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洋介は外から帰ってくると、大きな青い紙袋を居間の隅にある衣類用のプラスチックケースの上に置いた。そして腕時計を見て、小さく笑った。そのまま、居間を出て台所に入る。作りは古いのに、電化製品ばかりが新しい四角い台所が目に入る。四人がけのテーブルの向こうに行き、棚の上の小さな炊飯器を開いて覗き込む。うなずきながら、流し台に行って手を洗った。
人参と玉葱を手馴れた様子で刻み、沸騰しただし汁の中に入れて火を弱める。ついでに電気コンロのもう片方に載ったフライパンを温め、油を敷き、溶いた卵を広げる。たんぱく質の焼ける独特の匂いと音がゆっくりと台所中に広がる。卵が固まると、洋介は冷や飯をフライパンに入れた。ついでに、醤油と味醂と塩、胡椒を。最後に刻んだねぎを混ぜ、材料を均等にするのに集中していると、後ろでガラス戸の開く、木の玉が転がるのに似た音がした。
「おはよう」
そう言ったあと、フライパンのほうの火をとめる。振り向くと、エマは長い髪をまとめて片方の肩にかけて、気まずそうに立っていた。朝だからか、昨日よりも白い唇が尖っている。多分、恥ずかしさを隠す癖なのだろう。
「十二時か。すごいな。いつもこんなに遅くまで寝てるの?」
仏頂面で首を振るエマを、洋介は面白そうに見ている。
「おれは軽く朝飯を済ませて、買い物に行って、昼飯の準備をしてる。君は?」
唇が小さく結ばれる。からかわれることが不満なのか、目は洋介をにらむようにしている。洋介はにんまりと笑い、
「顔、洗えば? おれは味噌汁に味噌を加えなきゃ。炒飯、食べる? 君が朝起きないせいで余ったご飯で作ったんだけど」
と言った。エマはそのままの表情でうなずき、風呂場の手前にある洗面所に向かった。洋介は笑顔のまま味噌をスプーンで取って濾し器に入れ、だし汁に溶かし込んだ。今日の彼は機嫌がよかった。朝は何か複雑な気持ちで目覚め、自分の昨日の行為にひどい後悔を覚えたのだが、エマが安心したように眠っていることが彼を満足させた。本当に、おれはエマを妹のように可愛がることができるかもしれない。そうしたら、朝子は見つかるだろう。根拠のない自信が芽生えてきた。おれは彼女を相変わらず愛することができるだろう。
味噌汁が沸騰する前に火をとめ、洋介は味噌汁と炒飯をそれぞれ器に入れた。そのころにはエマも戻ってきていて、昼食は穏やかに始まった。とは言っても、会話はない。洋介が一方的に話すだけだ。
「おいしいだろ」
決めつけるように洋介が笑いかけると、炒飯をスプーンですくったばかりのエマは、不満な気持ちを強調するように目を大きく開いて首を振った。
「そっか。まだ食べてないもんな」
洋介は味噌汁椀に口をつけて飲むと、
「まあ、いつもの味だな。普通の味」
とつぶやいた。エマは味噌汁を飲んで、ちょっとうなずいた。彼がそれを見咎める。
「それはどういう意味?」
エマは首をかしげる。洋介は唇を斜めにして、食事を再開する。
「食事当番だけどさ」
炒飯を口に含んだエマが顔を上げて洋介を見る。白い顔。目を見開いて、子供じみた様子で咀嚼している。顎には小さな赤いにきびがぽつりとある。それを発見して、彼は彼女のことを完全な子供ではないのだと認識して戸惑う。
「食事当番を決めよう。今日はおれが作るけど、明日は君。明後日はおれ。明々後日は君。つまり一日交代だ。いい?」
こくん、とエマはうなずいた。どうやら食べていたものは飲み込んだらしい、食べるタイミングを待っている。
「料理できる?」
うなずく。
「本当に?」
そう言ってからかうと、エマはにらむような顔をする。洋介は本心から意外に思った。
「君くらいの子は料理なんてできないものだよ。すごいね」
エマは表情を元に戻して、右手の親指と人差し指を近づける手まねをした。
「『少し』か。でもおれだって少ししか作れないから、助かるよ」
うなずいたエマを、洋介はしばらく見つめた。おかしな共同生活が始まった。その実感だけが胸にあった。エマは洋介がものを言わなくなったので、遠慮を解いて食事をまた始めた。
洗面所の鏡の前に二人で並んで歯を磨いた。何となく、エマの警戒心はまた少し和らいだように見える。このまま徐々に近づいてくるのだろうか、と洋介は思った。エマは歯には並々ならぬ執着心があるらしく、うがいのあとも念入りに鏡を見ていた。女の子は容姿にこだわるからな。そう考えて、洋介は朝子を思い出した。彼女はこれほどにあからさまなこだわりは見せなかったけれど、身奇麗さにその片鱗は見せていた。
「ああ、そう言えば」
何をすればいいのかわからないといった様子でどこか遠くを眺めているエマに、洋介は声をかけた。彼女が不思議そうな顔をする。彼は、ぶかぶかの彼の服を着ている彼女が、急に哀れになった。
「居間にある紙袋の中に、君のものがあるから着ればいいよ」
エマは目を目一杯広げた。赤さが戻ってきた唇を、何か言いたげに開く。洋介は急に恥ずかしさを覚えて、ぶっきらぼうになった。
「とにかく着れば? 今のままの格好をしていたいの?」
エマは彼のほうを見ながら廊下に出て、居間に入った。エマが居間にいる間、彼は体温が上下するような錯覚を起こしながら台所の椅子に座っていた。
居間の襖が開く。エマは顔を赤らめて出てきた。ワンピースを着ている。半袖で、白地に緑色の木の枝が印刷された生地だ。洋介には少女の洋服の趣味がわからなかったから、上下を組み合わせる服は買えなかった。だからワンピースを買ったのだが、花柄の、いかにもイメージ上の少女が着そうなものは、朝子が「馬鹿みたい」と一蹴したことを思い出したから、やめた。結果、消去法で買ったに近いのだが、エマはとても嬉しそうにしていた。洋介が嫌になるくらいに。そろそろと近づいてきて、洋介の手を取り、湿ったてのひらで包んだ。それから彼の目を輝いた目で見る。彼は思わず目をそらして、こうつぶやいた。
「君が自分で選ぶべきだけど、服を買いに行くには服が必要だっていう、ややこしい問題があってさ。気に入ってくれてよかったよ」
エマは、笑った。唇を三日月形にして。洋介は最初、そのことをそれほど重大な出来事だとは思っていなかった。しかし、エマが手を離してぬくもりが消えた途端、はっとして彼女を目で追った。彼女は居間に戻り、両手で女物の白いスニーカーを持って出てきた。また笑っている。目尻が下がって、より女性的な顔になっている。ありがとうございます。その目はそう言っている。あなたのこと、少し好きになりました。
洋介は中学生のように口ごもり、うなずくと、
「パンプスを買おうと思ったけど、サイズが合わないと辛いっていうから。スニーカー、好き?」
エマは彼を見つめながらうなずいた。笑顔は消えていない。彼はどうしようもなく動揺して、
「よかった」
とつぶやいた。
エマのものを買いに行くに当たって、彼女の髪の問題を彼女自身が指摘した。肩に流している長すぎる髪を、指差して教えたのだ。そのころには彼のうろたえ方も落ち着いてきていたが、それまでそのことに気づかないくらいではあった。彼女は髪の束を指差しながら、唇をとがらせた。昨日言ったじゃないですか。髪を切ってくれるんでしょう? 前髪も、作ってくれるんでしょう? 実際、彼女は眉の辺りで手をかざして示していた。洋介はやっと気づき、うなずいた。そういえばそうだった。しかし、自分にこの子の髪を切ることができるだろうか。昨日は当然できるものだと思っていたけれど。
「切ろうか。玄関で切ればいいよ。掃除が簡単だ」
エマは早速居間に戻り、どこからか鋏を持ってきた。
「風呂敷、あるだろう? それ持ってきて」
洋介が言うと、エマはもう一度居間に戻って青いシンプルな風呂敷を持ってきた。洋介は受け取ると、ぎこちなくエマに笑いかけた。
「これを肩にかけて、髪を切れば服にかからないから」
エマはうなずき、にっこりと笑った。
台所から椅子を持ってきて、玄関の床になっているコンクリートの上に置いた。エマはドアに向かって座る。洋介は彼女の髪を持ち上げ、一瞬見えたうなじから目をそらし、風呂敷をエマにかけて前で結び、彼女が持っていた豚毛のブラシを手に取った。これも、今日彼女のために買ってきたものだ。店員にあれこれ薦められて、違いがわからぬまま一番高いものを買ったのだった。エマの柔らかい髪を、毛先から梳かす。昨日の濡れた髪とは違って、ふわふわと、彼の手にまとわりついてくる。洋介は次第に無心になっていった。腰の位置まである髪が揺れて、洋介の足に時々触れる。それでも、頭頂の髪を梳くまで彼は何も感じなかった。耳に通した番号札が気になりはしたけれど。
鋏を手に取り、髪を切ろうとして、洋介はエマがどれくらいの長さを望んでいたか、わからなくなってしまった。小声で聞く。
「背中くらいの長さでいい?」
エマが振り返らずに小さくうなずく。洋介に全身の強張りが戻ってくる。エマの髪を切る。それだけのことがおかしなことのように思えた。
おれは、この子とは他人の関係だ。なのに、何故こんな風に彼女の髪を切るのだろう?
鋏を地面とは水平にして、真っ直ぐに切る。細かな硬い手ごたえが伝わってくる。もう一度、切る。もう一度。七回鋏を入れると、彼女の髪はすっかり短くなってしまった。それでも、きっちりと揃っていて美しい。床の上を見ると、彼女から離れ落ちた髪の毛がばらけて黒く積みあがっていて、もったいない気がした。
「次、前髪切ろうか」
洋介が言うと、エマは椅子の上で姿勢を変え、その背もたれに寄りかかって、洋介と向かい合った格好で正座をした。当たり前のような顔で目を閉じて前髪を切ってもらおうとしているのを見て、洋介は胸が苦しくなった。
おれは信用されている。どうしてだろう?
彼は戸惑いながら、前髪になる髪に青い櫛を入れると、顔の見えなくなったエマの前で鋏を入れた。真っ直ぐに。再び顔が見えてくると、彼はエマを初めて本当に美しいと思った。そうすると彼は、恐ろしくなって彼女から離れそうになった。それでも彼女は無心に彼の彼女への行為に身を任せているので、揃った前髪に丁寧に鋏を入れて毛先をばらけさせる作業に戻るしかなかった。
「終わったよ」
エマが目をぱっと見開いた。黒い瞳を見るだけで、ほっとするようだった。子供に戻った。そういう気がした。彼女は自分の周りの髪の毛を見て、彼を見上げた。ずいぶん切ったんですねえ。そう言いたげな表情で、彼女はもう一度しげしげと床を見た。
「すっきりしたね」
エマはうなずく。
「片付けて、出かけようか」
もう一度、うなずく。
彼が椅子を持って台所に行くと、エマは下駄箱に寄りかかっていた箒で髪の毛を掃いてゴミ袋に入れてしまっていた。それらが自分の一部だったことを忘れてしまったかのように、エマは無造作にそれを床に放り出し、やれやれといった具合に玄関の上がり框に座った。洋介は自分の格好が清潔なTシャツにジーンズ姿であることを確認し、エマが小さな裸足にスニーカーを履くのを見て、外に出ればこうまで気詰まりではないだろう、と考えた。外に出れば、全てが解決するだろう、と。




