表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

14

 血相を変えて走る洋介を、美奈が呼びとめた。苛立ちながら、洋介は足をとめる。

「どがんしたとですか。今日は何回も行ったり来たりしんさあですね」

 美奈の心配そうな顔を見て、洋介は少し気持ちを落ち着ける。美奈には、少しだけ話してしまおう。彼女にはそれだけ世話になった。

「街を出ることになった」

「え?」

「中川を怒らせてさ」

「じゃあ」

「今夜発つ。どうしようもないんだ。逃げるしかない。中川は恐ろしい奴だから」

「奴隷は?」

 美奈の目が期待に輝いていた。洋介は初めてこの女に嫌悪感を抱いた。おそらくエマを売り払うことを期待しているのだろう。美しくもないくせに。ふとそんな考えが浮かんだ。美しくもない女が心根まで汚ければ、洋介にとっては不愉快なだけだった。

「エマは、人に預ける。連れていくわけにはいかないから。おれ一人で逃げる」

「朝子さんは?」

 それを聞いて、突然体中から冷たい汗が噴き出してきた。洋介は今やっと朝子のことを思い出したのだった。完全に忘れていた。ぞっとするほどに。

「朝子は、人に任せてる」

 これは、本当のことだった。優実に頼んでいるのだ。彼女が本物なら、どうにかしてくれるはず。しかし、自分が朝子のことを忘れ、無意識のうちに彼女を見捨てていたという事実は、彼の気持ちを暗澹とさせた。

「わたし、工藤さんのお見送りに行きます」

 洋介はぎょっとして美奈を見た。美奈は断固とした表情で、彼を見つめていた。

「絶対行きます」

「それは、駄目だ」

 洋介はやっとのことで言葉を発した。美奈の顔が不審そうに歪む。

「君を中川との問題に巻き込むわけにはいかないから、だから」

 しどろもどろになっている内に、洋介の目に白い花が飛び込んできた。見覚えのある、円い花。可憐で、何故か恋しい。

「あれ、くれないかな」

 いきなりの彼の言葉に、美奈はぽかんとして指差す先を見た。

「マーガレット。一輪頂戴」

 美奈の顔が、静かに表情を失っていく。ゆっくり、ゆっくりと。彼はその変化の理由に気づかないまま、マーガレットを見つめていた。あの花は、何だっけ。何か大事なものを思い起こさせる。

 美奈は、マーガレットを透明で白いレース模様のセロファンに包み、無言で洋介に渡した。彼は笑う。ありがとう、と言う。美奈はひっそりと笑う。どういたしまして。

 彼は花屋に来たときと同じように慌てて走り出した。家に着けば安心だ。けれど、朝子は? 彼女をどうすればいい? 彼は少しずつ走る速度を落とし、ぜいぜいと息をつきながら歩き出す。どうすればいい? 彼女は自分を待っているかもしれないのに。

 朝子の記憶がモノクロになり、次にセピアになりながら頭の中に蘇る。待っていた、彼女。恐らく梅雨の、雨が降ったある日、濃い色の傘を差して、立っている。レインブーツを履き、長い巻き毛は一つに束ねている。どこで、どうして待っていたのかはわからない。印象的だった、彼女の目。勝気な彼女には似合わない、心細げな目つきをしている。地面を見つめていた彼女は、彼に気づいて傘の下から彼を覗き見る。零れ落ちそうなほど大きな目。唇は少し開いている。彼女はちょっとだけ微笑み、すぐに元の自信なさげな表情に戻る。彼女が気弱な顔をすることは滅多にない。喧嘩をしたときの情景かもしれない。

「愛してる」

 頭の中で響いた、彼女の声。震えたようなかすれがちの声。彼女との情事の最中だったのだろうか。耳元でささやかれた声が、妙になまめかしい。彼女の体温さえ、体のそこかしこで再生される。愛おしい、彼女の体。象牙色の滑らかな体。温かで柔らかい。

「洋介、わたしのことはもう諦めなよ」

 長い髪をばっさりと切ってしまった彼女が、色彩過剰なほどの鮮やかさで思い浮かぶ。彼女は笑っている。睫毛が黒々と、笑った目元を縁取る。

「わたしはわたしでやっていくから。大丈夫だよ。わたしは奴隷になっても変わらない。平気だよ」

 最後の情事のあと、彼が眠っている間に彼女は逃げた。一緒に逃げようと何度も説得したあとのことだったから、彼にはひどく応えた。アパートの部屋は、何も変化がなかった。彼女がやってきて、また来る約束で帰っていったときと同じだった。彼女を探し回り、心臓がうるさいほどに大きく波打つ数日を過ごしたあと、彼は彼女が競りにかけられ、いい値段で売れたということを知った。涙は出なかった。彼女に置いていかれた、という気持ちが強かった。少し恨んでいた。とても愛していたのに、それを裏切られたと思った。会社の仕事が手につかなくなり、上司から早退をするように言われた日、彼は貯金を確認した。彼女と結婚するために貯めていた金だ。その金が相当な額だということを知ると、彼は辞表を書き始めた。

 愛していたはずだ。それなのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。月日のせいか? エマのせいか? 他の何かのせいか? ただ、これだけはわかる。彼は少し、常軌を逸していた。考えや行動が少しおかしいと、自分で気づいていた。彼女への執着の仕方は、愛情のみから来るものではない。彼の中には、彼女に置き去りにされたと感じたそのときから、愛情に加わって彼女に向かわせる、不純な何かが生まれた。それが彼を彼女に向かわせるのだと、彼にはわかっていた。

 不純な何かとは、何だろう。そしてそれは一体どこに行ってしまったのだろう。彼女に向かわせていたはずのものが見当たらなくなった。愛情が消えた? そんなわけがない。今でも彼は自分が彼女を愛していると思っていた。では、何故忘れる?

 彼はいつの間にか、自分の借家の前にいた。トタンで壁が覆われた、粗末な家。庭には緑色の草が生い茂っている。これまで、あまり手入れをしなかった。庭のある家が初めてで、手入れの仕方がわからなかったのだ。物干しがあるが、何も干していない。

 無言で玄関の引き戸を開く。薄暗い家の中はしんとしている。思い出して、

「ただいま」

 と声をかけた。すると、短い廊下の奥にある居間の襖からエマが勢いよく飛び出してきた。彼が驚く暇もなく、彼の体に抱きつく。背中に細い手が回される。エマは全身を彼に押しつける。エマの心臓が鼓動するのが、皮膚越しに伝わってくる。彼は反射的に彼女を抱きしめた。温かな体。とても華奢だ。彼女はもう泣いてはいない。静かに、彼を頼っているだけだ。

 おれのものだ、と彼は思った。この長い黒髪も、黒い瞳を浮かべた眼球も、膨らんだ唇も、赤い頬も、湿り気のある皮膚も、細い骨も、小さな内臓も、全てがおれのものだ、と。髪を梳かすのはおれだ。前髪を揃えるのもおれだ。爪を切るのもおれだ。爪を染めるのも、おれだ。彼女はおれのものだ。彼はそう確信した。

 エマと一緒に逃げるのだ。朝子は、人に任せるしかない。今はエマが危険で、エマをまず救わなければならない。大丈夫だ。きっとそうだ。

「エマ」

 彼が声をかけると、エマは彼の胸に押し当てていた顔を上げた。心配そうな目つきだ。彼が中川に何かされたと思っているのだろう。彼は微笑んで、大丈夫、と言った。

「ただ、逃げなければいけない」

 エマの目が問う。どういうことですか?

「時間がないよ。おれは君と一緒にこの街を出ることに決めた。それだけ言う。あ、これ、おみやげ」

 彼は握り締めていたマーガレットを彼女に渡した。彼女はそれを持ってじっと見つめたあと、洋介から離れて居間に戻った。彼も靴を脱いで追いかける。居間に入ろうとした途端、彼はエマと鉢合わせしそうになった。彼女は何かを持っていた。写真立てだ。朝子の。彼は乾いた笑い声を出した。エマが訊いている。朝子さんはどうするんですか?

「エマ。君はいい子だね」

 彼はもう一度彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。そして頭を撫でる。彼女が上目遣いで彼を見る。

「朝子のことは、人に任せるしかないよ。時間がないんだから」

 エマは目を丸くして彼を見つめた。彼もそれを見つめる。彼女の目が潤み、青みを帯びた白目は充血し始める。どうして泣くのだろう、と洋介は思った。彼が彼女を選んだのだ。喜んでもいいはずだ。

「写真立て、貸して」

 彼はエマからそれを受け取ると、裏蓋の止め具を外し始めた。エマが見ている。彼の行動を、少しも見逃さずに。

 蓋を外すと、あのときのメモ用紙が出てきた。数字の走り書き。彼はパーカーのポケットの中を探り、携帯電話を取り出した。ためらいなく番号を押す。電話は、三秒ほどで繋がった。

「もしもし」

 男の声だ。年配者だろうと思われる、ゆっくりとした声。

「唐沢優実さんはいらっしゃいますか」

 彼は少し、緊張していた。これが偽物だったら、彼はエマを連れ帰ることができない。電話の向こうの声は、しばし沈黙していた。あまりに長い沈黙に彼がうろたえ始めたころ、声は、ああ、とつぶやいた。

「工藤洋介さんですね」

「はい」

 緊張が強くなる。エマは写真立てを抱いて彼を見ている。

「わかりました。一時間後にお会いしましょう」

「え?」

「一時間後です。急いで」

 電話は切れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ