2
奴隷倉庫にあった、大きすぎる赤いワンピースに穴の開いたスニーカー。それらを身につけた少女は、ひどく怯えたようにおどおどとしていた。洋介を恐れている。それどころか、この街全体を怖がっているのだ。
秋の夕暮れの街。背の低いビルが雑然と並んでいる。大通りの真ん中を、日本車と外国車が同じ割合で入り乱れて走る、裕福な街。それは街を行く人々の服装や振る舞いでもわかる。色のはっきりした服に、派手な化粧、きっちりした髪型、背筋を真っ直ぐにした歩き方。これらは人々の自信の現れであるように、洋介は思った。自信の元は、彼らが連れている存在でもあるだろう。奴隷。裕福な人々は太い首輪をつけた人間を連れて歩いている。
人間、と呼ぶべきだろう。洋介は自身に確認する。彼らを人間と呼ぶことをためらってしまう瞬間が訪れることを、彼は恐ろしく思う。彼らが人間でないなら、朝子は何なんだ、おれは何なんだ。人間が二つの存在として分かれるという事態は、一体何なんだ。洋介は、片方の手に少女のほっそりした手を握り、もう片方の手をこぶしにして、自分に向いているのかどうかもわからない怒りを吐息に任せた。それを見た少女が、一瞬立ちどまる。洋介ははっとして、また歩き始めた彼女を眺めた。
おれはこの子を買った。何のために? 怒りのためだ。考えすぎたせいだ。考えてはいけないと、自分に何度も言い聞かせていたのに。この子をどうするつもりだ。飼うのか? 他の人々のように。人間を動物のように飼うのか?
苦悩を表情ににじませた洋介の視線を浴びて、少女はうつむく。すると、髪の毛に隠れて見えなかった、耳の穴に通した番号札が見える。洋介は、何か決定的なものを見せられた気がした。
おれは人間を買った。もののように、買った。その事実はもう白日の下に晒されているのだ。番号札をつけ、みすぼらしい格好をした少女を連れている。その姿は丸きり、街の連中と同じだ。
自分は違う、というはっきりしていたはずの意識が、揺らいだ気がした。洋介はいきなり少女とつないでいた手を離した。
「子供じゃないんだから、一人で歩けるだろう?」
洋介がそう言い放つと、少女は困ったように立ちどまった。目で訴えてくる。わたしは奴隷です。そう話しかけてくる。主人の言うとおりにしないといけない存在です。そう聞こえる気がする。わたしを野放しにしないでください、お願いします。
「君は奴隷でありたいの?」
洋介の苛立った声に、少女は怯えたような顔を向けた。肯定もしないし否定もしない。歩道を歩く周囲の人々の目が、少女に向けられている。その視線はすぐに流れて消えていくものだが、少女はそれを恐れている。洋介はそのことにやっと気づいた。
「ごめん。人気のないところで訊くべきだったね」
少女は驚いたように目を丸くする。洋介は自分の発言が、奴隷に対するものとしては優しすぎることに気づいた。しかし、次の瞬間には彼はにっこり笑った。自分のやり方は間違っていないと、直感に似たものが訴えかけてきた。
「おれは君のことをひどく扱う連中とは違う。君をいじめて喜んだり、君に限界を超えた労働をさせたりしない。もちろん君の体を弄んで楽しんだりも、しない」
最後の言葉を口にした瞬間、派手な服装をした女奴隷とその主人が通り過ぎた。二人とも、洋介を驚くべきものであるかのように見つめていた。それが洋介をさらに満足させた。この街の常識に反することをしていれば、自分の矜持が守られる気がした。それならば、朝子を探し続ける自分の像をいつまでも見ていられる。朝子を諦めずにいられる。
少女を連れて、洋介は機嫌よく歩いた。様々な奴隷がいた。先程の女奴隷のような、肉体美を備えた若い奴隷。荷物持ちをする、年齢不詳の男の奴隷。中には妊娠した奴隷もいた。このときばかりは、洋介も眉をひそめた。女主人に連れられて、ボールのように膨れた腹を抱えてよろめきながら歩く。その姿には、一瞬彼の誇りを傷つけるようなものがあった。
「最近は、妊娠すらも奴隷に任せるんだ」
少女は自信なさげにとぼとぼと歩いていたが、それを聞いてそっと洋介を見た。黒い瞳が、青みを帯びた白い眼球から浮き出ている。そう見えるくらい黒さが印象的な瞳だ。迫力があるような類の目ではないのに、何か、惹きつけられる。
「妊娠って、大変らしいね。おれは女じゃないからわからない。君だって若いからわからないだろう?」
少女はうなずく。そしてもう一度彼を見る。黒い瞳で。
「そういうわけで、最近の富裕層の流行は奴隷に自分たちの子供を産ませることなんだ。簡単だよ。受精卵を奴隷の子宮に着床させればいい。そのまま奴隷のコンディションに気をつけていればいいんだ。自分たちは楽しいだけのセックスをすればいい。実際、精子をしかるべき場所で採取したあとは、男のほうは精管を切除してしまうらしい。安全なセックスのためにね」
少女は青ざめた顔を彼からそらして、うつむいた。洋介はそれを見ながら、怒りをにじませた。
「人間であることと人間でないことは、同意義になりつつあるよ。おかしな世の中だ」
洋介はしばらく黙って歩いた。少女はその一歩後ろにつき従いながら、洋介の発言を待った。待たれているということが、洋介を少し困らせた。
「奴隷はしゃべらないものなの?」
少女は少しためらい、うなずいた。黒い真っ直ぐな髪がさらさらと揺れる。
「しゃべっちゃいけないの?」
もう一度、うなずく。
「おれが許すから、しゃべりなよ」
少女はそれを聞いて、何故か切なげな顔をした。もどかしそうに手まねをして、何かを言いたがっている。洋介はため息をついた。
「中川たちが怖いの? 街の連中の視線が怖いの? どうってことないよ。しゃべりなよ」
洋介は自分が何か悪いことを言ったことに気づいた。少女が泣きそうな顔でうつむいているからだ。慌てて、彼女の目の前に回りこむ。
「泣くなよ。何で泣くの?」
どこか幼い仕草で、少女は首を振った。洋介は彼女の肩を抱いて、あやすようにしながら歩き始めた。この子は、子供だ。おれは子供を背負い込んでしまったのだ。
「嫌なら、いいんだよ。ごめん。謝る」
少女は小さくしゃくり上げながら、洋介に身を任せていた。警戒心の壁は、一枚はがれ落ちたようだ。洋介は少しほっとしながら道の先を見た。そして、気づく。
「まずいな」
洋介の呟きに、少女は不思議そうな顔をする。洋介は彼女を見ながらもう一度つぶやいた。
「まずい」
薄暗くなった街は、少しずつ眠る準備を始めていた。会社から家に向かう会社員、主人の子供を迎えに行った帰りの奴隷、店じまいをする商店の人々。その中に、美奈はいた。洋介を見て、完全に自分のしていることを忘れている様子だ。花の入った銀色の缶を持ったまま、とまっている。洋介は少女から体を離し、美奈に近づきながら、笑顔を作る。夕方の光のために、花々はまるで絵に描いた静物に見える。
「久しぶりだね」
美奈は少女のほうをじろじろと見て、信じられないといった顔で彼のほうを向いた。洋介は、そうだろうな、と思う。美奈は、彼のことを朝子という哀れな女性を捜し求める悲劇の主人公であるかのように考えているからだ。
「どうしたんですか」
いきなり詰問調の声が響いた。洋介は少し、げんなりする。
「これは、この子は、違う人でしょう。あなたの恋人ではないでしょう。何で買ったとですか。何か理由があるとですか」
方言の入り混じった敬語で、美奈は一気にまくし立てた。洋介はその間考え事をしていて、彼女には何かしかるべき言葉をかけようと思っていた。
「奴隷ば買って、どがんするとですか」
「ええと」
洋介はちらりと少女を見た。彼女は完全に美奈の様子に怯えきっている。
「奴隷じゃないよ」
「え?」
少女が彼を見上げた。どうするつもりですか? その目は言っていた。
「妹の、エマ。今日から一緒に住むんだ」
「何で嘘ばつくとですか。その格好はどう見たって奴隷じゃなかですか。わたしば馬鹿にしとっとですか?」
「いや。うーん」
少女が洋介をしきりに見る。ほら、駄目だったじゃないですか。正直に言いましょう。わたしが奴隷だって。そうすれば丸く収まります。
「エマは奴隷じゃない」
「また嘘ばついて」
「おれがそう思いたいだけだけど、君もおれにそう思わせてくれないかな。少なくとも、そういうことにしてほしい」
美奈が黙る。視線が洋介と少女の間を行ったり来たりしている。迷っているのだ。
「ほら、君はこの街では唯一の友達だし」
「わかりました」
洋介がほっとした顔になり、少女は首をかしげた。美奈はどこか不愉快そうな目で彼女を見ている。
「でも、その子ばどがんするとですか? 育てるとですか?」
「それは」
洋介は一瞬黙り、また美奈の顔を見た。
「まだ、決まってない。何も決まってないんだよ」
「何、それ」
「君に軽蔑されてもしかたないね。本当に。でも、どうしようもないんだよ。買ってしまったからにはね」
思わず口をついて出た「買う」という言葉に嫌悪感を覚える。
「おれは、この子を助けたいと思って買った。買ったからには責任を持たなければいけない。多分」
彼は少女を見下ろした。彼女はどこか不安げに立ち尽くしている。
「多分、いつか彼女を手放すことにはなるけど」
少女は彼を見て、濡れた目で視線を送った。そうなんですか? わたしはいつかまた流れるのですか? わたしはまだあなたを信用してはいないけれど、何だか悲しいです。
彼はそんな少女の目を見て、言葉を失った。続きが頭に浮かばない。
「そうですか」
美奈がため息をつきながら、地面に置いていた缶を持ち上げた。
「そうすればよかですよ」
「うん」
彼は美奈と少女の両方を見ながら、うなずいた。
「そうするしかないからね」
美奈は何でもなさそうに作業を始めた。洋介はそれを見て、もう潮時だと気づいて歩き出した。そのあとを少女が追う。
「今日の美奈さんは少し感じが悪かった。いつもはああじゃないよ。すごくよくしてくれるんだ」
大通りから、細い道に入る。少女は少しためらい、歩調を合わせてついて来る。
「花なんて、一度買ったきりなんだけどね」
その花は、朝子の写真にささげたのだった。大きな白い、カサブランカ。そうしてから、洋介はすぐに嫌な気分になって花を捨てた。遺影じゃあるまいし。彼は笑ってつぶやいた。そのあと、少し泣いた。重い空気に押しつぶされそうになり、それがすぐに終わるとは思えなくなってきたころのことだった。
美奈にとうとうと事情を話すと、彼女は彼に同情した。彼が月に一度、奴隷倉庫に向かうとき、美奈は彼を元気付ける。自暴自棄になって帰っているとき、彼女は彼を励ます。四ヶ月の滞在の間に、洋介と美奈は至極真っ当な友情を育んでいた。しかし、今回のことで見放されてしまったかもしれないな、と洋介は苦笑した。
少女が洋介をじっと見つめている。注意深く、彼の表情を観察している。彼は思わず声をかけた。
「エマ」
少女が首をかしげる。洋介は少し考えて、
「エマって呼んでいい?」
と訊いた。少女はじっと考えている。
「君の本名を教えてくれるの?」
少女は首を振る。また手まねを始めそうになったので、彼はそれを押さえてやめさせた。
「わかってる。君は事情があって話せない。文字も書けない?」
少女がうなずく。ほとんど仏頂面だ。
「わかった。でもそれならエマって呼ばせてよ。名前がないものと、どうやって暮らせばいいんだよ」
少女は首をかしげて考え込み、やがて彼の目をじっと見つめた。それでいいです。その目はそう言っていた。
「一瞬思い出したんだ。『笑まひ』って言葉。微笑むことって意味だよ。いい名前だと思うよ、自分でも」
「エマ」と名づけられたばかりの少女は、彼が話すのをじっと聞いていたが、道がさらに細くなり、やがて小さな家が曲がりくねった小川沿いに多く立ち並ぶ街並みに入ると、不安を表情で示した。
「何?」
洋介は笑いながらその中の一軒に入ろうとしていた。木造で、壁は茶色いトタンで覆われている。新しいとは決して言えない陰気な家。ここは、彼の仮の住まいだった。エマはそこに入るのをひどく恐れていた。彼はその不安をやっとのことで感じ取り、不愉快になった。
「おれは、違うんだよ、エマ。他の連中とは違うんだ。言っただろう?」
エマは唇をぎゅっと結んで、子供のようにいやいやをした。彼は苛立ち、彼女の手を握り、
「腹が立つな」
と彼女を暗い玄関に引っ張り込んだ。




