表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/16

15

「準備をしよう。エマ、あまり荷物は多くないほうがいいよ。夏服なんかは置いていこう」

 エマはじっと立っている。洋介は苛立ちながら、衣装ケースの向こう側から茶色くて古いボストンバッグを取り、自分のものを詰め込み始めた。もう一つ、小さめの白いボストンバッグを見せると、エマの足元に放った。

「早く。急がないといけないだろ?」

 エマが近づいてきた。何の用だろう、と訝っていると、彼女は彼の首に手を回し、顔を近づけ、頬に口づけをした。彼が驚いていると、彼女は真顔のまま目で何かを尋ねた。彼は動揺したが、わかったようにうなずいた。

「大丈夫だよ。おれは君と行く」

 彼女はしばらく彼の前で伏し目がちになっていたが、やがてのろのろとボストンバッグを拾いに行き、隣の仏間に入っていった。衣擦れの音が聞こえ始め、どうやら衣服を詰め込んでいるらしい。彼のほうも、急いでテーブルの上のノートパソコンを詰め込み、並んでいた大量のマニキュアの瓶を放り込んだ。

 彼の準備が終わると、彼女は限界近くまで膨らんだボストンバッグを持って立っていた。ふと、気づく。

「前髪、伸びてるね」

 彼女は困惑したように彼を見た。彼はそれに構わず、自分のボストンバッグの中に入っている鋏と櫛とヘアブラシを取り出した。

「切ろうよ」

 彼が笑いかけると、彼女は少しだけそれに応じたことを示す笑顔を作り、好きにすればいい、と言わんばかりに手を畳について目を閉じた。彼はうっとりとする。彼女の顔をこうして眺めるのが何度目かはわからないが、この時間はとても甘美だ。彼女は彼を信頼している。それがとても美しいことのように思える。初めあれほど戸惑った彼女の信頼が、今はとても心地いい。

 彼は鋏を彼女の髪に差し入れた。彼女の前髪は上の睫毛にかかっていた。数ミリのことなのだ。たった数ミリの髪の毛を彼は気にしていた。

 鋏の刃を閉じると、小さな震えが持ち手に伝わってくる。髪の手ごたえだ。髪はそれと同時に彼女から離れ、黄色い畳の上に黒い点をいくつも作った。墨汁を落としたときのようだ、と洋介は思う。染めたことがないのだろうか。エマの髪は恐ろしく黒い。

 ゆっくり、そのときを味わうようにして、彼は彼女の髪を切った。彼女のまぶたは閉じている。柔和な、優しい顔立ちの彼女。唇は小さくて、微笑んだような形で閉じている。だが、彼女は微笑んでいるわけではない。こういう顔なのだ。

「できた。この間みたいに失敗しなかったよ」

 彼がそう言うと、彼女は本当に微笑んで彼を見た。前髪を短く切りすぎたことがあるのだが、そのとき彼女は一日中彼を許さなかったのだ。

「そうだ。口紅塗りなよ。一回も使ってないだろ?」

 彼が思い出してそう言うと、彼女はにっこりと笑ってカーディガンのポケットからあの口紅を取り出した。蓋を開け、ピンク色の棒紅を持って立ち上がろうとする。この部屋には鏡がない。洋介はエマを引きとめ、口紅を奪った。彼女を座らせ、棒紅を土台から繰り出す。

「おれが塗る」

 彼女はすっかり慣れきった様子で、微笑んだ。顎を少し持ち上げ、塗ってもらう姿勢になった。洋介は彼女を見つめた。先程とは違い、少しずつ陽気になってきている彼女は、早くしてください、と言っているかのようだった。彼女の顎の線に沿って手を当てて、彼にとって丁度いい姿勢になるように調整する。棒紅で下唇をなぞる。唇が、変形しては元に戻っていく。とても柔らかそうで、弾力がある。彼は目が離せなかった。下唇から棒紅を離したあと、彼は突然彼女を抱き寄せ、その下唇をそっと噛んだ。彼女が驚いて抵抗する。しかしそれでも彼は彼女の唇を追い求め、ようやく塞いだ。彼女の口から薄荷の香りが漂ってくる。やがて彼女は抗うのをやめ、それを受け入れた。彼は息継ぎをしながら、彼女の唇を何度も吸う。次第に、欲望が高まってくる。彼は彼女の肩を少しずつ押しながら、口づけを続けた。彼女は体が倒れていくのに気づくと、横に逃れようとした。彼はそれを許さず、彼女を一気に押し倒した。

 Tシャツの中に手を入れると、案の定熱い体がそこにあった。彼の冷えた手が触れると、彼女は身をよじった。彼の体を押すが、うまく行かない。

 彼女の目を、彼は敢えて覗き込んだ。怯えている。しかし、本当の怯えではない。彼が一言、声をかけるだけで、彼女の頬が薔薇色に染まったからだ。

「愛してるよ」

 彼女は、彼の首に手を回した。大きく息をしている。彼女の心臓がある辺りに手を置くと、彼女の心臓を直に握っているような錯覚を起こすほどに激しく脈動していた。彼が彼女に対して何をするつもりなのか、わかっているのだ。更に、彼女はそれを許可している。

 彼は畳の上の彼女を、じっと見下ろした。こういうことに似つかわしくないように思える彼女が、期待と恐れがないまぜになった表情で彼を見ている。彼は体を沈め、彼女のへそに口づけを落とした。彼女が大きなため息をつく。彼は舌を出し、そっとねぶった。

「ごめんください」

 突然の声に、彼は勢いよく体を起こしてから硬直した。彼は座ったまま、Tシャツが首の辺りまでめくれたままのエマを見つめた。エマは頬を赤くして、襖のほうに顔を向けている。

「上がりますよ」

 声の主は彼らの都合などお構いなしに廊下を歩いてきているようだった。エマは慌てて起き上がって座る。同時に、簡易な服装は自然と元の形を取り戻した。髪を手で整えて、襖がいきなり開くときには、少なくとも彼女の格好に乱れがなかった。

「こんばんは」

 唐沢優実が立っていた。この間のように、野暮ったい格好をしていて無表情だ。それでも洋介とエマをじっと見て、一瞬顔をしかめた。しかしすぐに元に戻る。

「準備はできましたか?」

 優実が訊くと、無言で洋介がうなずいた。優実は転がっている二つのボストンバッグを確認すると、手に提げた汚いトートバッグから何か青くて小さなものを取り出した。洋介は息を呑む。それは彼が持っているものにそっくりだった。受け取り、ぱらぱらとめくる。見覚えのないエマの写真と、見知らぬ名前が印刷されている。本物にそっくりの、偽造パスポートだ。

「エマ、これでここから出られるよ」

 彼の声は震えていた。法律を犯すことが恐ろしい彼は、感情の全てを喜びにしてしまうことができなかった。それでも、ほっとした。不本意な形とはいえ、奴隷の街での暮らしが終わるのだ。あの中川からも離れられる。

 エマは、嬉しいのかどうか、曖昧な表情をしていた。しかし彼が見ていることに気づくと、すぐに目を細めて笑った。優実が洋介のほうを向く。

「さて、目的地に奴隷解放運動のメンバーを用意しておきますから、教えてください」

 洋介は、彼が以前住んでいた関東の街から少し離れた場所を指定した。

「わかりました。ところで、あなたたちは自分たちが法律を犯すということをご存知ですね」

 優実が大きな目を洋介とエマに向けた。洋介が怯えた顔になる。

「工藤さんは、奴隷を街の外に連れ出したことを罪に問われます。もしかしたら奴隷商人たちが彼女を『回収』しに来ますから。それに、彼女が街の外で暮らすのは大変です。戸籍がないのですからね。だから、われわれは、あなたたちのために尽力します。住む場所を提供いたします」

 洋介は感動のあまり、返事ができなかった。怖いことは怖いが、彼らの組織に守られていれば安全な気がした。それに彼は、街の外に出たあとのことを思い悩んでいたのだ。

「わたしも他の方を連れて、あなたがたに同行するつもりです。近くの席に座っても、わたしに声をかけたりしないようお願いします」

「それって、何回目ですか?」

 洋介が好奇心に駆られて優実に尋ねると、優実は表情を変えずに答えた。

「奴隷にされた方たちを連れ出すのは、三回目でしょうか。まだ一度も捕まっていません。捕まったら罰金では済みませんし、政府から目をつけられますからね」

 洋介はぞっとした。急に、街の外のほうが危険であるような気がしてきた。

「大丈夫です。わたしがうまく計らいますから」

 優実は堂々たる態度でそう断言した。洋介はうなずいたが、やはり不安のほうが強い。

「それでは、わたしは一旦帰ります。気をつけて」

 優実は安物の腕時計を見て、立ち上がった。

「耳の札を外すのを忘れないように」

 そう言い残し、彼女は出て行った。洋介はにわかに時間が気になり、携帯電話を見た。八時二分。約束の一時間後よりも数分早い。恐らく彼とエマの行為をとめるため、慌ててやって来たのだろう。そう考えると、優実が得体の知れない奇妙な人間に思えてくる。しかし、彼は自分がやろうとしていたことのほうが異様に感じた。エマの肉体を貪ることは、あれほど長い間彼が自らに禁じていたことなのに。

 彼の、自分に定めた決まりごとが変わり始めていた。それはエマを選び、街を出ようとしていることが原因なのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ