第三話 ひまわりの園
それから数日後のことだった。
月雫は放課後、年下の子どもたちを連れて、近所の公園にきていた。
夕飯までの間、子どもたちの遊び相手になるのはほとんど月雫の役目のようになっていた。
陽が傾きはじめ、空が紫に染まり出した時刻になって、そろそろ帰ろうと声をかけようとしたとき、公園の隅のベンチに座っている人物に目が留まった。
「月ねえ〜?
帰ろうよ〜」
公園の入り口に立った由香が月雫を呼んだ。
「うん、わかった、行こう」
子どもたちに駆け寄ると、公園と目と鼻の距離にある『ひまわり』へと向かった。
「徳山くん」
子どもたちを送り届け、その足で公園へとんぼ返りした月雫は、暗がりのベンチに座る少年にそう声をかけた。
わずかに残った太陽の残滓が徳山勇斗の顔を照らし出した。
「どうしたの、もう遅いよ、帰らないの?」
月雫は、なけなしの勇気を振り絞って話しかけた。
しかし、勇斗はうつむいたまま答えようとしない。
普段なら、勇斗から醸し出される近づくなオーラに二の足を踏んで会話を諦めるのだが、この日の月雫は、覚悟が違った。
たとえ深入りされたくない領域に踏み込んで拒否されたとしてもいい。
勇斗がつらい思いをしているのなら、力になりたい。
それが憶測や思い込みだったら、そちらのほうがよほどいい。
だから、体当たりするつもりでぶつかってみよう。
月雫の正義感が、そんな行動を取らせた。
月雫は勇斗の隣に腰かけた。
勇斗は相変わらず無言で、遠く沈みゆく太陽を眺めている。
なんの反応もないまま立ち去られるほど拒絶されることはなく、密かに安心したものの、距離感を埋める糸口を月雫は見つけられないでいた。
──嫌われてるな、わたし。
沈黙のなか、月雫が自嘲の笑みをそっと浮かべた、そのときだった。
「うちに帰りたくないんだ」
と、ぽつりと勇斗が言葉を落とした。
勇斗からリアクションがあったことに驚きつつ、月雫はこわごわと、しかし、できるだけなんでもないことのように、探り探り訊いた。
「それって、もしかして、身体の火傷と痣に関係ある?」
勇斗が息を呑む気配がする。
月雫も身体を強張らせた。
返事はないだろうと、月雫はそう思っていたが、隣から諦念の溜め息がしたかと思うと、勇斗が小さくうなずいた。
「家族の、誰かに……?」
その問いかけに勇斗はなにも言わなかった。
月雫も、それ以上尋ねることをやめた。
「じゃあ、うちにきなよ」
自然に、本当に自分でもびっくりするくらいするりと、そんな言葉が口をついて出た。
「え?」
勇斗が目を丸くし、月雫を凝視した。
初めて真正面から浴びる勇斗の視線にかすかに動揺しながら、でも月雫は笑みを浮かべて一息に言った。
「あ、うちっていっても、普通のうちじゃなくて、養護施設、なんだけど。
わたし、赤ちゃんのときからそこで育ってね。
……あ、そんなこと徳山くんにはどうでもいいか、あはは。
で、ね、他の子がうるさいのさえ我慢してくれれば、夕ごはんくらい作ってくれると思うよ」
だから、どう?と月雫は勇斗の顔を覗き込む。
困惑顔になった勇斗だったが、暗闇に支配されつつある夜のはじまりに心細さを感じた様子で迷いながらも月雫の誘いに応じた。
うなずく勇斗の隣で、月雫は人知れず心の中でガッツポーズを決めた。
意気揚々と勇斗を連れて『ひまわり』の玄関を入り、「ただいまー」と声をかける。
靴を脱ぎ、勇斗の分のスリッパを用意していると、「お邪魔します……」と恐縮した様子の勇斗が玄関ドアをそっと閉めながらか細い声で言った。
スリッパに足を通している勇斗を目ざとく見つけた子どもたちが、リビングからどやどやと押し寄せてくる。
「月ねえ、それ、誰ー?」
「新しくうちに住む人ー?」
遠慮なく好奇の視線をぶつける年下の子どもに勇斗は目を白黒させている。
「こら、騒がないの。
徳山くん、本当、うるさくてごめん」
月雫が子どもたちを注意していると、騒ぎを聞きつけたのか、キッチンから中年女性が姿を現した。
「なに騒いでるの、もうすぐ夕ごはんが……あら?」
エプロンをつけた中年女性──施設長の赤崎ハナが玄関に佇む月雫と、勇斗、そのふたりにわらわらと群がる子どもたちを見て驚いた顔を作ったあと、月雫を肘で小突いた。
「え、月雫、もう彼氏連れてきたの!?
いつ彼氏なんか作ったのよ!」
「ち、違うよ、ハナちゃん!
と、友達!」
顔を真っ赤にしながら月雫が叫ぶと、勇斗が弾かれたように顔をあげた。
その反応に、はっとなった月雫は慌てて勇斗に向き直る。
「ごめん、いきなり友達なんていって馴れ馴れしかったよね?」
月雫が眉を下げながら、勇斗の顔をうかがうと、困惑顔の勇斗が、ぶんぶんと首を左右に振った。
「そんな……嬉しかったから、友達っていってもらえて」
「そ、そっか……。
それなら、よかった」
月雫も勇斗も、ともに安堵の表情を浮かべる。
そんな初々しいふたりのやり取りを眺めていたハナは、丸い顔に満面の笑みを作って勇斗を手招きした。
「月雫が友達を連れてくるなんて初めてよ。
よかった、ちゃんとお友達がいて。
いらっしゃい、ええと、お名前は?」
「……あ……徳山、徳山勇斗です。
はじめまして、よろしくお願いします」
「勇斗くんね、はい、はじめまして。
しっかり挨拶できてえらいわねえ。
さ、どうぞ、もうすぐ夕ごはんできるから、食べていってね」
「え……でも、急にきて迷惑なんじゃ……」
「子どもが気を使う必要ないの!
それに、いまさらひとりやふたり増えるなんて問題ないわ!」
すると、ハナの横から虎太郎が割り込んで嬉しそうに言った。
「経営が苦しい、だけどね!」
虎太郎の台詞に、ハナがからからと明るい笑い声をあげる。
「そうそう、経営が苦しいのは変わらないってね!」
『経営が苦しい』はハナの口癖だ。
溜め息をつきながら、子どもの前で、しょっちゅう平気で口にしている。
ハナは養護施設の施設長として経営に頭を悩ませながら、自身も職員として調理や掃除、洗濯などの家事を担当して、子どもに愛情を持って接してくれる施設の『お母さん』だ。
施設の子どもたちが過剰な劣等感を抱かずに、のびのび過ごせるのは、子どもたちをハナが太陽のように照らしてくれるおかげでもある。
ふっくらとした体型に絶やさない優しげな笑顔、おおらかな性格のハナは何人もの『子ども』を育て送り出してきた。
「さあ、勇斗くんも食堂へどうぞ」
食堂、とはいっても十二畳ほどの畳敷きの和室に長テーブルが置かれているだけの質素な部屋である。
人数分の座布団が並び、あちらこちらにおもちゃや宿題のプリントなどが散乱している。
ふすまで仕切られた隣はリビングで、同じく畳敷きの部屋にはテレビがあり、普段は子どもたちが思い思いに過ごしている憩いの場所だ。
「はい、座って。
いただきますしましょう」
伸治に勉強を見てもらったり勇斗に群がっていた子どもたちが、目を輝かせてそれぞれの座布団に座る。
「ハナちゃん、今日はなに?」
「カレーよ、たくさん作ってよかったわ。
勇斗くん、遠慮せずたくさん食べてね」
新しい座布団を与えられた勇斗は、「は、はい……」と緊張の面持ちで答えた。
「ハナちゃんのカレーとってもおいしいんだよ、はやとくんも食べたらほっぺがおちちゃうよ!」
由香が勇斗の隣に陣取りながら、むに、と自分の頬をつまんでみせる。
由香にどう接していいのかわからないらしく、勇斗は曖昧な表情を浮かべて口の端を不自然に持ち上げた。
子どもには慣れていないようだ。
ハナとそれを手伝う子どもによって手際よく皿が並べられ、全員で手を合わせて「いただきます」と言うと、食べ盛りの子どもたちが食事をはじめた。
「勇斗くん、足りなかったらおかわりしてね。
男の子は食べるのが一番よ」
ハナの言葉に再び勇斗が頭を下げる。
そして、おもむろにスプーンでカレーをすくうと、口に運び咀嚼する。
「美味しい……」
まだ、ほかほかと湯気が立つカレーを頬張ると、勇斗は消え入りそうな声で感想を漏らした。
「美味しい、です」
ハナが福々しい顔をくしゃっとさせて笑う。
「本当?
お口に合いましたら光栄ですわ、王子様」
ハナの言葉に子どもたちが爆笑する。
「ハナちゃん、なにそれ!」
「あら、勇斗くん、まるで王子様みたいな綺麗な顔してるじゃない。
うちの子にはいないタイプだわあ」
「ふーん、王子様かあ。
確かに、はやとくん、すっごくイケメンだね」
ハナと女の子たちにきらきらとした瞳で熱視線を突き刺された勇斗はたじろいで顔を引きつらせている。
「もう、ハナちゃんまで……。
徳山くん、ごめんね、気にしないで」
月雫が申し訳なさそうに謝るが、勇斗は思いの外迷惑そうではなかった。
「あ……平気、だよ。
こういうの、知らない人とごはん食べる機会、ほとんどなかったから、どうしたらいいのかわからなくて……」
だから戸惑っているだけだと、勇斗は早口で説明した。
どうやら不快に感じているわけではないらしいとわかり、月雫は胸を撫でおろす。
がやがやとやかましく話す声、食器を打つスプーンの音、男の子同士ではじまる小競り合い、注意する大人の真似事をする女の子、遊びだす幼児──。
食事の時間は、いつも混沌としている。
自分の食事そっちのけで子どもたちの面倒を見ていたハナが、思い出したように勇斗に尋ねた。
「そういえば、勇斗くん。
おうちの人にここへくることは話してあるのかしら?」
ハナの問いかけに、勇斗の顔がわかりやすく強張る。
「……うちの家族は……。
ぼくが帰らなくても、気にしないから……」
勇斗の受け答えにハナが眉を吊り上げる。
「あら、子どもを心配しない親なんていないわよ」
勇斗が深く沈んだ顔色になっていく。
「うちは……そうなんです。
親が大切なのは兄ちゃんだけで、ぼくのことなんて、どうでもよくて……」
消え入りそうな勇斗の告白を聞いたハナが笑顔を消し、神妙な表情になる。
「……そう。
勇斗くん」
ハナが居住まいを正して言うので、勇斗も、はい、と背筋を伸ばす。
「もし、家にいるのがつらかったら、いつでもうちにきていいのよ。
ごはんを食べさせてあげることくらいしかできないけど、ここにいれば他の子どももうるさいし、寂しくはないはずよ。
帰りたくない日は、ここにおいでね」
ハナの包み込むような優しい笑顔に、勇斗が緊張を解いて、しかしもう一度険しい顔になる。
「でも……。
迷惑なんじゃ……」
「子どもが気を使わない!
他の子を見なさい、わがままばかりで自分勝手で、やりたい放題でしょ?
でもね、子どもはそれでいいの。
わがままを言って許されるのは子どもの特権。
みんな、わがままを言って大人になるの。
そんなに早くから、大人の顔色ばかりうかがうことはないのよ。
自分を抑えるのだけは、やめなさいね。
いつか限界を迎えたとき、一番傷つくのは、勇斗くん、あなたなのよ。
逃げたかったらいくらでも逃げていいの」
ハナの珍しく真面目な説法に、勇斗だけではなく、他の子どもたちも静かに話を聞いている。
優しいだけではない、ときには厳しいことも、わかりやすい言葉にして伝えてくれるのも、ハナの持つ一面だった。
大人は自分のことをちゃんと考えてくれている、子どもは、そう実感することで、健やかに成長していける。
「わかった?
だから、これからも安心してここにきなさい。
ここは、いつでもあなたを待っているし、逃げ場所になれるの。
非行に走っておかしな大人に騙されるようになったら取り返しがつかないわ。
それなら、うちに入り浸ってくれたほうがどれだけ安心か。
わたしたちは、勇斗くんの居場所になれるのよ」
柔らかく諭すハナの言葉に、きゅっと唇を引き結んで、勇斗がうなずく。
その口元が、わずかに引きつっている。
泣くのを我慢しているのだ、と月雫は気づいて、そっと顔を逸らした。
「あら、変な空気になっちゃったわね。
誰のせい?」
静まり返った食堂に、ハナのわざとらしい声が響いて、「ハナちゃんのせいでしょ!」とこの施設の最年長、高校1年生の綾子が苦笑いしながら突っ込みを入れる。
「あら、わたしそんなに変なこと言ったかしらねえ。
カレーが冷めちゃうわ、早く食べましょう」
ハナの一言をきっかけに、食事が再開された。
それからは、いつもの団らんという名の喧騒が繰り広げられ、賑やかな夕食は終わりを告げた。
「ごちそうさまでした」
玄関に立った勇斗が深々とハナに頭を下げた。
「お粗末さま。
本当に、家まで送っていかなくて大丈夫?」
ハナは施設の子どもへと向ける慈愛に満ちた眼差しを勇斗へも向けている。
それを受けて、勇斗は初めて薄く笑った。
年相応の、照れたような、はにかんだ微笑みだった。
端正な勇斗の笑顔に、月雫の心臓が撃ち抜かれる。
──わたし、徳山くんが、本当に大好きだ。
勇斗を見送るために玄関に立っていた月雫は、急に恥ずかしくなって赤面したままうつむいてしまう。
「じゃ、気をつけて帰ってね。
また、いつでもくるのよ」
「はい、ありがとうございました」
勇斗はもう一度頭を下げると、『ひまわり』を出ていった。
☆
それ以来、勇斗はたびたび『ひまわり』へやってきた。
子どもたちと一緒になって遊んだり、積極的にハナの手伝いを申し出たりして、すっかり施設の一員となりつつあった。
子どもたちも勇斗によく懐き、今では月雫よりも勇斗と遊びたがるほどだ。
「月ねえ、今日勇斗くんこないの?」
と、帰宅すると子どもたちに聞かれるくらい、子どもたちは勇斗を気に入っているらしい。
学校で勇斗と話す機会も圧倒的に増えた。
話してみると、勇斗はごく普通の男の子で、どうやら月雫に心を許してくれたようで、ふたりの会話は弾んだ。
勇斗の笑顔を見る回数も格段に増した。
どんなささいなことでも、くだらないことでも、勇斗と話せるだけで月雫にとっては嬉しい進歩だった。
月雫は、どんどん勇斗に惹かれていった。
☆
「綺麗だね」
縁側に座って、子どもたちが花火をしている様子を眺めながら月雫が言うと、隣に座る勇斗も、そうだねと同意した。
夏休みの真っ只中の夕方、『ひまわりの園』では中庭で花火大会が催されていた。
蒸し暑い熱帯夜の中、手持ち花火を子どもたちが歓声を上げながら楽しんでいる。
花火を見ているうちに、月雫はむくむくと膨らんだ問いを、もう無視できなくなった。
花火──火傷あと。
「あの、ね。
勇斗くん」
ぎこちなく切り出した月雫に、「ん?」と勇斗が聞き返す。
すうっと息を吸って、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、月雫は訊いた。
「身体の痣と火傷のあと、見ちゃったでしょ、わたし。
それで、避けられてるんじゃないかなって、思ってたの」
「……ああ」
勇斗が気まずそうに漆黒の空を見上げる。
「……あれ、うちの人に、されたの?」
中庭に響く歓声と花火に照らされた勇斗の横顔。
目がチカチカするような、眩しい花火の光りにさらされた目に縁側に置かれた蚊取り線香の煙が染みる。
「……兄ちゃんが、殴るんだ」
ぽつりと言葉を勇斗が落とした。
「痣も火傷も、全部?」
「そう。
でも、父さんも母さんも知らない」
「どうして、言わないの?」
「言っても信じてくれない。
それに、告げ口したってバレたら、もっとひどく兄ちゃんに殴られる。
……殺されるかもしれない」
月雫が息を呑む。
「怖いの、お兄さん」
「怖いよ。
世界で一番怖い。
逆らうなんて、絶対できない。
だから、月雫ちゃんも、誰にも言わないで。
ハナちゃんにも」
「……わかった。
ふたりだけの秘密ね」
勇斗がうなずいたそのとき、「勇斗兄ちゃんも一緒に花火やろうよー」と子どもたちが勇斗の腕を掴んで中庭へと引っ張っていく。
先程まで憂いが浮かんでいた勇斗の表情は、すっかり子どもたち同様楽しそうな笑顔に変わっていた。
「月ねえ、どうしたの、月ねえも一緒に花火やろ?」
「うん!」
勢いをつけて立ち上がると、中庭に降りてしゃがみ込み子どもたちに交じって線香花火に火を点けた。
「線香花火、誰が最後まで落とさないか、対決しようよ!」
誰かがそう提案し、月雫たちは花火遊びに興じた。
それは、『ひまわり』の子どもと勇斗にとって、暑くて長い夏の、忘れられない思い出を作った一夜となった。




