第九話 絶望と危機
悟の葬式は行われなかった。
情けないことだが、葬式をやってやる金銭的な余裕がなかったからだ。
家族と、『ひまわりの園』の知り合い、関係者のみで最期の別れを惜しみ、荼毘に付された悟の骨を月雫が抱いて、ふたりは家路についていた。
小さかった悟は、さらに小さな骨と灰になり果て、本当にこの世界に悟が存在したかどうかすら陽炎を見ているかのように曖昧にさせた。
霊安室で泣き崩れて以来、月雫は泣いていない。
まるで感情が抜け落ちた様子で、現実が信じられず、受け入れられず、心ここにあらずのままただ呼吸をしているだけの抜け殻になってしまった。
たった数日で髪は艶を失い、頬はかさつき、目は虚ろになり身なりに気を使わなくなった。
自分が他人からどう見られようとどうでもいいと、世間との関わりを拒絶していた。
魂を喪失したという点では、勇斗も同じだった。
ただ、消耗している月雫を守るため、自分がしっかり立ち回らなくてはと、勇斗は己を奮い立たせていた。
夕方の住宅街を歩き、見慣れたアパートに辿り着くなり、「徳山さん」と不意に声をかけられた。
1階の自室のドアの前で、恰幅のいい中年男性ふたりが月雫たちを待ち構えていた。
中年男性ふたりは、月雫たちを認めるなり近づいてきて、映画やドラマの再現をするように警察手帳を月雫の眼前に突きつけた。
「ちょっと、お話をうかがってもよろしいですか?」
慇懃な笑顔を作って、中年の刑事は耳触りのよい声でそう訊いてきた。
勇斗はうんざりした顔になると、かばうように月雫の肩を抱いて引き寄せ、あからさまな不満を滲ませた声音でその要求を突っぱねた。
「すみませんが、今は話せる状況ではありません。
お引き取りください」
刑事ふたりを押しのけて玄関のドアを開けようとすると、作り笑顔を貼り付けた刑事が、素早くタブレットを取り出し勇斗に画面を見せた。
どこかの防犯カメラの映像らしかった。
解像度の荒い動画には、黒いキャップを被った作業着姿の成人とみられる男が、毛布にくるまれた『モノ』を運ぶ様子が克明に映されていた。
「これ、あなたですよね、徳山勇斗さん」
どこか、勝ち誇ったような、してやったりといった表情で、刑事は言った。
「違います!」
「俺じゃない!」
月雫と勇斗は同時に叫んだ。
「ほう?
でも、これは間違いなくあなただ。
髪色も背格好もあなたが職場で着ている作業着も、どう見ても同じですよね?」
「違う、これは遥斗……兄です。
調べてもらえればわかるはずです。
だって、遥斗は……」
刑事が底意地が悪い笑みを浮かべる。
嫌悪感に勇斗は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「これは、悟くんが遺体で発見された公園の公衆トイレ付近にある防犯カメラの映像です。
毛布にくるまれているのが悟くんのご遺体です。
徳山さん、あなた、日常的に悟くんに暴行を働いていたんじゃありませんか?
悟くんの身体の痣はあなたがつけた。
虐待が行き過ぎて死なせてしまった。
だから、ことの発覚を恐れたあなたは赤の他人による殺人事件に偽装することにした。
悟くんが行方不明になった日、公園へ連れ出したのはあなただったんでしょう。
あなたと悟くんが公園に手を繋いで向かう映像もありますよ」
獲物を前に舌なめずりする蛇のごとく執拗に言葉を重ねて刑事は言い募る。
「あの日、悟を連れ出したのは、俺の兄の徳山遥斗です。
俺と遥斗は、その、そっくりなんです」
「そっくり、ね。
便利な言葉だ。
では、あなたにはアリバイがあると?
悟くんを連れ出すことは、徳山さんにはできなかった、そう主張されるわけですな。
それを証明してくれる人はいますか?」
「その日は『ひまわりの園』という養護施設で、リフォームを手伝っていて……」
刑事がそれ以上はいい、と片手を上げて勇斗の言葉を遮る。
「少し調べさせてもらいましたがね、どうやら『ひまわりの園』は奥さんの育った施設らしいじゃないですか。
それなら身内も同然だ。
身内によるアリバイの証言は信用に値しません」
「……そんな、理不尽な……っ」
常識では考えられない刑事の言い分に、勇斗がわなわなと拳を震わせていると、刑事のひとりが勇斗の耳元でささやいた。
「ええ、理不尽ですよ。
わたしたちは、遥斗さん側の人間ですから」
勇斗が驚愕に目を見開く。
にやり、と刑事が嗤った。
隣の月雫の顔からも血の気が引いている。
「わたしたちは、いくらでも事件をでっち上げることができる。
あなたを殺人犯にすることなど、造作もないことです」
「……あんたら、遥斗の……」
唸るように声を絞り出した勇斗を嘲笑うと、刑事はまた慇懃な態度になって言った。
「ではまた明日、今度は御託を並べられないよう、しっかりと令状を取って出直しますよ。
それでは」
目配せして余裕の表情になったふたりの刑事がアパートから立ち去っていく。
その様を悟の骨を抱きしめた月雫が呆然と眺めていた。
☆
ハナから譲り受けた古めかしいタンスの上に悟の骨壺を置くと、月雫が不安を隠しもせずに「どうしよう」と呟いた。
「このままじゃ、勇斗が逮捕されちゃう」
勇斗が気難しい顔で腕を組み、天井を見上げる。
「そうだな……。
逮捕なら、何度もされてきたけど、今回は訳が違う。
遥斗のやつ、本気で俺のことを殺す気だ」
「こ……殺すって……。
そんなこと、本当にできるの?」
畳敷きのリビングに座り込むと、月雫があぐらをかいて座る勇斗の顔を覗き込む。
「遥斗の性根の腐り方は、月雫だって知ってるだろ。
今のあいつの地位なら、俺ひとり消すくらい、蟻を潰すようなもんだ」
苦悩に満ちた勇斗が、がしがしと黒髪をかき回す。
半年前、真面目にこつこつと仕事に従事していた勇斗は、その姿勢を評価され、工場の正社員として正式に採用され、それを機に自慢の金髪を黒に染めた。
その姿を初めて見たとき、月雫は、『遥斗さんみたい』と感想を漏らしていた。
勇斗の5歳年上の兄、遥斗と勇斗は、歳を重ねるほどに、まるで見分けがつかない双子のように瓜二つになっていった。
ふたりとも180センチ近い長身で、髪型を同じにしてしまえば、背格好で見分けはつかない。
美しく整った顔立ちとモデルのような細身のスタイル。
ふたりの唯一の相違点は、オッドアイだ。
勇斗は左目が青く、遥斗は右目が青いのだが、遥斗はカラーコンタクトレンズを入れて、両目とも黒くみせている。
「勇斗、本当のこと警察に言おうよ。
遥斗さんのことも、ちゃんと話すの。
遥斗さんの手の届かないような、偉い人に相談して……」
子どものころ、月雫に遥斗の悪事を両親に相談しようと言われたことを思い出す。
あのときと同じように、勇斗は首を左右に振った。
「……できない。
前科者の俺と、警察の一員となった遥斗と、どっちの言い分を信じると思う?
遥斗は、いくらでも自分が犯した犯罪の痕跡を消せるんだ。
俺が逮捕されるのは、もう避けられない。
そして、逮捕されたら、俺の人生はそこで終わりだ。
文字通り、死ぬ」
「そんな……」
月雫も思考が行き詰まったのか、黙り込んでしまう。
かちかちと、壁掛け時計の秒針の音だけが狭い部屋に響く。
「……どうすればいいの……」
悲痛な月雫の呟きが、静まり返った室内に尾を引き、煙のように風に流されてやがて消えた。
☆
徳山遥斗は、いわゆるキャリア組の警察官である。
現在23歳で階級は警部補。
成績優秀、品行方正な青年になった遥斗は順調に出世を果たしていた。
人生が順調に回れば回るほど、遥斗の精神のゆがみは亀裂を深めていく。
子どものころからそれは変わらず、遥斗は父に隠れて悪事を働いてはそれを弟の勇斗に罪をなすりつけてきた。
『俺は将来警察官になる。
そうしたら立場を利用して詐欺をやって稼いで遊んで暮らそう』
それが遥斗の口癖だった。
だから、今は濡れ衣を着せてしまうが、将来それをチャラにしようと幼い弟に暴力を振るうとともに言い続けてきた。
そして、遥斗はそれを有言実行し、警察官になった。
遥斗は詐欺や薬物売買、売春の斡旋などの犯罪行為に手を染め、元締めとして暗躍してきた。
犯罪が発覚すると、その罪はすべて弟の勇斗に着せられ、勇斗は兄の代わりに人生を台無しにしてきた。
逆らうという発想は勇斗の中に浮かばなかった。
子どものころから遥斗には勝てないとわかっていたし、時間をかけて刷り込まれた恐怖が洗脳するようにじわじわ勇斗から抵抗する気力を削いでいったのもまた事実だった。
勇斗は早々に人生を諦めた。
しかし、勇斗は変わった。
愛する月雫と子どもを得て、耐えるだけではいけないと思うようになった。
生き写しといっても過言ではないほどそっくりな見た目になったこと、それだけでも奇跡的な不運なのに、遥斗は勇斗の家族──月雫と悟にやたらと興味を示していた。
若くして結婚した弟を心配する心優しい兄の顔をして、たびたびアパートにやってきては悟をあやして手なずけた。
悟は遥斗にすっかり心を許し、遥斗が訪ねてくることを楽しみにするようになった。
勇斗も月雫も、それを黙認するしかなかった。
でも──。
それがいけなかったと、今さらながらに勇斗は悔恨の念に駆られている。
遥斗が、ただ心配して近づいてくるなんて、あるはずがなかったのだ。
──愚かだった。
植え付けられた恐怖が頭のどこかに残っていて、勇斗は遥斗を強く拒絶できなかった。
その末路が、これだ。
なんの罪もない子どもが殺された。
──どうすればいい。
夜が更けても答えはでなかった。
遥斗に対抗する手段──。
月雫が提案した警察に相談することは、絶対にできない。
相手にするのが遥斗ひとりだったのなら、話は変わってくるのだろうが、現実はそう簡単にはいかない。
晴れて念願の警察官になった遥斗は早速、捜査で押収した証拠品の薬物や貴金属を盗み、横流しして不正にカネを稼いでいた。
もちろん、一介の警察官にすぎない遥斗が、そんなだいそれたことをひとりでできるわけがない。
遥斗にはその達者な口で丸め込んだ共謀者が警察内部におり、日々その数を増やして甘い汁をすすっていたのだ。
ところが、遥斗の悪事を嗅ぎつけた存在があった。
『反社』といわれる組織に、遥斗は不正を暴かれ、それをネタに脅迫された。
完璧だった遥斗の人生設計は狂いかけ、遥斗は生まれて初めて、それまでの立場から一転して搾取する側からされる側へと転落した。
だが、遥斗は狡猾な男だった。
自分を脅してきた反社組織に対し、彼らが起こした犯罪を隠ぺいする、揉み消してやると持ちかけたのだ。
犯罪を見逃してやる代わりに金銭まで要求した。
そして、現役警察官と反社組織は手を組み、ありとあらゆる犯罪へと加担することになる。
その話は、月雫も勇斗から聞いて知っていた。
今や警察の誰が味方で誰が遥斗側の人間なのか、勇斗が知る由もなかった。
だから、警察には頼れない。
自殺行為もいいところだった。
以前、アパートにやってきた遥斗が酒に酔い、上機嫌に言ったことがあった。
『警察に相談するなんて考えるな。
俺には協力なバックがついている。
お前が警察に泣きついたら、拘置所や刑務所に押し込んで、反社や半グレにお前を殺させる』
だから、一生お前は俺の言いなりになるしかないんだ、と。
──捕まったら殺される。
では誰に頼るのが正しいのか。
苦悩するうちに、悟が死んでからというもの張り詰めていた疲れが出たのか、月雫と勇斗はちゃぶ台に突っ伏して眠りに落ちていた。




