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『聖なる鉄槌』  作者: 妃水
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第七話 悪夢のはじまり


 季節は巡り、時間は車窓を流れる景色のように止めどなく目が回るほどのスピードで過ぎ去り、悟が誕生してから1年が経った。


 月雫と勇斗と悟は築30年のいつ崩れてもおかしくない古びたアパートの一室で、慎ましく暮らしていた。


 籍を入れ、ふたりは晴れて夫婦となっていた。


 勇斗は自動車整備工場で働きはじめ、真面目に仕事をこなしている。


 家計を助けるため悟を預けられる保育園が見つかれば、月雫もパートに行くつもりだった。


 去年までは考えられなかった穏やかで静かな生活。


 逆風の吹かない凪いだ暮らし。


 悟もすくすく成長し、猛スピードで駆け抜けようとする時間を目に焼き付けて、ふたりはその成長を、目を細めて見守った。


 悟の成長は、当たり前ではなく奇跡だと、ふたりは悟の様子を撮影しては、子どもが寝たあとに見返して、感動の涙を流すことさえあった。


 これが、普通の幸せ。


 月雫が、実の両親から与えられなかったもの。


 いつも、どこかで求めていたもの。


 勇斗と同じように、月雫も探していたもの。


──親からの愛情。


 月雫にとって悟は、初めて触れる肉親であり、親を知らない月雫は息子にどう接するべきかわからず思い悩むことも当然あった。


 育児ははじめてだらけで四苦八苦の連続だった。


 しかし、ハナに自然と愛情は子どもに伝わるものだと教えられ、月雫たちは有り余る愛情を悟に注ぎ続けた。


 悟が生まれたてなら、月雫や勇斗も、親として新米なのだから、わからないことがあっても当然なのだとハナに教えられ、いくぶんか肩ひじ張っていた月雫は力を抜くことができた。


 生まれる前は、正しく子どもを愛せるか不安だったが、自分たちが守らなければ生きていけない存在が、今は愛おしくてたまらなかった。


 悟のためならなんでもしてあげたい、ふたりはそう考えていた。


 温かで穏やかな家族3人で過ごすかけがえのない時間は笑いが絶えず、月雫は幸せの絶頂だった。


 このまま、家族寄り添って、平穏に暮らせればいい。


 だが、そんなふたりの願いは、悪魔のごとき存在によって破壊され、終わりを告げることになる。



「じゃあ、悟を公園に連れて行くね」

 

 そう声をかけられ、キッチンにいた月雫は、とっさに笑顔を浮かべて「あ、はい、よろしく」とふたりを送り出した。


 玄関を出る際、悟は振り返ってにっこり笑うと、小さな手を月雫に向けて振ってみせた。


「行ってくるね、ママ」


「行ってらっしゃい、悟。

 楽しんでくるのよ」


 手を繋いだふたつの影がアパートを出て行った。


 月雫はふう、と溜め息をつく。


 やっぱり『あの人』と話すのは緊張するし、気分のいいものではないな、と痛感する。


 でも、悟は彼に懐いている。


 なんだか複雑な心境だった。


──だって、あの人は──。


 頭を振って余計な考えを追い出すと、もう一度溜め息を零し、水を流してシンクにたまった皿を洗う作業に取りかかった。



「ただいまー」


 夕方になり、勇斗が帰宅すると、青い顔をした月雫が飛びかかるように勇斗にすがりついてきた。


「な、なんだよ、どうした?」


 月雫のあまりの剣幕に、勇斗は目を白黒させている。


 月雫はスマホを握った手をふるふると小刻みに震わせていた。


「どうしよう……勇斗……。

 まだ、悟、帰ってこないの。

 警察に、連絡したほうがいいのかな?」


「悟が?

 どこ行ったのかわからないのか?」


 勇斗は、月雫の華奢な肩に手を置いて、落ち着かせるように瞳を覗き込んで優しく訊いた。


「公園に……行ったはずなんだけど」


「はず?

 月雫が一緒だったんじゃないのか?」


「ううん、違う……」


「じゃあ、悟がひとりで?」


「違うの、は、遥斗さんが……」


「遥斗!?」


 勇斗が目を剥いて絶叫する。


「遥斗と、悟がふたりきりに……?

 どうして遥斗が悟を連れ出したんだ!」


 勇斗の焦燥が滲む荒らげた口調に、月雫は怯んだ表情になったが、それを押し殺して震える声で話しはじめた。


「今朝、勇斗が『ひまわり』のリフォームを手伝うために朝ごはんより前に家を出たでしょ?

 そのすぐあとに、遥斗さんがいきなり訪ねてきたの。

 それで、悟と公園で遊んでくるからって言われて……。

 断るのも悪いし、ちょっとだけの時間なら大丈夫かなって、任せちゃったんだけど」


「……っ。

 俺が朝からいないこと、あいつ、わかってたんだ……」

 

 頭を抱えてしまった勇斗に、月雫が涙目になりながら必死になって謝った。


「ごめんなさい、ごめんなさい……。

 わたしが、もっと警戒していれば……。

 どうしよう、悟になにかあったら……」


 勇斗が顔を上げて表情を引き締めると、動揺する妻を優しく抱擁する。


──自分がしっかりしなくては。


 勇斗は早鐘を打つ心拍を深呼吸で抑えつけ、できるだけ冷静に、月雫を抱きしめたまま、その耳元に毅然とした、それでいて落ち着いた語り口で言い聞かせる。


「月雫が謝ることじゃない。

 それに、まだなにかがあったとは決まってないんだ。

 どこかでメシ食ってるだけかもしれないし、とりあえず、公園と近所を探そう。

 警察に通報するのはそれからだ」


 大粒の涙を流していた月雫が、唇をきつく結んで気丈にうなずく。


「別行動になるけど、連絡は密に取ろう。

 大丈夫、きっと無事に見つかる。

 月雫はママだろう、ママが不安だと子どもにも不安がうつる」


 袖口で強引に涙を拭って、月雫が部屋着のままスニーカーに足を通す。


「悟、絶対に見つけてあげるから」


 そう決意のこもった声音で宣言すると、「その調子」と勇斗が月雫の頭を撫でた。


「行こう」


 ふたりはうなずき合ってアパートの軋むドアを開けて文字通り飛び出していった。


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