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『聖なる鉄槌』  作者: 妃水
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第五話 兄という呪い


 勇斗の父親、善治よしはるは、都議会議員だ。


 他人に厳しい性格で、その厳しさは家族──息子の遥斗はるとと勇斗にも向けられた。


 善治は、自分の地盤を継ぐ後継者として育てるべく勇斗より五歳上の兄、遥斗に幼いころから厳しく教育した。


 その結果、遥斗は成績優秀で運動神経も抜群、リーダーシップがあり、父親の期待通りの優等生に成長した。


 対する勇斗は、人と関わることが苦手で、成績も運動神経もそこそこ、特筆して秀でたところのない平凡な子どもだった。


 必然的に遥斗と比べられ、勇斗は家の中でも居場所がなく、虐げられて育ってきた。


 母親のありさは、実家が裕福で箱入り娘として育ち、働いた経験もなく、善治と結婚したあとは、専業主婦として夫を支え、善治の教育方針に一切口出しをしなかった。


 自分というものがなくて、善治に言われるがまま、流されるがままに従い、善治が遥斗を優遇するならそれに逆らわず、勇斗を毛嫌いするなら同調し、味方になってくれることはなかった。


 しかし、遥斗は善治の知らないうちに、父の望む通りの『良い子』で居続けることで、本来の自分というものを押し隠し、いつしか耐えきれなくなった遥斗の人格にはひびが入り、人知れず歪んでいった。


 勇斗が6歳になるころには、遥斗はその歪みを解消するために、自分より弱い存在の弟に暴力を働き、ストレスを発散していた。


 それが、あの雨の日に月雫が見た勇斗の身体に刻まれた痣の真相だった。


 どれだけ遥斗に殴られても、勇斗は親に告げ口することはなかった。


 善治に気に入られていない自分がなにを言っても信じてもらえないだろうと、幼いながらに親に求める期待のすべてを諦めていたからだ。


──兄ちゃんをかばうに決まっている。


 勇斗は親に愛されることを放棄した。


 愛されるための努力もやめた。


 そんなとき、決定的なことが起こった。


 善治の耳に、遥斗が酒と煙草を買っているところを見た、と報告する者がいたのだ。


 立場上、息子のスキャンダルは命取りになる。


 善治は、遥斗の部屋を徹底的に捜索した。


 その結果、遥斗の部屋から酒瓶と、煙草が見つかった。


 善治は激怒した。


 その場に居合わせた勇斗は、あまりの恐ろしさに身を縮めた。


 15歳になる遥斗は、泣きながら必死に許しを乞うた。


 そして、あろうことか、こんなことを言い出したのだ。


「ぼくが隠さなければ、勇斗が怒られると思ったから……」


 えっ、と勇斗は声をあげた。


 善治の表情が怪訝なものに変わる。


「お前が買ったんだろう?」


「はい……。

 勇斗に頼まれて、仕方なく……。

 ぼくは、止めたんだけど、勇斗がどうしてもお酒と煙草をやってみたいって言うから……。

 でも、やっぱり駄目だと思って、ぼくが預かって隠してました」


 しおらしい遥斗の告発を聞いた善治は、顎をさすりながら、威圧するように勇斗をめつけた。


「勇斗、本当なのか」


 勇斗は、とっさに声を出せないでいたが、それでもなんとか喉から声を絞り出して言った。


「……ち、違う、違うんだ、ぼく……じゃない」


 勇斗は抵抗した。


 運命に抗うように。


 なぜだか、頭に浮かぶのは、月雫の優しい微笑みだった。


 大好きな、彼女の笑顔だった。


 勇斗は必死で訴えた。


 自分は無実なのだと。


 ところが、善治は勇斗を汚いものでも見るような目つきで睥睨し、一喝した。


「嘘をつくな!

 おかしいとは思ったんだ。

 遥斗が酒や煙草なんかに手を出すはずがないと。

 勇斗、お前は一体どれだけ私たちに迷惑をかければ気が済むんだ?

 まったく嘆かわしい。

 兄に罪を犯させるなど……言語道断だ」


「ち、違……」


 勇斗はすがりつくような目で反論しようとするが、轟く雷鳴のごとき迫力を持つ善治の低い声に震え上がり、恐怖のあまり語尾が濁って消えていってしまう。

 

 酒も煙草も遥斗が勝手に買ったものだ、ぼくは関係ない──。


 善治の自分を見る目つきを見て、勇斗はその言葉を飲み込んだ。


──ぼくの声なんか、父さんには届かない。


 そんなわかりきっていたことを、いまさらになって思い出す。


 なにをどうすれば、問題が平和的に解決するのか、勇斗はもうわかっている。


「……ごめんなさい」


──自分が、悪者になればいい。


 善治は、満足そうにふんと鼻を鳴らした。


 真実などどうでもいい、善治は、現実が自分の思い通りに運べばそれで構わないのだ。


「謝ればなんでも許されると思うな。

 充分反省させるために部屋から出ることを禁止する。

 ありさ、お前が見張っていろ」


「……はい」


 ありさは美しい顔に恐怖と緊張をにじませながらそうとだけ答えた。


 それから2週間、勇斗は部屋から出ることを許されず、学校に行くこともできなかった。


 遥斗は無罪放免で学校に通っていたため、酒と煙草を買ったのが、姿を見せない勇斗のほうだったのだと、噂話が伝わるうちに内容が変化していったのだった。


 

「……そんな、ひどい」


 話を聞き終えた月雫は絶句した。


「勇斗、ちゃんと本当のことを話そうよ。

 お酒のことも、痣のことも、全部正直に話すの。

 親なんだから、きちんと話せば聞いてくれる……」


「なにも知らないくせに!」


 突如勇斗が立ち上がり、激昂した。


 初めて聞く、荒々しい口調だった。


「なにも知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」


「……確かに、わたしはなにも知らないよ。

 勇斗の立場も、なにもわからない。

 でもね、わたしは勇斗の味方でいたいの。

 勇斗のことを一番に考えているから、勇斗が言われたくないことも言ってしまう……。

 勇斗を傷つけるつもりはなかったの、ごめんなさい」


 月雫が頭を下げるのを見て、我に返った勇斗は、はっと息を呑む。


「ごめん……本当にぼくは駄目だな。

 月雫を責めるなんて、お門違いもいいところだ……。

 言い過ぎた、ごめん」


「ううん、いいの……」


 月雫が泣いていることに気づいた勇斗は、激しい後悔に襲われ、寒いはずなのに妙に火照った手で、彼女の小さな両手をきつく握りしめた。


「ごめん、ごめんね、月雫」


 月雫の手は、冷たくなって震えていた。


「こんなぼくで本当にごめん。

 月雫を、泣かせなくないのに。

 月雫にだけは、笑っていてほしいのに……。

 ……月雫」


 ん?と月雫が涙に濡れた顔を上げて真っ直ぐな眼差しで勇斗を見上げる。


「好きだよ、月雫。

 ぼくには、月雫だけなんだ」


 月雫は大きく目を見開いて驚愕の表情になる。


 その反応で、勇斗は自分の想いが成就しないことを悟った。


「……いや、今のは……。

 ちょっとした勢いで……」


「本当?」


「……え?」


「わたしの、片想いじゃなかったってこと?」


「片想い?」


「だって、今、勇斗、わたしを好きって、言ったよね?」


「う、うん、言った、けど……」


「じゃあ、両想いだね、わたしたち!」


 月雫が極上の笑顔を勇斗に向ける。


 遅れて勇斗は自分と月雫が結ばれたことに気づき、濡れ衣を着せられた憂鬱すら一瞬で忘れ、これまで経験したことがないほど興奮した。


「月雫も、ぼくのこと好きでいてくれたの?」


「そうだよ!

 わたし、1年生のときから勇斗が大好きだったの。

 でも、勇斗はわたしと喋ろうとしてくれなかったから、ずっと片想いのままなんだろうなって、思ってたの」


「そうだったんだ……。

 気づかなかった……。

 ぼくが月雫を好きになったのは、初めてこの公園で声をかけてくれたときだったから……」


「なあんだ、じゃあ、わたしのほうが勇斗を好きな年数が長いんだね。

 わたしの勝ち!」


 勝ち誇ったような月雫の言葉に、勇斗は笑いながら眉尻を下げた。


「勝ちって、なんの勝負してるの、月雫。

 変なの、面白すぎるよ」


 月雫も勇斗も泣きながら、ふふふ、と笑いつづける。


 月雫は勇斗の手を握ったまま立ち上がると、ダンスでも踊るかのように華麗にターンしてみせた。


「『ひまわり』に帰ろう、勇斗。

 温かいごはん、ハナちゃんに作ってもらおう。

 もううちになんて帰らなくていいよ。

 ずっと『ひまわり』にいなよ」


「……そうしたいけど、父さんは許してくれないよ。

 セケンテイにうるさいから」


「じゃあ、怒られないぎりぎりまで、『ひまわり』にいたらいいよ。

 それなら大丈夫でしょ?」


「うん、邪魔じゃないなら、ぼくは『ひまわり』にいたい」


「ハナちゃんが邪魔なんて言うわけないよ、行こう」


 少しだけ勇斗が頼りなく寂しそうに笑んだ。


「信頼してるんだね、ハナちゃんのこと。

 身近に信じられる大人がいるって、いいなあ」


 それは、自然と口をついて出た勇斗の、心からの憧憬と本音だった。


「ハナちゃんなら、勇斗のことも大切に思って、守ってくれるよ。

 子どもを育てるのが、ハナちゃんの生き甲斐なんだって。

 ……ハナちゃんにはね、1歳のときに死んじゃった子どもがいたんだって。

 自分の子どもは育てられなかったけど、わたしたちみたいな恵まれない子どもを育てることで、寂しさが埋まるって言ってた」


「じゃあ、ぼくが甘えても、受け入れてくれるかな?」


「当たり前じゃん!

 心配することないよ、行こ!」


 手を繋ぎ直すと、月雫と勇斗は走り出した。


 繋いだ手の温もりが、まだ幼いふたりに勇気を与え、その心強さに、勇斗はいつしか子どもらしい笑顔を浮かべていた。


 自分の手を引いて走る月雫の背中を、いつまでも見つめていたい、繋いだ手を絶対に離さない。


 夕闇の中、一条の希望のように光り輝く月雫の笑顔を守ろうと、勇斗は強く誓った。





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