のニュースを見ても、世の中は何も変わっていなかった。世の中は刻一刻と変わるものだ。それが、何の変化も見られない。有名女優がやはり有名なミュージシャンと離婚した。どこかの田舎で陰惨な殺人事件が起きた。海外のある国で仕事のない若者たちのデモが行われた。どれもこれも、総体的に見れば何も変化のない相も変わらずのニュースだ。奴隷制度は安定している。まるで遥か昔から存在していたかのように。洋介自身、奴隷制度がなくなるというイメージを描くのが困難だった。願ってはいるつもりだったけれど。

 襖が開いて、エマが居間に入ってきた。今日買った水色のパジャマを着ている。パソコンの画面を覗き込む。洋介ははっとして画面を体で隠し、インターネット回線を切る。エマは首をかしげ、不思議そうな顔をする。

「髪、梳かそうか」

 ごまかすように出てきた言葉に驚きながら、洋介は青い櫛を手に取った。エマは目を丸くし、それでも彼の行動に逆らわない。それは二人の関係に波風を立てないようにするためであるようだった。彼は彼女を畳の上に座らせてその後ろであぐらをかき、濡れた髪を梳かした。どうしてだろう、と思いながら。

「君の髪は、どうも梳かしたくなるね」

 彼女の顔はよく見えない。黒くて丸い頭が見えるだけだ。

「女の子の長い髪って、十代のころは触りたくて仕方なかったけどさ」

 彼女が不意に小さく振り向く。

「でも今となれば何ともないね」

 また頭が正面を向く。

「でも君の髪は触れたいと思うよ」

 水気を含んだ柔らかな髪は、彼の手の甲に絡みつくように流れる。水がぽたぽたと落ちる。彼は彼女から取り上げたタオルで、そっと拭く。

「終わり」

 彼が立ち上がって宣言すると、エマはちゃぶ台の向こう側に這っていって、ちょこんと座った。その笑わない顔は、ありがとうございます、と、もう結構です、のどちらかの意味だと思ったのだが、彼にはよくわからなかった。

 彼女はひたすらにちゃぶ台の上を見つめていた。花を見つめている、と思っていたのだが、実際はマニキュアをにらむようにしていた。彼は、彼女がマニキュアを塗りたがっていることに気づいたが、あえて放っておいた。閉じたノートパソコンをじっと見る。銀色の外装に、彼女の黒い頭が揺らめいて映っている。

「マニキュアはね」

 彼が言葉を発すると、彼女はぱっと顔を上げた。明るい表情だ。

「マニキュアは下手に塗るとむらになる。おれが塗る」

 また何を言っているんだろう、と彼は自分に呆れる。マニキュアくらい、彼女が自分で塗れるだろうに。

 しかし彼の指はマニキュアをつまみ上げ、彼の目の前で瓶を振った。あまり固くないマニキュアらしい。ちゃぷちゃぷと動いた。彼女はそれを不安そうな目で見ている。彼はちょっと笑って、

「足、出して」

 と言った。彼女は一瞬ためらったが、ちゃぶ台から少し離れた位置に腰を下ろし、両足を伸ばした。彼はこのパジャマが彼女のひざ小僧を隠してしまっていることに不満を覚えた。形の隠れた足。しかし足の指からかかとまでならよく見えた。滑らかな肌と、淡いピンク色の爪。一枚も、欠けていない。

 彼はそれらに無関心であるかのようにふるまって、マニキュアの蓋を外した。つんとシンナーのような匂いが鼻につく。蓋についた筆から余分な液体を落として、彼女の足に近づけた。親指の爪に筆を乗せると、彼女は一瞬身を引きそうになった。多分冷たかったんだろうな、と彼は冷静に思う。彼女の足に、彼は覆いかぶさるようにしてマニキュアを塗った。彼は慣れていた。真っ直ぐに、筆跡をつけることなく塗ることができた。左足が済むと、次は右足。右足が済むと左手、さらに右手。足に塗っていたときは何となくおかしな気分だったのだが、手のときは何ともなかった。何度も無意識につないだ手であったからかもしれないし、少し荒れた手だからかもしれない。手は少しざらざらした。

 終わると、白い真珠貝のような色になった爪を、彼女は眺めた。それから彼を見て、ちょっとだけ笑った。お義理でお礼を言っているような感じだった。彼はそれを見ても何とも思わなかった。ただ、自分でもよくわからないままに、このマニキュアが剥がれてしまったら、また塗ろうと思った。

 また手持ち無沙汰な沈黙が訪れる。彼は考え事をしていたし、彼女は爪を乾かしていた。彼は彼女をちらりと見た。十代の少女。どう見てもおかしな状況だと思った。彼は、十代のころ、自分が少女とまともに話せなかったことを思い出した。話さなければならないような状況になったら、口ごもったり早口になったりした。それを見て、少女たちは、どんな種類の少女であっても彼をあざ笑った。彼はそのとき湧いた自分の一時的な女性嫌悪を、生涯つきまとうものであるかのように思い込んだ。しかし朝子は彼の二番目の恋人で、そのころには彼もかなり女性慣れしていた。それでも、十代の少女は、相変わらず苦手な存在だったはずだ。

 彼はエマをじっと見た。どう見ても十代の少女だ。しかし彼は彼女と一緒に暮らし始め、髪を梳いたり爪を塗ったりしている。彼自ら。おかしなことになっている。彼自身が招いたこの状況を彼は一見嬉々として受け入れている。このままどうなるのだろう。自分を制御しながら、彼女を保護し続けるのだろうか?

 彼女が、ふと顔を上げた。彼に笑いかける。手の指を見せてもう片方の指で爪をつつく。乾きましたよ。彼女は嬉しそうだった。きれいです。

 彼も笑った。そして、エマはどんどん慣れていくのだろうな、と思った。彼女は彼が自制していることに気づかず、彼を安全な動物だと信じて、この戯れのような笑顔を浮かべるのだろう。美しい笑みではあったが、白痴的でもあった。朝子が嫌う、女性の笑顔だ。「女は慣れる生き物なんだよ」と彼女は言った。「どんな最低な環境にも慣れる」と。彼女はそれを軽蔑していた。彼は自分が崇拝していた朝子が嫌う性質を備え持つエマと暮らしていることが、不思議でならなかった。

 しかし、愛らしく思うのは確かだった。 

「エマ」

 彼が声をかけると、エマは笑顔のまま彼を見た。

「どこか行こうか」

 どこに? その目が語る。

「海に行こう」

 途端に、エマの表情が曇った。彼はどきりとして、どんなまずいことを言ったのだろうと考えた。海に行こう。ただそれだけの言葉だ。それなのに、何故。

「海は嫌?」

 彼女はうなだれるようにしてうなずいた。

「山は?」

 首を振る。

「じゃあ、どこがいい?」

 彼女は顔を上げ、今にも泣きそうな顔をして、首を振った。どこにも行かなくていいです。

 彼は考え込み、

「そうか」

 と答えた。それはわかったふりにしかすぎなかった。


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