16
耳に下がる札に、洋介は緊張気味に触った。赤い札には、番号が書かれている。これがエマを表す数字だと考えても、ぴんとこなかった。洋介は畳の上に転がっていた鋏を手に取り、用心深くそれを切った。ああ、切ってしまった、と思ったが、手をとめず、そっとビニール紐を抜いた。エマが片目を細めているが、それは長いビニール紐が耳の穴を通る感じが嫌だからだろう。とうとう抜けた。これでもう洋介は犯罪者だ。
黙って、ボストンバッグを持つ。エマもそうする。思い出したように彼女はマーガレットを持つ。そんなもの、と洋介は思うがとめる理由もない。エマは彼が歩くのに従って、玄関に行き、靴を丁寧に履いた。
街を歩いていると、この夜に歩く全ての人がこちらを見ているような気がした。それは気のせいだとわかっているが、恐ろしかった。幸い駅は美奈の花屋とは違う方角にあるので、洋介はほっとした。
暗い道を黙々と進む。洋介は何も言わない。エマも何か言うことを求めたりしない。街灯の灯りが二人を照らすたび、洋介の気持ちは激しく揺れ動いた。
犯罪者か。
そう考えたが、エマを振り向くと彼女は無表情に歩いているので、彼女が喜びを抑えているように思えて憎らしいと同時に哀れになった。彼女を守るのは彼に課された使命だ。やりとげなければならないだろう。
駅に近づくと、道が広くなってきた。ロータリーの向こうの横幅のある階段を上り、洋介たちは駅の構内に入った。人が少ないのは夜だからだろう。洋介は青い電車の切符を買うため、カウンターに向かった。
青い電車の切符を買うとき、駅員に、
「目的は?」
と訊かれた。目つきの鋭い男で、彼は少し怯えた。全てを見透かされたらどうしよう、と思ったからだ。
「帰郷です」
うなずいた駅員は笑顔だったが、目つきは鋭いままだった。
改札は、普通の駅とは違って、国際空港のそれに似ている。洋介は自分のパスポートを渡したことを忘れて、背後のエマのことばかり考えていた。パスポートを返されてようやくエマの番になると、気が気ではなかった。しかしエマを見れば怪しまれる気がしてそれどころではなかった。
エマの番が終わって彼女が洋介の横につくと、エマは平然とした顔をしていて彼は面食らった。もっと怯えていると思ったからだ。歩いて、ホームに向かう。気づくと、エマは彼の手を握っていた。その手は小刻みに震えていた。洋介はやっと安心した。
青い電車は彼が乗ってきたときのものによく似ていた。よく磨かれた清潔な外観。先端は見えないが、きっと人間の顔を連想させる姿をしている。彼はエマを連れて電車に乗った。灰色の内装。席は空いている。入り口近くの席を選んだのは優美を見つけるためだ。彼女次第で、今後のことが決まるような気がするからだ。
洋介が改札側に面した窓際に、エマが通路側になって椅子に座ると、間もなく優実が現れた。続いてつばの広い帽子を深く被った女。では、この女が奴隷か。とてもそうは見えないくらい、堂々としている。優美と女は離れた席に座った。優美は通路を挟んで洋介たちの反対側の席に。女はエマの前の席に。
ようやく出発できる。そう思って安心していると、ホームに駅員を連れた美奈が現れた。ぎょっとして見ていると、美奈は洋介を指差す。声が聞こえてくる。
「奴隷がいます。マーガレットを持ってるから、捕まえて」
エマが震え始め、彼の手を強く握った。駅員が二人、やってくる。電車内が騒然となる。
不意に、前に座っていた女が、身を乗り出してエマのマーガレットを奪った。同時に駅員が乗り込み、女は立ち上がる。
「わたしです」
女は言った。明るいアルトの声だった。
「わたしが奴隷です」
駅員たちは拍子抜けしたように顔を見合わせ、それから女を横から挟んだ。
「馬鹿なことをしたな」
「ええ、本当に」
女が明るく笑って答えると、不愉快そうな顔をした駅員の一人が彼女を押した。
「早く降りなさい。ここは奴隷を運ぶ貨物室じゃない」
女が降りていく。振り返りもせずにホームを降りる。それを見た美奈が、半狂乱になって叫ぶ。
「違います。本当の奴隷はその女じゃない。奴隷はまだ中にいて」
駅員が困ったように美奈を見て、何かを説明する。周囲の人々は狂人を見る目で彼女を見ている。聞こえてくるのは彼女のヒステリックな声ばかり。
「違う。違う。違う」
電車のベルが鳴り、扉が閉まる。美奈が飛び出す。追いつく前に、電車は走り出した。段々、加速してくる。
洋介はひたすら泣いていた。握ったエマの手を額に当てて。
「朝子だったよ、エマ。あれは朝子だった」
エマが驚いて彼を見る。彼は泣きじゃくり、エマのひざに顔を埋める。静かに、彼は泣く。
「おれのせいだ。全部おれのせいなんだよ」
エマは彼の頭を撫でた。彼が彼女を見ると、彼女は声もなく、涙の筋を作っていた。
《了》
本当に伏線を投げっぱなしジャーマンですみません。突っ込みまくってくださると嬉しいです。
2011.12.30.花木静




