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 奴隷解放運動のことは知っていた。インターネット上で常に右派の者たちによって槍玉に挙げられ、罵倒され、時には街中で殺され、警察に検挙される、少数派の人間たちが起こした運動だった。洋介はこの運動に参加することはなかったが、それは危険だからだった。奴隷解放運動に参加すると、政府から目をつけられ、自由に動けなくなる。それは朝子を自ら探したい洋介にとっては厄介だったし、表立って行動するのは洋介の性に合わなかった。

 日本人は野蛮である。それが彼らの主張だった。野蛮であるから奴隷制度などという古い制度をまた用いだしたのだ。

 洋介にはそれはよくわからなかった。長い歴史を見れば、奴隷に相当する階級の人種が常に存在してきたのは明らかだ。それに、彼は奴隷制度ができた当初、まだ幼かった。日本人が野蛮化する様子をつぶさに見てきたわけではなかった。小学校のときに同じクラスだった誰それが、身を持ち崩して奴隷になった。そういう話を聞いても、哀れに思うばかりだった。問題視し始めたのはほんの最近だ。朝子が奴隷になってから。それに、こうも思う。

 野蛮だから? どうしてそれを大声で言うのだろう。人間が野蛮なのは当たり前じゃないか。

 しかし洋介以外の大体の人々は、奴隷解放運動に参加しているような人間を疎ましく思い、野蛮でないことを示すため、というより野蛮であるという耳に痛い言葉を封じるため、彼らを血祭りに上げた。先に述べたように、国家全体で彼らを虐げた。

 現在、奴隷解放運動の活動らしい活動の情報は、あまり見かけない。地下で活動しているのだ。奴隷にされた人々を買取り、奴隷の街から出す。戸籍を偽造する。洋介はそれを知っていた。彼がエマについて考えるとき、思いつくのはいつもこのことだった。インターネットの網の目のような世界を巡っているうちにたどり着いた、「正攻法ではない」やり方。朝子を救うために見つけた方法。それは奴隷解放運動の地下組織に依頼し、助けてもらうことだった。彼はそれができずに数ヶ月間苦悩していたのだ。その内にも朝子はどんどん転売される。わかっているのにできなかった。地下組織とどう連絡をとればいいのかもわからなかった。

 それが、こうしてここにいる。驚くほど簡単に身分を明かして、居間のちゃぶ台に身を寄せて座っている。救いの主は屈強で頼りがいのありそうな、中年の男のイメージだった。しかし、目の前にいるのは太り気味で背の低い、ぱっとしない女だ。大きな目で、洋介を見る。好意的でもない。しかし不愉快そうでもない。ただあるのは、洋介に対する強い興味。

「エマをどうするのですか」

 洋介が訊くと、優実はますます目を丸くした。

「救うのですよ」

「どうやって?」

「詳しいことは教えられません。でも、察しはつくでしょう?」

 まず、偽造のパスポートがいる。それから、青い電車に乗る。もしくは特権階級の連中が持つヘリポートから、海から。海から逃げるのは容易ではない。海には大勢の監視役がいる。舟はない。持ち込んで、監視役の目をくぐって逃げるしかないのだが、うまくいくことは滅多にない。小さな舟で逃げても、行き着く先は結局日本だ。そこで捕まって、また転売されるのが落ちだ。ヘリポートを使う。これは奴隷解放運動の地下組織が所有しているのなら可能かもしれない。一番有力なのは青い電車に乗ることだ。これならば簡単だ。完璧な偽造パスポートさえあればの話だが。

「どうしてエマなのですか。ぼくはずっと朝子を探してきたのに」

 洋介が思わず言葉に出すと、エマがちらりと彼を見た。優実は軽く身を乗り出すようにして、

「朝子?」

 と尋ねた。

「ぼくの恋人である新田朝子です。家族のために借金をして、売り飛ばされてしまったんです。何ヶ月も探し続けているのですが」

「写真を」

 彼は勢い込んで衣装ケースに飛びつき、衣類の底から写真立てを取り出した。それを見せると、エマはじっと見つめた。長い茶髪を巻き、どこか野生動物を思わせる意思の強そうな目をした朝子。それを見せたのは初めてだったな、と洋介は思う。エマはにじり寄り、正座をしたままそこから目を離さなかった。

「美しい女性ですね」

 優実がちらりとエマを見ながら、そうつぶやいた。洋介はそのあとの言葉を待った。しかし何も出てこない。痺れを切らした洋介が口を開くと、

「わかっています。われわれが何とかいたします」

 と、優実は答えた。洋介は軟体になってしまったかのように、ぐにゃりと座った。その手から、エマが写真立てを奪う。至近距離で、何か話しかけでもするかのように見つめている。洋介と優実は彼女を見て、次に顔を合わせた。お互いに真顔。

「でも、今回お話したいのはこの少女のことなんです」

「エマの?」

「先程言いましたよね。あなたはこの少女を人形にしている。毎日髪を梳き、爪を塗り、服やものを与え、私物化している」

 どうしてそのような細かなことを知っているのだろう。そう思って、洋介はぞっとする。それよりも強く、「人形」「私物化」という言葉が彼を苛立たせる。

「ぼくは彼女に不自由させていないし、他の人間のように彼女を」

「確かにそうですね。彼女はあなたによく懐いているし、あなたは彼女を性的に痛めつけたりしません。でも、健全でしょうか? それは。あなたはもしかして、お金によって彼女の何か大事なものを、奪ったのでは?」

「それは何ですか?」

「わかりません。しかしそれはあなたを彼女のそばに置けば、将来必ず明らかになることだと思います。われわれはそれを待ってはいられません」

「早くぼくから引き離さなければならないと」

 洋介はふと笑った。奴隷解放運動などという少数派の、偽善に満ちた活動をする輩に、自分とエマのことなどわかるのだろうか? 彼はこうもエマを大切にし、エマも彼を必要としているのに。結局は、馬鹿なのだろう。大声で「日本人は野蛮である」と当たり前のことを喧伝する連中の一人に、人間の機微などわかるはずがないのだ。

 そもそも、彼らは何をしているのだ? 街には、エマなどよりもよほど悲惨な奴隷たちが溢れているではないか。彼らを救わないのだろうか? そもそも、この女は本当に奴隷解放運動の地下組織の一員なのだろうか? おかしいではないか。いきなり現れ、地下組織のことを言葉に出し、エマをさらおうとする。

「色々な疑念があなたの頭の中で渦を巻いているのでしょうね」

 彼はぎくりと優実を見た。優実は相変わらず興味津々に彼を見ている。

「わたしは本物ですよ。でなければ、そんな危険な真似をするわけがない。今あなたがわたしのことを通報したら、一発でわたしは捕まってしまう。それなのに名前まで名乗りますか?」

「偽名かもしれない」

 彼が答えると、優実は笑うこともなく半眼になった。

「そういう可能性もありますね」

「それなら信用なんて」

「できないっていうんですか? それも構いませんよ。彼女は今、幸福だと思っているようですからね。彼女が幸福だと思っているうちはいいんです。われわれは急ぎません。しかし、あなたが必要だと気づいたときは、ここに電話してください。わたしの名前を出せばそれだけで充分です。わたしがあなたの元にまた来るでしょう。それまで、彼女を幸福なままでいさせてあげてください」

 優実はメモ用紙をちゃぶ台に置いた。洋介はそれをじっと見つめた。

「わたしはこれで帰ります。その番号を警察に届けても無駄ですよ。われわれは逃げる術を持っています。それでは」

 体型に似合わぬ素早さで、優実は立ち上がり、襖を開けた。振り返り、明瞭な声を上げる。

「あなたがやっていることは、『飼育』です。それを忘れないように」

 出て行く優実を横目で追っていると、ちゃぶ台に何か固いものが置かれる音がした。乱暴な音。エマが朝子の写真立てを立てているのだった。

「どうした?」

 仏頂面で首を振るエマ。

「あのおばさん、失礼だよな。飼育なんかじゃないのに」

 しかし、胸の奥から嫌な、ねじれるような音が聞こえてきた。同意の音。しかし、違うという気もする。エマと自分の日常を見張っていただけの人間に、何がわかるというのだ? 二人の関係に参加したわけでもない。ただの他人に。

 不意に、エマが彼の右腕に抱きついてきた。相変わらず仏頂面だったが、次第に甘えるかのような、とろけた表情になっていく。彼はエマの小さな乳房が彼の腕に密着するのを感じて、ため息をついた。彼は自然に我慢できている。人間であるために。人間を飼うという恐ろしい所業を避けている。それなのにあの女は彼の行為を「飼育」と名づける。

 メモ用紙が目に入る。彼はエマの体をどけて、じっとそれに見入った。

「本物かどうかさえわからないのにね」

 そう言いながら、彼は朝子の写真立てを開き、裏蓋の内側にそれをしまった。彼にはチャンスかもしれないのだった。朝子を見つけるための。

 エマはその行為をじっと見つめていた。


 夕食が済み、エマが風呂から上がってきた。すぐに彼の前に座る。彼は少しためらってから、青い櫛で彼女の髪を梳いた。彼女の髪は柔らかい。指にまとわりついてくる。この髪に触れるたびに、彼は彼女を手放したくないと思う。

 爪を塗るときもそうだ。今日は白いマニキュアを塗っていたのだが、気づくと彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。彼はわかっていながらもこう尋ねる。

「どうしたの?」

 彼女は唇をへの字にして爪を見た。爪はますます不健康に、黄色くなっているが、白いマニキュアのお陰でそれはわからなくなっていた。

 彼女は何もかも構わず彼の右腕に抱きついた。彼は服にマニキュアがつくのを感じた。粘着力のあるものがついては離れる感触。

「エマ」

 彼女は目を真っ赤にして泣いていた。彼は、困ったな、とため息をつく。その口を押さえられる。彼女の手で。彼女の目は、わたしに呆れないでください、と言っている。

「わかった。わかったからこの手を離して」

 彼は無理矢理細い手首を掴んで下ろさせた。エマは泣いている。相も変わらず。

「君をおれから引き離したりしないよ。大丈夫」

 彼女はそれを聞くと、彼の腕に顔を押し付けた。彼はこっそりため息をつきながら、考えていた。

 彼女をどうにかしなければ。


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