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「そう、いきなりのことでびっくりしたやろうけどね」

「はい」

 洋介は震える声で答えた。

「今月はまだ一日から一週間も経っとらんけん、おい(おれ)も驚いたよ。いつもなら一日にしか仕入れはなかとに」

「そうですね」

「早く()んしゃい。朝子さんも待っとるけん」

 唐沢優実に電話をかけようと携帯電話を手に持って逡巡していると、着信があって慌てて通話ボタンを押した。中川からだった。最初は不信感を抱きながら話を聞いていたが、朝子が見つかった、という知らせを聞くと、驚きのあまり何も考えられなくなった。朝子が、手の届くところにいる。信じられない。

 もちろん、いつも朝子に似た女を見つけるたびに感じる恐れもあった。しかし、実際に朝子がいるとわかれば、飛んで行かないわけにはいかなかった。何故なら、ずっと探してきたからだ。追い求めてきた。泣きながら追いかけてきた。それでも行かないとすれば、自分は本当の臆病者で、卑怯者だと思った。

 エマはしんと静まり返った仏間に、一人こもっていた。何の音も聞こえない。泣いていても声を出さないのだ。それほど激しく泣きじゃくっていないという証左でもあったが、彼にとっては少し不安なことでもあった。もしかして、死んでしまうかもしれない。そう考えてしまう。自分が彼女を拒んだからといって、彼女が自殺してしまうなどという自惚れた考えは持っていない。けれど、何か嫌な感じのする静けさがあった。

「エマ」

 反応はない。こういうとき、エマが言葉を発することができるといいのに、と思う。

「出かけてくるよ。朝子が見つかったかもしれないんだ」

 しばらく反応を待つ。エマは驚いているに違いないが、何の音も立てない。

「夕食はどうなるかわからないけど、おれが遅くなるようだったら一人で食べててよ。朝子が見つかったって中川さんは言うけど、何かの間違いもありうる。三人分も用意しなくていいからね」

 静かだ。彼は、エマという存在が聴覚以外の感覚で認識されていたことを改めて思った。見えないところにいては、彼女が本当にいるのかどうかということさえ希薄だ。いるのかいないのかわからない彼女に向かって、彼はまた声をかけた。

「きっと帰るから」

 その言葉は、帰らないなどという決断がありうるということを意識させた。エマを放っておいて、朝子と一緒に逃げる。でも、それは起こりえない。この街を出るためのパスポートはこの家にあるし、朝子はパスポートを持っていない。優実に連絡を取って偽造してもらうにしても、その連絡先は居間にある写真立ての中に入っているのだ。彼はあえてそれらをこの家に置いていった。エマを断りもなく置き去りにするような、卑怯な人間にはなりたくなかった。

 夕暮れの街は、数日前と比べてもかなり薄暗くなっていた。車が勢いよく横を通り抜ける時に吹く風が、とても冷たく感じられる。Tシャツの上にパーカーを着ただけでは、少し肌寒い。奴隷とその飼い主が、彼と通りすがる。何組も何組も。女の奴隷も、男の奴隷も、年を取った奴隷も、全て首輪をつけていた。彼はエマに首輪をつけたことなど一度もない。いっそつけてしまえば楽だったのだろうか。彼女を完全なる奴隷にしてしまえば。いや、それでは彼は辛くなるだけだ。彼は割り切ることができない。朝子が連れて行かれてから、奴隷の存在をそのままに認めることができない。

 歩いていると、小さなビルの一階にある、美奈の花屋の前を通りかかった。美奈はいるだろうか、と中を覗きこむ。少し、話がしたい気分だった。

「どうかしたんですか」

 怒ったような美奈の声が、むせ返るような花の匂いと派手な花々の向こう側から聞こえてきた。驚いてそちらを見ていると、彼女は花の入った缶の間からすっくと立ち上がり、その姿を見せた。

「花粉が鼻についてるよ」

 彼が言うと、彼女は慌てて袖で鼻の頭を拭いた。それでも表情は固いままだ。

「あのね、相談したいことがある」

 美奈の表情が和らぐ。きっとエマがいないことがいいのだろう。彼にとっての、美奈のいつもの顔に戻る。

「どがんしたとですか」

「朝子が見つかったらしくて」

 美奈がぱっと明るい表情になる。

「よかったじゃなかですか」

「うん」

「何で元気なかとですか? 嬉しくなかとですか?」

「エマを手放そうと思ってさ」

 美奈が目を丸くする。しかしどこか安心したような顔だ。彼は自分もこういう顔をしているのかもしれないと思って、後ろめたい気分になる。

「もちろん、しかるべき相手に預けるんだよ。売ったりしたら可哀想だ」

「まあ、そうでしょうね」

「でも、エマが傷ついててさ。おれのせいで泣いてる」

 美奈の表情が冷たくなる。冷笑しているようにも見える。

「しょうがなかですよ。奴隷ですから。今までよくしてもらえたんだからそれでよかとです」

「そうかな」

 美奈の表情に、彼は不安を覚えた。

「そうです。工藤さんは、朝子さんば買ってこの街で静かに暮らしたらよかとですよ。それ以外の人間の人生まで背負ってはいられないでしょう」

「そうだけど」

 まさか朝子を連れてこの街を出るのだとは言えなかった。美奈がいくらよくしてくれているとはいえ、それほどの重大なことは漏らせない。

「朝子さんは奴隷倉庫ですか」

「うん。まあ」

「なら早く行ってあげればよかですよ」

 美奈は微笑んだ。彼は安心したような気持ちでうなずいた。美奈の笑顔を見るのは、エマを買って以来初めてだった。エマの存在は、彼の周りにいる様々な人の気持ちを固くしていた。それを考えれば、エマを疎ましくさえ思うのだった。

 美奈に挨拶をすると、洋介は奴隷倉庫に向かって歩き出した。少し遅くなってしまったかもしれない。朝子は待ちわびているだろう。それなのに、何故だろう。急ぐ気が起きない。怖いのだろうか。変わってしまった朝子を見るのが。

「大丈夫だ」

 彼は一人つぶやき、意識的に早足になって歩いた。奴隷倉庫は目の前にある。

 二人の警備員の間をすり抜け、扉を開く。コンクリートの固い床を踏む。雰囲気は、ほとんど変わっているところがない。ペンキで「男」「女」と書かれているのは相変わらずだったし、囲いも左右にある。怖いほどに音がしない。彼は不思議な気がして辺りを見回した。中に入ったら、何か変化があるような気がしていたからだ。例えば、朝子の気配がする。あの明るい、意地の悪い声がして、どこからか彼女が現れる。しかしそんな作り話のようなことは起こらないのだろう。そう自分を納得させて、中川の部屋に向かった。立派な扉の向こうに、人の気配がする。心臓を轟かせながら、彼はノックした。

「来たか」

 返ってきたのは、中川の声ではなかった。意気消沈した誰か別の人間の声だ。不思議に思ってドアを開くと、田村が一人、中川の椅子に座って洋介を見ていた。疲れたような目だ。

「もう遅かぞ」

「え?」

 遅い? 朝子はどこかへ売られてしまったのだろうか? 彼がぐずぐずしていたせいで。そう考えたが、田村の様子はどこかおかしかった。頭を抱えてため息をつきさえする。

「あんた、よか大学ば出て、よか会社に勤めとったそうやんか」

 何の話だろう。

「でも、頭の悪か。簡単に騙されたな」

 騙された? 心臓がおかしな鳴り方をする。

「中川はなあ、朝子さんば見つけたて嘘ばついて、あんたの家に行ったとぞ。あんたが買った娘は今頃中川の好きにされとる。あんたは」

 続きは聞かなかった。洋介は血相を変えて部屋を飛び出した。倉庫の部分を抜け、入り口を出て、道をひたすら走った。次々に人にぶつかるが、謝る余裕などない。謝ろうとさえ思わない。この間走ったときほどには、辛いとは思わなかった。ただ焦りと後悔があったばかりだ。

「畜生」

 口をついて出た言葉は、自分に対してのものなのかもしれなかった。エマと暮らすのが怖くなったからと、彼女を人に任せてしまおうなどと思い立った自分は、畜生そのものだった。エマを捨てて朝子と暮らそう。そんな単純な考えを持った自分は愚か者だ。エマを助けなければ。エマがどうなっているのか、あえて考えようとせず、彼は汗だくになり、全身の筋肉に痛みを感じながら走った。

 花屋の横を走りぬけた気がする。美奈がぽかんと彼を見ていた。しかし気にする余裕はなかった。走るしかない。走らなければ。

 住宅街に入り、驚いた顔をした小学生の集団を掻き分け、洋介は家の中に入った。その途端、足元から崩れ落ちる。

 家の中は、完全に荒らされていた。襖や障子が開ききった仏間や居間から、様々なものが廊下に溢れ出している。エマの服。エマのブラシ。震えながら中に入ると、居間の押入れに入っていた布団が乱雑に引っ張り出されている。彼のノートパソコンは畳に落ちて開き、ちゃぶ台は裏返しになっていた。

「畜生」

 エマはいない。連れて行かれてしまったのだろう。自分のせいで。少し考えればわかることだったのに、どうして気づかなかったのだろう。

「エマ」

 つぶやくと、涙がこぼれてきた。同時に、エマはどこに連れて行かれたのだろう、という考えが浮かんでくる。奴隷倉庫に戻って、田村に吐かせよう。中川を見つけて、殺してやるのだ。狂気のような怒りが湧き起こってきた。殺すのだ。殺して、エマを取り返すのだ。

 そう考えて立ち上がったときだった。すぐそばで、物音が聞こえた。驚いて、押入れの戸袋を見た。がたがたと開き、中から飛び出すようにして黒い棒のようなものが現れた。いや、足だ。足はどんどん伸びて、小さな臀部が、スカートが、Tシャツに包まれた胴体が、腕が、最後に青ざめた幼い顔が、次々に出てきた。彼は呆然とそれを見守っていた。開いた押入れの段に足を乗せると、エマは器用に体をしならせて降りてきた。そして、そっと彼を見上げる。その怯えきった目を見てから、彼は気づくとエマを抱きしめていた。

 無言だった。彼は何も言えなかった。頭の中がごちゃごちゃと散らかっていて、考えることができなかったからだ。彼女は、泣いていた。最初は静かに。段々と、涙の量が増えていく。ひいひいと、息の漏れる音がする。

「怖かったよね」

 彼女は懸命にうなずく。

「ごめん。おれ、騙されてたことに気づいてなかった」

 彼女は彼の顔を見上げた。涙で顔は汚れ、相変わらず激しく泣きじゃくっているのに、声がしない。呼吸の音が激しく聞こえるだけだ。彼は初めておかしなことに気づいた。

「エマ、もしかして、声が出ないの?」

 うなずく。そして、彼にしがみついて、顔を埋めた。彼は体中が冷たくなっていくのを感じた。

「いつから? さっき?」

 首を振る。

「生まれつきなの?」

 もう一度、首を振る。

「じゃあ、奴隷として売られたとき?」

 そっと聞くと、ひいひいという音はますます強くなった。彼の胸に額をぶつけるようにして、彼女は何度もうなずいた。彼は、自分がひどく情けなくなる。

「ごめん。気づかなくて、ごめん。君が少しも声を出さないのはわかってたのに。本当にごめん」

 彼女は何度も首を振る。ただ、泣く。声もなく。

「大丈夫だよ。もう大丈夫。中川は来ない」

 彼の体に、服に染み込んだ彼女の涙が触れた。生暖かい。彼は一層彼女を強く抱きしめた。何度も謝り、何度も「大丈夫」を繰り返している内に、彼女の嗚咽は段々と落ち着いてきた。

「もう平気?」

 彼女は真っ赤な目のまま、うなずく。すると彼は彼女をそっと離し、

「すぐ帰るから」

 と部屋を出て、玄関に向かった。


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