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玄関に入った途端に、エマは急に大人しくなった。それでも洋介は苛々しながら電灯を点け、先に靴を脱いで短い廊下から一つの部屋に入った。この家はかび臭い。それに狭くて古い。何もかも旧式で、不便だ。それでも四ヶ月も住めば慣れてくる。洋介が入った部屋は、家の奥にある居間だった。テレビはなく、銀色のノートパソコンが一台、古いちゃぶ台に載っているきりだ。床は黄色くなった畳で、八畳程度の広さだ。洋介は閉じたノートパソコンの前にどすんと腰を下ろしてあぐらをかき、横目で黄ばんだ襖を眺めた。それはゆっくりと滑り、エマがのろのろと入ってきた。うつむいて、不安そうに。
「何がそんなに不安なわけ? おれはそんなに信用ならない?」
ただ立ち尽くすエマを見て、洋介はため息をつく。
「今の質問、首を振るだけでいい質問だったよね」
エマの赤い唇がぎゅっと結ばれ、涙がぽつりと畳に落ちる。彼女はそれを懸命に手で拭こうとする。
「君ってすぐ泣くんだね。君くらいの女の子はよく泣くんだろうけどさ。でもおれとしては泣かない女の子のほうが一緒に暮らしやすいね。どうにかならない?」
洋介の辛辣な言葉のためにエマは涙がとまらない。それでも嗚咽を漏らしはせずにただ耐えている。洋介はまた大きなため息をついてつぶやいた。
「風呂に入ってきなよ。もう夕方だし、君はそんなに清潔じゃない。瓶はあまりきれいじゃなかったからね。着替えは脱衣所に用意しておく。話があるから早く入っておいで」
エマは少し戸惑ったように洋介を見た。青ざめていて、目が真っ赤だ。洋介は虫を追い払うような仕草で、エマを部屋から追い出した。彼女はまたのろのろと、家の一番奥にある風呂に向かった。洋介はじっとしていたが、ようやく腰を上げると、部屋の隅にあるプラスチックの衣類ケースをかき回し始めた。
エマが風呂から上がるときには、洋介の機嫌は直っていた。ぶかぶかの男物のTシャツとハーフパンツを着た彼女を、洋介は笑って迎えた。
「思った以上に君は小柄だね」
エマはただ戸惑ったように濡れた髪を撫でた。洋介はちゃぶ台に載っていたプラスチックの青い櫛を差し出す。エマはそれを受け取ると、立ったまま髪を左右に二つに分け、梳かし始めた。水滴がぽたぽたと落ちる。そのたびにエマはタオルで髪を拭く。しかし長すぎる髪は腰ほどもあり、今まで櫛を通していなかったのだろう、すぐに絡まってしまった。洋介はエマを畳に座らせて、自ら櫛を持った。エマがおどおどと恐れているのも構わず、毛先のほうから少しずつ梳かした。
「君、女の子なのに髪の扱い方も知らないんだね。長い髪は毛先から順々に梳かしていくものだよ」
柔らかな細い髪は、濡れてつやつやと輝いている。エマはこわばったように動かない。
「いつから長くしてるのかな。この長さじゃずいぶんほったらかしにしてきたんだろうね。明日、切ろうか。長い髪を少し短くするくらいならおれにだってできるよ。前髪も作ったほうがいいね。君は童顔だから、そのほうが似合うかも。山口小夜子みたいなおかっぱ頭でもいいけど、君は長いほうがいいんだろう?」
エマが初めて反応して、こくりとうなずいた。
「君のものが色々必要になるね。服と靴。ヘアブラシだって必要だ。おれはこの櫛しか持たないから。おれはそんなに裕福じゃないから高いものは買えないけど、女の子が喜ぶような店で君の買い物をする余裕はあるよ」
エマは少し考え込むように、頭を少し沈めた。洋介はそれに構わず櫛を置き、彼女が首にかけているタオルを取って彼女の髪を優しく拭いた。洋介は既視感を覚えながら、口をついて出た言葉に動揺した。
「女の子の髪の拭き方も、梳かし方も、ヘアブラシのことも、山口小夜子のことも、全て朝子に教わったんだ」
エマが振り向き、首をかしげる。洋介は、彼女が朝子のことを微塵も知らないことにやっと気づいて愕然とする。自分の中にあまりにも浸透した事柄であるだけに、誰もが知っていることのように錯覚していた。洋介は、動揺しながらも最初の言葉に引き出されるようにして続けた。
「朝子のことを、君は知らない。でも、知っておいてほしい。おれはできるだけ自分の中のことを人に話したくないけど、これから一緒に暮らす君には知っていてほしいんだ」
エマは、洋介の顔を無心にじっと見つめている。洋介は戸惑うように自分の首を掻き、頭の中にある言葉を整理して、話し出した。
「朝子は、おれの恋人なんだ。美人だよ。君と比べてどっちがきれいかな。背が高くてほっそりしている。声は明るいアルトって感じ。髪型は、出会ったときは長くて、最後に会ったときはかなり短かった。こういう外側の情報を君に与えても、君は戸惑うだけだと思う。けど、朝子のことを話すときは朝子の情報をできるだけ言いたくなるんだ。こうやって確認してるんだろうな。朝子の姿を。彼女の姿を思い出せなければ、この旅は無意味になってしまうから。朝子は、強かったよ。滅多に泣かない。彼女の十代のころを知らないけど、きっと泣かない女の子だったと思うよ。あと、何事であっても弱音を吐かない。これは困った癖だった。おれに相談をしてくれないんだ。だからあんなことになったんだと思う」
洋介は、一旦話をやめて深呼吸をした。怒りが、彼の胸の中に甦ってきたのだ。
「朝子は奴隷になった。父親の小さな工場のためにね、自分を担保にして借金したんだ。変だよな。何で朝子が? 親父が借金すればいいんだよ。それとも、家族の大部分を救うための犠牲ってやつなのかな? 十年くらい前から、世界中で奴隷制度が流行りだした。一つの国が成功を収めれば、他の様々な国で真似しだした。この国も例外じゃない。この制度は人間を人間でなくする制度だ。人間を奴隷という道具にするんだ。でも奴隷でない側も例外じゃない。人間のくせに人間を道具として使っていくうちに、自分の中にある人間の定義が曖昧になる。だから今、街はめちゃくちゃなんだ。この好景気も、奴隷制度が始まってからしばらく続くだけの泡のようなものに違いないのに、街の、奴隷でない連中はそれに気づかず浮かれ騒いでいる。君が中川に弄ばれそうになったように、奴隷を好きにしている。金さえ持っていればいい。金を持たない奴は人間として資格がない。そういう価値観なんだよ。でも、そうかな? いつかしっぺ返しが来るよ。見ものだな」
エマは洋介を見ている。洋介は、彼女が奴隷制度のいけにえであることを感覚として忘れていた。話を聞いてくれる、ただの人として見ていた。
「おれは、いい大学を出て、いい会社に勤めていた、ただのサラリーマンだったんだよ。朝子は、よく行く喫茶店のウエイトレスだった。仲良くなって、恋人になって、週末にはいつも公園で会った。朝子は感性の鋭い女で、ちょっとしたことの中で気づいたことをおれに話してくれた。面白かったよ。彼女にかかると、世の中は質量が小さくなっていくように感じられるんだ。世の中は面白い、難しいことなんかないものだって思えてくる。彼女は毒舌家だった。彼女に友達が多くなかったのは仕方ないね。きついからな、言うことが。おれのこと、最初はきゅうりみたいだと思ったらしいよ。細くて頼りなさそうだってさ。今も変ってないと言ってたっけ。最後に会ったときにね。彼女、泣きもしなかった。明日、わたしは奴隷になる。そう言って終わり。おれだけがヒステリックになって、終わりだ。逃げ出す努力もしたんだよ。でも朝子のほうがおれから逃げて、期日の『明日』になる前に女衒みたいなやつらに自分を引き渡して、全ては台無しになった。きっと、家族を守るためだろう。あんな家族、守る価値なんかないのに。彼女がいなくなると、奴らは彼女の荷物をごみとして出したんだ。奴隷の身内が恥ずかしくなったんだろうな」
洋介はまた深呼吸をした。今度は震えのある呼吸だった。
「おれは、会社をやめてあちこちを巡った。関東を最初に探して、次に関西。東北。北海道。中国。四国。で、ここ九州に転勤になった友達が、朝子を見たというからやって来た。今まででは一番有力な情報だったから、おれは四ヶ月もここにいる。奴隷は決まった地域でしか買えないし、飼えないけど、それならこの街にい続ければ、彼女に会える気がする。ここは九州で最大の奴隷の街だ。いつか、必ず。買うんだよ。恋人を買うなんておかしな話だけど、そうするしかない。買って、昔のような暮らしをする。公園で、彼女の諧謔的な言葉を聞いて、おれは笑う。意地の悪い言葉を吐く彼女を、おれは諌める。それだけでいいんだよ。でもね」
エマが完全に洋介に向き直っていた。黒い瞳で、じっと見つめている。洋介は彼女の視線を浴びながら、小声でつぶやいた。
「奴隷になった彼女を、おれはまた愛せるだろうか。怖いんだよ。中川の話を聞いたり、奴隷倉庫の奴隷たちを見たりすると、怖いんだ。あんな風になった彼女に、おれは昔のように接することができるだろうかと」
エマは、ぼんやりと洋介を見つめていた。洋介は、虚ろな目つきで最後のため息をつき、エマに話してよかったのだろうかと考えた。ふと見ると、エマはまた涙を流していた。糸のように真っ直ぐに、細く落ちていく。涙の意味がわからない。自分や朝子への同情ではないように思えた。洋介は困ったようにエマの頭をぽんと叩き、
「寝ようか」
と声をかけた。
洋介が風呂から上がると、居間の隣にある仏間に敷かれた布団の中で、エマは目を開けて待っていた。洋介はふと妖しい胸騒ぎに襲われたが、伏し目がちになって笑い、
「おれは何もしないって言ってるのに」
と声に出した。エマはこくりとうなずき、今度は、目を閉じた。白い、小さな顔。幼いけれど色香の漂うこの微妙な年齢の少女と暮らすことを考えて、妙な恐れに似た何かが心中に芽生えた。この顔に口付けをしたらどうなるだろう。そう思うけれど、洋介は首を振る。それは全ての崩壊を意味した。朝子のことも、自分の矜持も、全て台無しになる。そしてエマを奴隷としてそのように扱えば、たちまち自分の中にある人間への信頼をなくす。最後には、自分が何者であるかということさえわからなくなってしまうだろう。それは、何よりも恐ろしいことだ。
「おやすみ」
そう言って洋介は襖を閉じ、居間の電灯を消して畳の上に寝た。毛布一枚で済む、心地いい涼しさだった。明日を考えるな。洋介は目を閉じたまま、自分に命じた。




