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 どうにかしなければ、と考え始めて、何日も経つ。洋介はエマと朝子のことを交互に思い、どうすればいいのだろう、と悩んだ。

 地下組織に全てを任せて、エマをどこかに逃がし、朝子を救う。これが一番いい気がした。組織につながりを持ってしまったのに何もしないのは、臆病者だ、という気がするので尚更だった。

 しかしエマを逃がすのは、少し薄情な気がした。エマは彼から離れたがっていない。それなのに彼自身が彼女を引き離すのだ。彼女はどれほど傷つくだろう。

 それに、彼女の髪を切り、梳かし、爪の手入れをするのは一体誰になるのだろう。彼は彼女のことを、一人では何もできない幼い子供のようにも思っていたから、それらを彼女自身が行うという可能性を考えずに、その誰かに嫉妬した。憎しみを抱きさえした。

 彼女は今、退屈そうに畳の上に足を伸ばしてどこか遠くを見ている。ミニスカートを履いたその足は、黒い無地のタイツに包まれている。繊細な、足と感じさせない細い足。その形は、根元から切り取って美術館に展示しても、芸術品として通用しそうな気がするほどだった。けれど、彼は一度も彼女にそのような感想を告げたことがない。彼の隠れた欲望を吐露するようで、それはとても恐ろしかった。彼女に恐れを抱かせるというよりも、彼の中の理想の自己像を崩してしまうようで、そちらのほうがよほど恐怖を覚えた。

「エマ」

 彼が声をかけると、彼女は壁に寄りかからせていた背中を起こして、ぱっと明るい笑顔になった。彼女は彼が声をかけると、いつも嬉しそうに笑う。まるでペットだ、と彼はふと思い、はっとして首を振る。

「外に出かけようか。買い物じゃなくて、散歩ね」

 考えが行き詰っていたので、そのほうが丁度いい気がした。一人で歩き回っていたら、堂々巡りになってしまう気もしたから。それに、田村からの忠告が未だに効いていて、彼はエマを一人にすることがほとんどなかった。エマはそのために、より彼に密着するようになった。家にいるときも、外に出たときも。ぴったりと彼の右側に寄り添い、離れない。彼女の目は、近頃今まで言わないことを言うようになっていた。彼はそれをうまく読み取れなかった。複雑でわかりにくい、戸惑いを含んだ信号。彼はわからないことをわからないままにして、日々を過ごしていた。

 彼女は散歩の一言を聞いて、ぱっと立ち上がった。無地の長袖のTシャツに、横に放置してあったやはり無地のカーディガンをかけて、準備万端です、と笑った。

「女の子のくせに準備が早いよね、いつも」

 彼はパーカーを上から被ってから微笑み、彼女と連れ立って玄関に出た。彼女は彼に買ってもらったスニーカーを履く。彼女がこの靴を踏み潰したことは、今まで一度もない。だからこの靴は今でも新品同様にしゃんとしている。彼は彼女が玄関を出たあと、自分のスニーカーを履いて、こういう生活ももう終りかもしれない、と考えていた。

 家の裏手に、小川はある。コンクリートで両岸を固められた、あまり曲がっていない、滑らかな形の川だ。ここにはよく白鷺や青鷺がやってきて、彼女を興奮させる。鳥たちは彼女が喜ぶたびに、さっと羽根を広げて逃げていく。その様は烏や雀に比べて優雅さや気品を感じさせるが、彼にはわかっている。白鷺や青鷺は体が大きすぎるので、ゆっくり動くしかないのだ。その動きが彼らを小さな鳥よりも上品に見せるのだろう。それに気づいていないのか、彼女は飛んでいく鳥を嬉しそうに眺める。この上なく美しいものを見たかのように、うっとりと。もしかして、と彼は思ったことがある。彼女は白鷺や青鷺を見たことがなかったのだろうか。

 小川に沿った道を二人で歩きながら、こういう風に二人で歩くのは何度目だろう、と彼は思う。彼女の中ではどういう意味を持つ時間なのかはわからないが、彼にとって、これは小休止ともいえる時間だった。彼女を意識しすぎて疲れずに済む。彼女が彼に密着してくるのに動揺しなくて済む。見知らぬ少女と二人で過ごす生活の緊張を、ふと和らげてくれる。彼は底に草の生えたどうということもないこの川を眺めながら、無心になっていた。エマはにこにこしながら歩いている。

「ねえ、エマ」

 声をかけると、彼女は目を細めて彼の顔を見上げた。上機嫌だ。

「おれのこと、卑怯者だと思う?」

 彼女は驚いたように目を丸くした。その目で尋ねる。どうしてそんなことを言うんですか?

「だって、おれはずっと朝子を探してるように振る舞ってるのに、朝子を正攻法でしか助けようとしてないんだ。卑怯な手も、違法な手も、使おうと思えば使えた。自分を危険に晒せばね。でも、危険が怖くて、色々言い訳をして何ヶ月も何もしなかった。卑怯者だと思わない? それに、おれは朝子を本当に愛しているのか、時々わからなくなるんだ。だって、朝子らしい奴隷を見つけると、怖くなるんだ。本当に朝子だったらどうしよう。奴隷になってしまった恋人が目の前に現れたらって。まだ朝子は見つかってないけど、本当に、おれは怖い。朝子に対してどう挨拶をするか、本心で喜べるのか」

 エマは、うつむいて話を聞いていた。

「卑怯者で薄情者だ。おれはどうしようもなく駄目な奴だ」

 エマが彼を見上げた。青みを帯びた白目に、黒い瞳が浮かんでいる。エマは無表情のまま、彼の右腕に抱きついた。彼は外でこのようにされることにはあまり慣れていないので、いつの間にか立ち止まって硬直していた。

 エマが顔を上げる。言いたいことがあります。笑ったその目はこう言っていた。わたしは、あなたのことが好きですよ。とっても好きですよ。あなたが自分を卑下しても、わたしはあなたが好きです。大好きです。わたしは、わたしは。

 そのあとの意味は、彼の頭が真っ白になってしまったので、わからなくなった。彼女が彼の首に腕を巻きつけ、顔を引き寄せ、唇を撫でたのだ。撫でた、というのは正確ではない。唇同士が触れ合ったのだから、それは口づけた、と表現すべきだろう。しかし、彼には撫でられるような感触だった。薄荷の匂いがした。彼女の口の中の匂いだろう。彼女自身のような、清潔な匂い。彼女は口づけたあと、すぐに彼から体を離した。うつむいて、歩き出した。彼より前を。多分彼女は羞恥心を抱いているだろう。同時に、幸福感をも。彼女は目つきや表情では伝えきれないことを、行動で示した。それは、彼にとってはとても恐ろしい、何よりも避けるべきことだった。

 だから、彼は逃げた。彼女を置いて、引き返し、家へと走り、玄関の中に入り、鍵をかけた。そして、家の中で頭を抱えた。後を追ってきた彼女がドアを叩いても、彼は応えなかった。

 とうとう、ここへと来てしまった。自分の行動ではないけれど、来てしまった。ここから、どうすればいい? エマと、二人でこれからも過ごせるか? いや、できない。恐ろしくて、できない。自分が怖い。何をしてしまうかわからない。

 彼は強く目を閉じ、エマが叩くドアの音を聞いていた。多分、エマは泣いている。彼に拒絶されたことで泣いている。彼自身、こうまで自分が弱いとは思わなかった。彼女を泣かせてまで彼女を怖がる自分が理解不能だった。どうしよう。どうすればいい? 何かを懸命に考えても、それは一つの結論にしか至らない。それを回避する手段は何一つわからない。時間が刻々と過ぎていく。

 夕方、彼はようやく彼女のいる玄関を開けた。鍵の回る音がした瞬間、何かが体を起こす気配がした。彼女だった。彼女は泣きはらした目を彼に向けて、次に諦めたようにうつむいて家に入り、彼の横をすり抜けて居間に入った。

「エマ、ごめん」

 彼は彼女を追いかけて居間に入ると、出かける前のように足を伸ばして座っている彼女に頭を下げた。どこか、彼ではない何かを見ているエマの目に、涙の粒が盛り上がる。

「ごめん」

 もう一度謝ると、涙は溢れて頬を流れた。彼はこういうものにもはや動揺しない自分に気づいた。

「悪いけど、おれは君とは暮らせない。怖くてできない。だから、この間の奴隷解放運動の女に、君を任せようと思う」

 彼女の唇が震える。涙は次々に流れていく。

「彼女は本物かどうかわからない。でも、試す価値はある。君を安全なところに連れて行ってくれるかもしれない。大丈夫。おれは君が無事か確認する方法を考えた。どうにかなるよ。大丈夫だよ」

 突然、彼女は顔を彼に向けた。涙で濡れた、赤い目。彼女は無理矢理のように微笑んだ。彼はその目に、意味を見出さずにはいられなかった。

 それでも、あなたを愛しています。


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