13
奴隷倉庫に行くと、警備はいつも通りだった。人気もない。警備員の間を無言で通り抜け、中に入る。奴隷倉庫の中はさっきと同じだ。男と女の囲いがある。そして人はいない。洋介はつかつかと中川の部屋に向かった。女の囲いの向こうにある、樫の扉。真っ直ぐに歩く。そこに誰かの急ぐような足音が後ろから聞こえてきた。構えて振り向くと、田村だった。
「何ですか」
「中川に何の用か」
田村は青ざめていた。洋介は、今までにない冷静な顔つきで、彼を見ていた。
「あんたは何で教えてくれなかったんですか」
「何や。どういう意味か」
「これほどにエマやぼくを気遣ってくれるのなら、中川の目的を教えてくれてもいいでしょう」
田村はそれを聞いてさっと辺りを見回した。そして、小さく叫ぶ。
「下手は打たれん」
「下手?」
「下手を打てば首になる」
「なってもいいじゃないですか、こんな仕事」
「中川を殺すのはおい(おれ)や!」
ぎょっとして、洋介は田村をまじまじと見た。この細身の男は、震えながら床を見つめていた。五十歳くらいだろうか。短く刈った髪は白髪交じりで、無表情だった顔は鬼の形相をしている。
「あんたには渡されん」
田村は、それだけ言うとすたすたと奴隷倉庫の奥に消えていった。青い作業着の背中が寒々しい。
田村の言葉は、洋介の中にあった中川に対する静かな怒りを刺激して、これからどうするべきかという考えを具体化させた。中川を殺すな、という意味の言葉が、殺せ、と命じたように思えたからだ。エマを襲おうとした奴だ。殺したって何も問題ない。洋介の目はぎらぎらと輝きだした。
ナイフか何か、持って来ればよかった。道具が一つもない。何も考えずにやってきたが、家にいるときにこの殺意に気づいて用意すべきだったのだ。そう考えた洋介は、倉庫のどこかにあるであろうと目星をつけ、歩き出した。
「入らんとか」
振り向くと、中川の部屋から、中川が顔を出して笑っていた。洋介はかっとなって勢いよく歩き出した。次第に走るようになる。扉に近づき、大きく振りかぶった拳は、中川の顔をかすりもしなかった。中川が顔を引っ込めたのだ。扉を無理矢理開けようとすると、それは勝手に開いた。中から出てきたのは、作業着を着た二人の若い男だ。二人とも、少し笑っている。嘲りの顔だ。双子のようによく似て見える。
「捕まえとけ」
男たちの後ろから中川の声がする。洋介は後ろを向いて走り出そうとしたが、早速腕を掴まれ、後ろ手に押さえつけられて、部屋の外のコンクリートの床に押しつけられた。歯を打った。血の味。じんじんと体中が痛む。体中を打撲したように感じられる。ひひ、と男たちの内一人が笑い声を上げる。
中川はゆったりと部屋から出てきた。いつもの、幸福そうに見える笑顔を浮かべて。
「何しに来たとかね」
洋介は頭を押さえつけられていて、中川の顔を見上げることすらできない。そこに中川が身を寄せて、しゃがみこむ。
「あの娘はどこにやったとかね。探したばってん見つからんやった」
中川の顔が大きく、より醜く見える。洋介が思いついて唾を口にためようとすると、中川はひょいと顔を上げた。
「唾ね。映画のごと吐きつけてやろうと思ったとやろうけど、人間、そう簡単に自分ば憎んどる奴の顔には近寄らん。あんたは本当に馬鹿やねえ」
洋介は羞恥の余り怒りを加速させたが、どうしようもない。男たちは洋介と大差ない体格だったが、二人がかりでは動きようがない。中川は、大きくため息をついた。
「情けなかね。こうなることも想像できんやったとか。あんたは本当に単純な男やね」
洋介は無言だ。涙が出そうなくらい屈辱的だった。中川を殺すどころか、反対に捕まってしまうとは。これからどうなるのかを想像すると、戦慄が起こる。しかし、次の瞬間、意外な言葉が中川の口から発せられた。
「放してやれ」
どきりとする。男たちの戸惑いが伝わってくるようだ。
「可哀想やろ。おいは怪我しとらんし、逃がしてやろうで」
信じられない気持ちで中川を見る。足元しか見えないが、確かに中川の声だ。洋介を押さえつけていた男たちは、困惑気味に彼から離れた。洋介が、ゆっくりと立ち上がる。
「まずおいがあの娘ば犯って、あとでこの二人に順番ば回してやるつもりやったさ」
中川は少し離れた場所で立って、くつくつと笑った。本当に愉快そうに。
「でもな、あんたもこのまんまじゃこの街におられんなあ。何せこのおいに暴力ば振るおうとしたとやけん」
中川は黙った。洋介は中川の言葉を待っている。今、中川は洋介をどうすることもできた。けれど何もしない。今洋介が逃げても、何もしそうにない。続く言葉が、洋介を叩きのめしたが。
「今夜中にこの街ば出て行くことやね。あの娘は置いて。何もかも、諦めること。それしかなかろう? おいはあんたば殺しても、何も言われん。あんた一人消えても、何も起こらん。この奴隷の街では、人一人がいなくなっても注意は払われん。おいがあんたを奴隷にするのは簡単さ。おいが頼めばそうできるとやけんな。対してあんたは何や。おいに何かできるとや。できんやろ? 出て行くことやね。せいぜい。これはお情けぞ。ありがたく受け取れ」
殺してやる、殺してやる、殺してやる。洋介の中で殺意が盛り上がってきたが、彼はどうすることもできなかった。中川の言うことは事実であるような気がしたし、完全に打ちのめされていた。まず、自分を守らなければ。できることならば、エマも守らなければ。しかしどうやって?
洋介が素早く中川と部下たちを見回して、どうすべきかためらっていると、中川が何かに気づいたような顔をした。ふと、笑う。
「何や、田村」
首をねじり、後ろを見る。田村が先程よりも青ざめて立ち尽くしていた。
「あの、話のあるとですけど」
「何や」
「ちょっと、こっちに」
「おいはお前に近づかんぞ。何か持っとるとやろ」
はっと気づくと、田村は大きな包丁を作業着の懐から出して、笑い泣きをしているような奇妙な表情で立っていた。手に掴んだ包丁は、ぶら下がるように揺れている。先程洋介を押さえていた男たちが、慌てて田村に飛びつく。田村は抵抗するが、元々小柄な男だ。力はあるらしく一旦は彼らを押しのけるのだが、片方の男に包丁を奪われ、もう片方の男に隙を突かれて押さえ込まれて、あっという間に先程の洋介と同じ立場になっていた。
中川がにやにやと笑っている。その表情には何かぞっとするものがある。洋介はじりじりとそこから離れようとする。
「畜生。由紀ば返せ、中川」
田村のくぐもった声がする。中川がその口に自分が履いている革靴の先を突っ込むと、田村はそのままわけのわからぬことを叫ぶ。黒い革靴は、上等に見えるが大して清潔そうでもない。田村の歯がそこに食い込む。
「由紀って、何や。誰のことや」
中川が靴を抜く。よだれで汚れた靴を、ちらりと見やり、それから田村をにやけた顔で見下ろす。
「おいの娘や。お前が殺したこと、忘れたか」
田村は真っ赤に血走った目で中川をにらむ。いつもの田村の顔とは全く違う。普段表情のなかったこの男は、今、憎しみで顔を歪ませている。中川は表情を変えない。まるで言われたことを初めからわかっていたかのように。
「お前の娘ば犯ったとは覚えとる。確か十七歳やったな。それがどうした」
「お前は鬼畜生や。地獄に落ちるぞ。あのあと由紀は自殺したとぞ。お前のせいや」
「何言いよるとや。お前の娘は奴隷やった。何されても文句は言えん」
中川がせせら笑う。田村の目から、涙が溢れ出す。
「おいの借金や。おいが奴隷になるはずやった。それをお前が書類ば書き換えたとやろうが」
「知らん。まあ十代で借金はできんけん、何か間違いの起こったとやろうな」
「何が間違いや。お前は」
また中川が田村の口に靴を突っ込んだ。中川は一人、笑っていた。楽しげに、これ以上愉快なことはないと言わんばかりに。中川につき従う男たちは、初めこそどうすればいいか迷っていたが、中川の視線を浴びて、笑い顔を作った。
洋介はもう、出口近くに来ていた。中川が目ざとくそれに気づき、また笑う。
「逃げよる。情けなか男やな。田村とは仲間じゃなかとか」
走り出す。背中に中川の笑い混じりの罵声が飛ぶ。
「この街にお前の住む場所はなか。あの娘ももうおいのもんや。早く出て行け。電車の(が)なくなるぞ」
絶対に、そうはさせない。洋介は思った。エマを、好きにはさせない。エマを、助けるのだ。エマは、おれのものだ。
扉を出て走りこんだ敷地内に、エマが入っていたのと同じ形の瓶が三つ、並んでいた。洗っていたのだろう。つやつやと、光っている。洋介はふと思いついて、砂利を握った。そして、思い切り振りかぶって、投げた。ばちん、と硬質な音が鳴り、勝ち誇って瓶を見るが、割れるどころかひびすら入っていなかった。警備員が声を上げて近寄って来る。洋介はまた、走り出した。
エマはおれのものだ。誰にも、渡すものか。




