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 最初に選択権を与えられているのは、彼だ。工藤洋介はこの場所に立つ。迷っていようがいまいが、彼は誰かに立たされているような気持ちで立っている。それは腹立たしいことだった。許されないことだと思った。しかし、彼は立っている。選択権を与えられて、自分の意思で立っている。

 この場所は、薄暗い。商品を扱う場所としては暗すぎる。しかしそれはここの天井が高すぎるせいであり、広すぎるせいであろう。あるいは、扱われる商品から漂う哀愁のためかもしれないし、商品を管理したり眺めたりする人間の後ろめたさから来るのかもしれない。少なくとも、洋介はそのような気持ちだった。

 洋介が立つ真新しいコンクリートの床には、乱雑なペンキ文字で右側に「男」、左側に「女」と書いてあった。彼の目の前には、間に真っ直ぐな道を作ったその両側に二つの背の高い囲いがあり、人気のない、体育館に似たこの建物一杯に広がっていた。彼は何度か来たこの建物を、見知らぬものであるかのようにゆっくりと、警戒心をむき出しにして歩く。囲いは、明らかにベニヤの薄い板だ。壊そうと思えば壊せる。けれどどの部分も行儀よく立っているのは、商品たちが大人しいからだろう。大人しくさせられている。洋介は一瞬そう考えて首を振った。考えてはならない。深く考えたら失敗する。怯えた首長竜のように、ちっぽけな脳を麻痺させて進むしかない。それが安全な道だ。

 彼がとまった床に、また文字が書いてある。「女」。かかとの後ろ側には「男」と書いてあるに違いない。ここは左右対称にできている。中川が「平等に」作っていると言っていた。客は「平等に」選ばないそうだが。

 洋介はゆっくりと、「女」の囲いに入る。

 かすかに光が反射している。そして陰。四角く配置された、無数の瓶。人一人をすっぽりと入れてしまいそうな、いや、実際に入れている、巨大な瓶。牛乳瓶のような形の中に、女が入っている。裸の女。若い女ばかり。洋介を見たとたん、うつろな目でそれぞれ違う方向を見ていた女たちはすぐさま洋介に背中を向けてうずくまった。無数の背中。見えない顔。この瞬間を、洋介はいたたまれなく思う。また、苛立たしく思う。こんなところに来たくはないのに。

 それでも女たちを見るしかない。女たちがどれほど怯えようと、どんな祈りをささげようと。洋介は一番近くの瓶に入った女から、じっと見た。女たちは皆が耳に開いた小さな穴にビニールの糸を通して番号のついた赤い札をつけているのだが、この女も例外ではない。細身の女。あばら骨が痛々しいほどに浮きあがっている。顔が見えないかと、角度を変える。横顔が見える。目と口を強く閉じ、寝たふりをした子供のようだ。ああ、まだこの女は若いのだ。そのとたんに彼は興味を次の女に移した。顔が見えないので、瓶を右手の人差し指の第二関節で叩く。女が顔を上げて、巨大な目で彼を見る。違う。次の女は体格からして大きすぎたので、ノックもせずに通り過ぎた。一人一人、見る。用心深く。褐色から乳色の肌をした裸の女たちは、彼が近づくたびに同じ反応をした。靴音に反応して震える。彼がノックをするとそっと、右に、あるいは左に振り向く。若い女たちは、顔まで同じに見えた。目が大きいか小さいか、唇が薄いか厚いか、輪郭が角ばっているか丸いか。そのような違いがあっても同じ表情をしていたので違いがないような気がしてくる。怯えた、痛めつけられた猫の表情。彼は感覚が麻痺してくる。女たちの顔を見分ける感覚だけでなく、女たちの気持ちに配慮しようとする感覚さえなくす。だから、次第に機械的になる。一目見てわからなければノックをする。振り向いて違うのならばその女が彼を見ていても次に移る。

 ふと、手をとめる。その女の背中が、何か懐かしいような、離れがたいようなものを感じさせたのだ。女の肌は象牙色だった。肩は少し下がり気味で、胴体が細長い。形のいい尻。おそらく足は長い。彼の位置から滑らかなひざが見えるのだ。彼は突然ひどく混乱した。汗が体中から噴き出す。熱いのか冷たいのかわからない汗。頭痛がする。額を強くノックされているような痛み。

「わたし、行くね」

 誰かの優しげな声。

「どうして?」

 別の誰かの甲高くなった声。

「そうするしかないでしょ。もう逃げられない」

「逃げられるよ。海外に逃げれば」

「逃げられないよ」

「そんなことないよ」

「どしようもないんだよ、洋介」

 この場で展開された会話であるかのように錯覚して、次の瞬間自分がどこにいるかを認識した洋介は愕然とした。ここは、奴隷倉庫。目の前にある瓶は檻。中にいる女は、奴隷。耳につけた紙は番号札だ。彼は声をかけるのが怖かった。もし彼女だったら、目的は達成されるだろう。しかし、そのあとは?

 彼はじっと立ち尽くした。目の前の女は体をますますこわばらせ、小さくしている。周囲にいる女たちの視線を感じる。洋介の品定めをしているのだ。あの奴隷はあの男に買われようとしている。果たしてそれは幸運なのか不運なのか。自分たちの幸不幸の度合いと比較して、苛立ったりほっとしたりしている。洋介が「ましな」飼い主なのかどうか。女たちの頭にあるのはそれだけだ。そこから思考が展開する。

 彼の唇が開いた。

「朝子」

 うずくまっていた女は、首を持ち上げ、ゆっくりと振り向ける。その表情は他の奴隷たちと同じで、ひどく無気力で怯えた顔だった。洋介は一瞬わからなくなる。この女の顔。例えば丸い輪郭だとか、長い睫毛だとか、少し平たい鼻だとかに、彼女の顔に合致するものがあるのかどうか。彼女の顔さえ思い出せなくなる。それは危険な兆候だ。冷静な判断を下せなくなる。

 しばらく女の顔を見て、違う、と思う。輪郭が同じだから錯覚を起こしたのだ。彼女の鼻はとがっている。この奴隷の顔とは違う。

 彼はほっとして、力が抜けてしまった。床にしゃがみこみ、ため息をつく。こういう瞬間はいつも緊張する。そのあとの疲労感は体が一旦死んでしまったのではないかと思えるくらいだ。目の前の女がちらちらと彼を見る。彼は首を振り、君は彼女ではない、と思う。

 立ち上がり、女たちの続きを見る。脱力した彼にはいささか辛い仕事だったが、何とかやり終えた。女たちは静かだった。どこまでも、静かだった。

 囲いから出て、道からも出ると、奴隷倉庫の隅にある中川の部屋に向かう途中で田村に会った。田村は目つきの鋭い細身の男だ。中川の助手をしている。洋介は彼のことがそれほど好きではない。誰にしろ、この奴隷倉庫に関わる人間のことは好きではない。

「ああ、今日来るやろうと思っとったよ」

 最初に声をかけたのは、田村だ。表情を変えず、何か雑多な感じのする紙束を持って中川の部屋に行く途中のようだ。洋介は不承不承にかすかな笑顔を作る。

「今日は一日ですからね」

「どう? 新しい奴隷の中に、目当ての者はおったか」

「いいえ」

「あんたも感心よなあ。奴隷になった恋人探すなんて」

「そうですか?」

 洋介は苛立ちを覚えて笑顔を消した。よく言われることだ。しかし何ヶ月経ってもざらついた気持ちになる。

 朝子は奴隷になった。あるときから、人権が限られた人間のものになったからだ。洋介はその限られた人間の一人だった。朝子はそうではなかった。彼女はちょっとしたきっかけで人間ではなくなり、若い女の奴隷として売買にかけられた。すぐに売れた。彼女が美しかったからだ。

「怒んなさ。おい(おれ)は普通のことしか言えんとやけん、勘弁してさ」

 田村が仏頂面で抑揚の激しい言葉を呪文のように言う。普通の感性の持ち主ならばこのような場所で稼いだ金で飯が食えるのか。洋介はそう考えたが、この男とはよい関係を築かなければならないことを思って態度に出すのはやめた。

「中川さんは」

「ああ、部屋におると思うよ。ただ、新しい奴隷のおるけん、その辺り気をつけて」

「新しい奴隷? ここにいるのが全てではないんですか?」

「ああ、一人だけ置いとるとよ。ただあんたの恋人ではなかと思うよ。中川は若い奴隷が好きでね。あんたの恋人はあんたと同じで二十七歳やったたいね。中川は十代の子供が好きやっとよ」

 それを聞いて、寒気がする。意味が簡単にわかるからだ。

「いつもそうなっているんですか?」

「どがん意味か」

「子供の奴隷は中川さんに与えられるようになっているんですか?」

 田村は洋介を見ると、唇をへの字にして、

「そうさ。中川はこの街の王様やけんな。何でもできる」

 と答えた。

 洋介はため息をつき、自分の預金残高のことを考えた。それから、首を振る。何を考えているのだ、と自分を叱りつける。

「中川さんに会ってきます。朝子のことが何かわかったかもしれない」

 洋介はため息混じりにそうつぶやいて、うなずいた田村と共に中川の部屋に向かった。倉庫の一番奥にある部屋だ。そこの扉だけは特別立派にできていて、樫製である。ノックをする。女たちが入った瓶を叩き続けた人差し指の第二関節は、どこか感覚が遠くなった気がする。

「どうぞ」

 低い、柔らかな声。笑っているようなリズムだった。

「失礼します」

 洋介は田村と共に入った。広い部屋だが、先程までのがらんどうのような場所にいた洋介にとっては、息苦しさを感じる。正面に堂々たる作りの机があり、その向こうにアルミサッシの窓。ベージュの安物の絨毯が敷いてある。どこかちぐはぐな感じのする部屋だった。中川の姿がない。一瞬そう思ったら、「一月ぶりやね」という声が真横からして、心臓が躍った。顔を向けると、入り口から見て右手の部屋の隅に中川がいた。先程見たのと同じ、瓶と並んで。

「お久しぶりです」

 洋介が慣れた様子で頭を下げると、中川は脂ぎった丸顔をてらてらと光らせてうなずいた。機嫌がいい。子供のような顔をますます福福しい様子にしている。平均的な体つきの洋介と比べて大柄だが、この顔と太った体のお陰で無害な人間に見える。

「この子」

 洋介は先程一瞥しただけの瓶に入った少女をもう一度見て、その裸の背中が先程見た女たちよりもかなり幼いのだということを確認した。少女の黒髪は伸ばしっぱなしのように不揃いで長すぎた。ただひたすらに震えている。顔は見えない。洋介は胃がひどくむかついてくるのに気づいた。

「この子、どうされるんですか」

 中川は愛想よく笑い、

「どがんもせんよ」

 と答えた。

「ただ置いとるだけさ」

「本当ですか?」

「本当さ」

 中川はそう答えた次の瞬間、笑顔を消した。洋介を探るかのように暗い目で見る。洋介はこの目を見て、この男の疑念に気づいた。一体、何のつもりだ? そう思っているのだろう。

「ぼくは朝子の話をしに来ただけですから」

 洋介がそう言うと、中川はまたにこにこと笑い出した。

「朝子さんね。おいも注意して見とるとけど、なかなか見つからんね」

「そうですか」

「若い女の奴隷は売りに出されるサイクルが早か。中古だとかなり早かよ」

 中古。洋介は笑顔を引きつらせてこっそりと深呼吸をした。怒るな。怒ったら台無しだ。

「中古ほど顔つきが変わってくる。あんたにもらった朝子さんの写真と見比べても、見つけるとが難しくなってくるくらいさ」

 それはわかる。先程見た女奴隷たちは、そんな顔をしていた。人間として生きていたときの顔とは恐らく全く違う顔。

「だから見つけるには時間のかかると思うよ。ばってん(でも)、思うとけど、いくら恋人でも、奴隷になって知らない男に好き放題にされた女なんて、買ってどがんするとか」

 中川が、少女の入った瓶を、軽く叩いた。少女がおもむろに顔を上げて中川を見る。丸みを帯びた、子供じみた横顔。小動物のようにパーツが小さい。その顔が洋介をも見る。赤い唇が震えている。今にも泣きそうに。

「中川さん」

「何?」

 中川が笑う。その目の奥は、やはり暗い。

「その女の子、ぼくが今買います」

 少女が洋介をじっと見る。ただ怯えた目だ。隣に黙って立っていた田村がぎくりと洋介を見た。洋介をこっそりつつく。やめておけという合図なのだろう。

「どがんした、急に」

 中川は笑っていたが、その表情はどこか機械的なものに見えた。動揺は見えない。

「ただ単に、その子を買いたくなっただけです」

「へえ」

「いけませんか」

「いけんことはなかさ。お金さえあれば」

「ありますよ」

「朝子さんを買う分はあるとね?」

「ありますよ」

「返せん借金ば作ったら、あんたも即奴隷ぞ。わかっとる?」

「わかってます」

「そう」

 いつの間にか、中川の笑顔が消えていた。長いため息をつく。

「しょうがなかね。田村、書類作って。今買いたいそうやけん」

「はい」

 田村が部屋の外に出て行った。中川はしばらく黙っていた。少女をじっと見つめている。少女は体を覆い隠すようにして縮こまっている。

「気に入っとったとやけどねえ」

 やっと発した言葉は、やけにゆっくりと聞こえた。

「知っとった? おいがこの子ば()るつもりて」

 少女の骨ばった肩が大きく揺れ、体がさらに小さくなる。

「田村が喋った?」

「いいえ」

「嘘やろ? あいつもしょうがなかね。あんたもしょうがなか。一時の同情でそがんことばしても、あんたが面倒な事態に巻き込まれるだけぞ。せいぜい朝子さんだけにしておけばよかったとに」

 洋介は黙っていた。ただ、怒っていた。中川を燃やし尽くしてしまうほどの怒りに、どうしようもなく苛立っていた。

 背後で扉が開いた。田村が帰ってきたのだろう。中川が瓶から離れて洋介の目の前で紙を受け取ると、それを眺めてから洋介に差し出した。

「サインして。あとはクレジットカードの下四桁さえ教えてくれれば、あの娘はあんたのものやけんね」

 洋介は中川の顔を見た。笑っていた。その笑顔は、ぞっとする、何か人間以外の存在を想像させた。


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