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血相を変えて走る洋介を、美奈が呼びとめた。苛立ちながら、洋介は足をとめる。
「どがんしたとですか。今日は何回も行ったり来たりしんさあですね」
美奈の心配そうな顔を見て、洋介は少し気持ちを落ち着ける。美奈には、少しだけ話してしまおう。彼女にはそれだけ世話になった。
「街を出ることになった」
「え?」
「中川を怒らせてさ」
「じゃあ」
「今夜発つ。どうしようもないんだ。逃げるしかない。中川は恐ろしい奴だから」
「奴隷は?」
美奈の目が期待に輝いていた。洋介は初めてこの女に嫌悪感を抱いた。おそらくエマを売り払うことを期待しているのだろう。美しくもないくせに。ふとそんな考えが浮かんだ。美しくもない女が心根まで汚ければ、洋介にとっては不愉快なだけだった。
「エマは、人に預ける。連れていくわけにはいかないから。おれ一人で逃げる」
「朝子さんは?」
それを聞いて、突然体中から冷たい汗が噴き出してきた。洋介は今やっと朝子のことを思い出したのだった。完全に忘れていた。ぞっとするほどに。
「朝子は、人に任せてる」
これは、本当のことだった。優実に頼んでいるのだ。彼女が本物なら、どうにかしてくれるはず。しかし、自分が朝子のことを忘れ、無意識のうちに彼女を見捨てていたという事実は、彼の気持ちを暗澹とさせた。
「わたし、工藤さんのお見送りに行きます」
洋介はぎょっとして美奈を見た。美奈は断固とした表情で、彼を見つめていた。
「絶対行きます」
「それは、駄目だ」
洋介はやっとのことで言葉を発した。美奈の顔が不審そうに歪む。
「君を中川との問題に巻き込むわけにはいかないから、だから」
しどろもどろになっている内に、洋介の目に白い花が飛び込んできた。見覚えのある、円い花。可憐で、何故か恋しい。
「あれ、くれないかな」
いきなりの彼の言葉に、美奈はぽかんとして指差す先を見た。
「マーガレット。一輪頂戴」
美奈の顔が、静かに表情を失っていく。ゆっくり、ゆっくりと。彼はその変化の理由に気づかないまま、マーガレットを見つめていた。あの花は、何だっけ。何か大事なものを思い起こさせる。
美奈は、マーガレットを透明で白いレース模様のセロファンに包み、無言で洋介に渡した。彼は笑う。ありがとう、と言う。美奈はひっそりと笑う。どういたしまして。
彼は花屋に来たときと同じように慌てて走り出した。家に着けば安心だ。けれど、朝子は? 彼女をどうすればいい? 彼は少しずつ走る速度を落とし、ぜいぜいと息をつきながら歩き出す。どうすればいい? 彼女は自分を待っているかもしれないのに。
朝子の記憶がモノクロになり、次にセピアになりながら頭の中に蘇る。待っていた、彼女。恐らく梅雨の、雨が降ったある日、濃い色の傘を差して、立っている。レインブーツを履き、長い巻き毛は一つに束ねている。どこで、どうして待っていたのかはわからない。印象的だった、彼女の目。勝気な彼女には似合わない、心細げな目つきをしている。地面を見つめていた彼女は、彼に気づいて傘の下から彼を覗き見る。零れ落ちそうなほど大きな目。唇は少し開いている。彼女はちょっとだけ微笑み、すぐに元の自信なさげな表情に戻る。彼女が気弱な顔をすることは滅多にない。喧嘩をしたときの情景かもしれない。
「愛してる」
頭の中で響いた、彼女の声。震えたようなかすれがちの声。彼女との情事の最中だったのだろうか。耳元でささやかれた声が、妙になまめかしい。彼女の体温さえ、体のそこかしこで再生される。愛おしい、彼女の体。象牙色の滑らかな体。温かで柔らかい。
「洋介、わたしのことはもう諦めなよ」
長い髪をばっさりと切ってしまった彼女が、色彩過剰なほどの鮮やかさで思い浮かぶ。彼女は笑っている。睫毛が黒々と、笑った目元を縁取る。
「わたしはわたしでやっていくから。大丈夫だよ。わたしは奴隷になっても変わらない。平気だよ」
最後の情事のあと、彼が眠っている間に彼女は逃げた。一緒に逃げようと何度も説得したあとのことだったから、彼にはひどく応えた。アパートの部屋は、何も変化がなかった。彼女がやってきて、また来る約束で帰っていったときと同じだった。彼女を探し回り、心臓がうるさいほどに大きく波打つ数日を過ごしたあと、彼は彼女が競りにかけられ、いい値段で売れたということを知った。涙は出なかった。彼女に置いていかれた、という気持ちが強かった。少し恨んでいた。とても愛していたのに、それを裏切られたと思った。会社の仕事が手につかなくなり、上司から早退をするように言われた日、彼は貯金を確認した。彼女と結婚するために貯めていた金だ。その金が相当な額だということを知ると、彼は辞表を書き始めた。
愛していたはずだ。それなのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。月日のせいか? エマのせいか? 他の何かのせいか? ただ、これだけはわかる。彼は少し、常軌を逸していた。考えや行動が少しおかしいと、自分で気づいていた。彼女への執着の仕方は、愛情のみから来るものではない。彼の中には、彼女に置き去りにされたと感じたそのときから、愛情に加わって彼女に向かわせる、不純な何かが生まれた。それが彼を彼女に向かわせるのだと、彼にはわかっていた。
不純な何かとは、何だろう。そしてそれは一体どこに行ってしまったのだろう。彼女に向かわせていたはずのものが見当たらなくなった。愛情が消えた? そんなわけがない。今でも彼は自分が彼女を愛していると思っていた。では、何故忘れる?
彼はいつの間にか、自分の借家の前にいた。トタンで壁が覆われた、粗末な家。庭には緑色の草が生い茂っている。これまで、あまり手入れをしなかった。庭のある家が初めてで、手入れの仕方がわからなかったのだ。物干しがあるが、何も干していない。
無言で玄関の引き戸を開く。薄暗い家の中はしんとしている。思い出して、
「ただいま」
と声をかけた。すると、短い廊下の奥にある居間の襖からエマが勢いよく飛び出してきた。彼が驚く暇もなく、彼の体に抱きつく。背中に細い手が回される。エマは全身を彼に押しつける。エマの心臓が鼓動するのが、皮膚越しに伝わってくる。彼は反射的に彼女を抱きしめた。温かな体。とても華奢だ。彼女はもう泣いてはいない。静かに、彼を頼っているだけだ。
おれのものだ、と彼は思った。この長い黒髪も、黒い瞳を浮かべた眼球も、膨らんだ唇も、赤い頬も、湿り気のある皮膚も、細い骨も、小さな内臓も、全てがおれのものだ、と。髪を梳かすのはおれだ。前髪を揃えるのもおれだ。爪を切るのもおれだ。爪を染めるのも、おれだ。彼女はおれのものだ。彼はそう確信した。
エマと一緒に逃げるのだ。朝子は、人に任せるしかない。今はエマが危険で、エマをまず救わなければならない。大丈夫だ。きっとそうだ。
「エマ」
彼が声をかけると、エマは彼の胸に押し当てていた顔を上げた。心配そうな目つきだ。彼が中川に何かされたと思っているのだろう。彼は微笑んで、大丈夫、と言った。
「ただ、逃げなければいけない」
エマの目が問う。どういうことですか?
「時間がないよ。おれは君と一緒にこの街を出ることに決めた。それだけ言う。あ、これ、おみやげ」
彼は握り締めていたマーガレットを彼女に渡した。彼女はそれを持ってじっと見つめたあと、洋介から離れて居間に戻った。彼も靴を脱いで追いかける。居間に入ろうとした途端、彼はエマと鉢合わせしそうになった。彼女は何かを持っていた。写真立てだ。朝子の。彼は乾いた笑い声を出した。エマが訊いている。朝子さんはどうするんですか?
「エマ。君はいい子だね」
彼はもう一度彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。そして頭を撫でる。彼女が上目遣いで彼を見る。
「朝子のことは、人に任せるしかないよ。時間がないんだから」
エマは目を丸くして彼を見つめた。彼もそれを見つめる。彼女の目が潤み、青みを帯びた白目は充血し始める。どうして泣くのだろう、と洋介は思った。彼が彼女を選んだのだ。喜んでもいいはずだ。
「写真立て、貸して」
彼はエマからそれを受け取ると、裏蓋の止め具を外し始めた。エマが見ている。彼の行動を、少しも見逃さずに。
蓋を外すと、あのときのメモ用紙が出てきた。数字の走り書き。彼はパーカーのポケットの中を探り、携帯電話を取り出した。ためらいなく番号を押す。電話は、三秒ほどで繋がった。
「もしもし」
男の声だ。年配者だろうと思われる、ゆっくりとした声。
「唐沢優実さんはいらっしゃいますか」
彼は少し、緊張していた。これが偽物だったら、彼はエマを連れ帰ることができない。電話の向こうの声は、しばし沈黙していた。あまりに長い沈黙に彼がうろたえ始めたころ、声は、ああ、とつぶやいた。
「工藤洋介さんですね」
「はい」
緊張が強くなる。エマは写真立てを抱いて彼を見ている。
「わかりました。一時間後にお会いしましょう」
「え?」
「一時間後です。急いで」
電話は切れた。




