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「番号札、外そうか」
洋介が玄関の中で声をかけると、準備万端で出かけようとしていたエマは困った顔をした。そして目で話しかけてきた。番号札は奴隷の証です。外したら大変なことになるんじゃありませんか?
「何となく、不愉快だからさ」
エマは彼の顔をじっと見つめる。でも、いけないことでしょう? あなたが罰を受けるのでしょう?
洋介はその視線を浴びて少し考え込み、自分にはエマの番号札を外す勇気すらないことに気づいた。情けないが、それが事実だ。怒りに任せてエマを買ったときなら、外すことができたかもしれない。しかし今はその怒りも沈静化していた。後々面倒なことになるのなら、今でなくてもいいだろう。エマだって特に望んでいない。彼はそうやって自分を納得させた。
「じゃあ、行こうか」
彼は番号札のことなど忘れたふりをして、エマを先に外へと出した。自らも玄関から出ると、ああ、秋だな、と思った。
狭い庭に生えている草はまだ青々としているけれど、盛んに繁るときは過ぎた。陽炎さえ見えていた夏がここにあったとは信じられないほどに、空気は柔らかく、心地よかった。空は薄い青色をしていて、雲も夏の時期のそれとは比べ物にならないほどたおやかな感じがする。エマは少し嬉しそうに頬を赤らめていた。彼女もまた家の中が気詰まりだったのだろう。
古びて苔さえ生えたブロック塀の向こう側に、一人の老人の姿が見えた。よく見かける、近所の住人だ。
「こんにちは」
洋介が挨拶をすると、老人はたるんだ顔を思い切りしかめて唾を地面に吐きつけた。
「今時の連中は変やと思わんか」
「え?」
洋介は困惑した。老人はいつもならば洋介に軽い挨拶くらいなら返してくれる。しかし今は怒っているようなのだ。
「この街ば赤線地帯にしよった。おかしかと思わんか。取り締まる法律のあったとに忘れたとかね」
赤線とは、懐かしい言葉だ。洋介には遊郭という、より古い言葉のほうが親しみやすい。そのため、頭の中での変換が必要になる。老人はどうやらこの街が売春婦の街になったことを怒っているらしい。しかし、何故、今。
「あんたもその娘ば買ったとやろ? 番号札の(が)見える。奴隷奴隷て言うけど、売春婦と同じぞ。まあ奴隷のほうがあからさまやね。あんたら若者は恥さらしぞ。恥を知れ」
老人はもう一度唾を吐いた。洋介は怒りがこみ上げてくるのを覚えたが、こらえた。ゆっくりと答える。
「ぼくは、この子を妹として育てる気でいます。買ったけれど、そういう目的ではなくて」
「人間ば買うということはその人間より優位に立つことぞ。あんたがその娘ば買ったら、娘はあんたに全てを与えるまで世間から許されん。そのことがわからんとなら、あんたがどがんつもりでも、おいは信用できんな」
「ぼくは絶対そんなことはしません」
洋介は少し早口になっていた。エマが心配そうに二人を見ている。老人は小さな落ち窪んだ目を洋介に向けて、声を震わせて捨て台詞を吐いた。
「金で人間ば買った。それがどれだけ恐ろしかことか、あんたには一生わからんとやろうな」
洋介は一歩踏み出して何かを怒鳴ろうとしたが、エマが彼の腕をそっと掴んだのでそれに気を取られて何も言えなくなった。老人は洋介とエマを一瞥したあと、またゆっくりと歩き出し、洋介が言い返す言葉を口に出したときにはもう見えなくなっていた。
「くそじじい」
幼稚な罵倒語だと思ったが、自らの気分を落ち着かせるためには言わなければ気がすまなかった。エマは老人に聞かれたかどうかを気にしていたが、その心配がないことを知ると、今度は洋介を見た。喧嘩はやめてください。怖いです。そう訴えかける。
洋介はそんなエマの様子に不快感さえ覚えたが、彼女は争いを好まぬ性格なのだと考えると、悪いことをした気がした。同時に、何か不安を覚えた。
「とにかくさ、行こう」
エマの前を歩き始めると、エマは洋介の横についてきた。少し間隔のある、他人の距離。この距離感を維持すべきなのかそれとも二人はより近づくべきなのか、洋介は迷った。
街に出ると、洋介はまず花屋に寄った。美奈は家族で営んでいる小さな花屋で、今日も手を真っ赤にして花の整理をしていた。洋介が声をかけると、美奈は一瞬嬉しそうな顔をして、エマを見てから真顔になった。そっけない態度で花のほうを向く。
「今一番きれいな花って何?」
「花はみんなきれいですよ」
美奈は固い表情でエマを見る。エマは少し怖がるように離れて立っている。
「そうじゃなくて、一番旬の、一番お薦めの花」
「マーガレットならそうだと思いますけど。でも今時の花は温室で咲くから、旬なんてものはないも同じやと思います」
「そうなんだ。じゃあ、マーガレットを買おうか。ほら、あの円くて白いやつ」
洋介はエマに向かって笑いかけた。それを見てから、美奈は洋介に背中を向けた。洋介はマーガレットの数を確認してから、
「夕方、来るよ」
と声をかけて店の前を通りすぎた。エマがついて来ながら戸惑った表情を見せる。あの人は、どうしてあんな風なんでしょう? わたし、怖いです。
洋介はアスファルトの道をシンプルなスニーカーでゆっくり歩きながら、エマの顔を見下ろしていた。
「多分、君に嫉妬してるんだな。君が奴隷ってだけで、想像することは皆同じだ。美奈さんは、おれのことを好きみたいなんだ。でも、おれは彼女のことを何とも思っちゃいないから、どうしようもない。彼女はきれいじゃないから。だからこれからも今までどおり接するよ。どうせ君とおれとは本当に何でもないんだし。堂々とすればいいんだ」
エマは考え込むような顔をする。洋介はそれをからかうように、
「君はいつも何を考えてるのかな。深くものを考えたりするのかな」
と笑うと、彼女は唇をとがらせた。少しずつ、彼女は表情が豊かになってきていた。笑ったり、眉をひそめたり。彼はそれを愛らしいと思った。子供じみた仕草であるほど、不思議な安心感を得た。
二人が背の低い雑多なビル群の立ち並ぶ街を進み、多くの奴隷を含む人々と通りすがると、遠くからも見えていた大きなビルが見えてきた。あのガラス張りのような建物は、この街で有数のファッションビルなのだ。エマの目が明るくなる。全国的に有名なこのビルの名前は、エマのいた街にも届いていたのだろうか。そもそも、エマのいた街とはどこなのだろう。
「朝はおれ一人であそこに入ったんだよ。すごく恥ずかしかった」
エマがにっこり笑う。
「何でも買うわけにはいかないけど、当面いるものなら買うよ」
うなずいて、もう一度ビルを見る。
「半袖の服、長袖の服。あ、そうか。下着もいるね。さすがに下着は一人で買ってくれよ」
エマが、そんなことまで言わなくていいです、という顔で洋介を見る。彼は目をそらしてうなずいて、本当に言わなければよかったと思った。
ビルに入ると、照明が明るすぎるのかきらきらと辺りが輝いていて、二度目ではあるが、洋介は目がちかちかした。エマは興奮気味にさまざまな店を見回して、本当にいいんですか? という困ったような顔をして首をかしげた。洋介はうなずく。
「無駄なものじゃないんならね」
一階では下着や靴下を買い、上の数階では様々な洋服を買った。花柄のワンピースを買わなかった洋介の判断は正しかったらしい。エマは少女らしい服を買わなかった。水色の無地のTシャツやデニム生地のショートパンツなどを選んだのだ。街を行く少女はもっと着飾っているのに、と思っても、エマはそのような服が好きらしい。
一度、店員の冷ややかな視線を浴びた気がした。エマの耳の番号札は長い髪に隠れて見えないのだが、ふとしたときに透けて見える。服を見るエマのほうを、店員の若い女性は汚いものを見るような目で見、同時に洋介を一種の奇妙な目で観察した。いたたまれなくてエマを連れ出すと、彼女はわかっていたらしい顔をした。わたしは、悲しいです。そう言っているように見えた。洋介は自分の先程の行動とは矛盾していると知りながらも、堂々としていればいいんだよ、と諭した。それでもエマはうなだれている。だから彼は彼女の持っている紙袋を持ってやり、共に一階に降りた。
探していた店は、すぐに見つかった。洋介はその店に入ると、少し考え込んでから商品を選び、あっという間に会計を済ませた。店を出ると、エマが驚いた顔をして待っていた。
「これ、あげる」
彼が押し付けたクリーム色のビニール袋を開いて覗き、エマは目を輝かせた。嬉しいです、と訴えてくるその目を見ると、洋介は心がとろけていく気がした。
エマが袋から出して持っていたのは、口紅とマニキュアだった。口紅は銀色の土台に淡いピンク色の棒紅がはめ込まれているのが透けて見える作りだ。マニキュアもシンプルな瓶に入っている。真珠のような白い色。
エマが近寄ってくる。思ったよりもそばに。そうして、とうとう洋介に触れた。エマは洋介の左腕を取り、抱きついた。洋介はどぎまぎしながら、その柔らかで温かな体をそのままにした。エマは動かずに洋介を見上げた。少し照れたように微笑んでいる。彼はどうしていいのかわからず、とうとう彼女から離れた。
「人が見てる」
そう言うと、エマが悲しそうに首をかしげた。
「喫茶店に行こうか」
唐突だとは思ったが、気持ちを落ち着けるにはそうするしかないと思った。
ビルを出て、大型チェーンのコーヒーショップに入った。四角いテーブルが整然と並んでいて、人で一杯だ。先程のファッションビルと比べると、若い女性が少ない。だから、自然と奴隷を連れた富裕層もいくらかは混ざりこんでいる。洋介は中年女性が彼女より少し若いくらいの女奴隷を連れて座っている席のすぐそばにしか座れないことに気づいた。苦々しい思いでいたが、ここで躊躇していてはこの先もどうにもならないのだと考えて、そこを選んだ。
女奴隷は洒落たブランド物の首輪をつけて立っていた。清潔そうな格好をしていたが、主人と比べると格段に劣った格好をしている。主人である女は全身を上等の服で固め、文庫本を読んでいる。洋介は気にしないことを決意して、エマと向かい合って座った。
「結構買ったね。この紙袋、相当重いよ。中が衣類だと思えばね」
エマは先程からとても機嫌がいい。彼の言うこと全てに笑顔で答える。
「君は買い物が好き? 女の子は皆そうなのかな」
エマが考え込んでから浅くうなずく。
「少し好きってこと? まあ、そうかもしれないね。朝子もそんな風だった。やたらに買い物をしたがる女は頭が軽いってさ」
洋介が声を出して小さく笑うと、エマがどっちつかずの顔をした。多分、朝子の毒舌に賛成すべきか反対すべきか迷ったのだろう。
「朝子ってね、すごく口が悪いんだよ。一緒にスーパーで買い物をしてるとき、床に寝転がって足をばたばたさせて、何かを買ってくれって母親に向かって泣いてる男の子がいたんだけどね。そりゃあひどいもんだよ。壊れた機械みたいなきいきい声で叫ぶんだ。おれも困ってたけど、まあ他人の子だからなと思ってほったらかしにしてた。でも朝子は違った。子供のところにつかつか行って、うるさい! って怒鳴るんだ。辺りがしいんと静まり返ったね。子供も泣きやんで朝子を見た。おれははらはらした。子供の母親が、すごく険悪な顔をしてたからね。でも、朝子はそれに構わず、親ならどうにかしなさいよ、恥知らず! って、今度は母親に怒ったんだ。母親は黙ったまま、男の子を引っ張ってスーパーを出てった。男の子は素直についていったよ。きっと、ほしかったお菓子だかおもちゃだかのことなんて、忘れちゃったんだろうな。あとで朝子はこう言ったよ。あんな恥ずかしいこと、わたしが親なら絶対させないのにって」
エマは真顔になって洋介を見つめていた。洋介はそれを見て、笑った。
「朝子と結婚してたら、どうなってたんだろうな」
うつむいたエマは、手まぜをした。何かを言いたくて、言えない顔だ。
「おれの話ばっかりだね。君は、どこから来たの? どこに住んでたのかな。言いたくないならいいんだ。言いたいときに教えてくれれば」
「気持ち悪い」
低い女の声に、洋介とエマははっと顔を上げた。エマのすぐ斜め後ろの席にいる、奴隷を連れた女が洋介をにらんでいた。訛りのない言葉を放り投げるようにして、女は声を張り上げた。
「奴隷相手に話しかけるなんて気持ち悪い。独り言みたいなものじゃない」
洋介は言い返そうと立ち上がったが、店内の人々の好奇の目に囲まれていることに気づき、黙り込んだ。エマが彼のほうをじっと見ていた。帰りましょう。そういう目だった。彼は唇を噛んで紙袋を掴むと、エマの手を引いて店内をつかつかと歩いた。騒がしかった店の中は怖いほど静かで、彼は外に出るまで居心地の悪さを感じた。
「ごめん」
家に向かって歩く道で、洋介はエマに謝った。街は昨日の帰り道よりはずっと明るく、人も少なかった。
「おれはもっと堂々とするべきなのに」
このようなことが、エマを連れている限り起こりうるのだと考えると、暗澹とした気分になった。いっそこの番号札を外すことができたら。そう考えて、エマを売るという選択肢を思い浮かべていない自分に安心した。
エマはうなだれて歩いていた。化粧品の入った袋を、相変わらず大切そうに持っている。洋介は先程訊こうと思っていたことを思い出した。
エマがどういう風に育ったのか、知りたかった。決して本気で怒ることのない行き過ぎたまでの平和主義はどこから来るのか、それが訊きたかった。彼女はきっと幸せな育ちではないだろう。だから本当に訊くのはためらわれた。
「家に帰ったらさ、口紅とマニキュア、つけてみるといいよ」
代わりにそう声をかけると、エマは彼を見上げて、ありがとうございます、と目で答えた。ありがとうございます。あなたのこと、今は結構好きです。
洋介はうなずき、いつの間にか美奈の花屋に着いたことに気づいて、仏頂面の美奈からマーガレットの花束を買った。花束がエマの手に渡されるときの美奈の目には気づいていたが、彼はあまり気にしないようにした。




