第十五話 田辺佐知子の恋心
太陽が頭上高くに昇るころ、昼食時に倫子の運転する車がとある定食屋の駐車場に停まった。
サラリーマンや建築現場などで働く男性に混じって、お目当ての人物──田辺佐知子がひとりで昼食を摂っていた。
「田辺佐知子さん、ですよね?」
月雫がそう声をかけると、薄いレンズのふちなし眼鏡をかけた無表情の女性──田辺佐知子が顔を上げた。
勇斗とともに佐知子の対面に座る。
佐知子は焦る様子もなく静かにふたりを見据えていた。
「腹減ったし、俺たちもなんか食うか」
「そうだね」
周囲は食事に集中していたりお喋りに花を咲かせている人ばかりで喧騒に満ち、月雫たちに注意を払う人間はおらず会話を聞かれる心配もなさそうだった。
注文を済ませ、月雫が改めて頭を下げる。
「突然呼び出してしまってすみません。
わざわざお仕事中にお越しくださり、ありがとうございます」
「……いえ」
佐知子は言葉少なな性格のようだ。
「秋島絵里香さんの関係者の方、ですか?」
佐知子はそう言うと箸をテーブルにそっと置いた。
佐知子の素性を調べた想が、秋島絵里香の名前を出して佐知子に連絡を入れ、アポイントを取ったのだった。
「あ……、関係者、かどうかはわかりませんが……。
秋島絵里香さんに田辺さんを紹介していただきました」
「……ということは、秋島さんは逮捕されたのでしょうか」
「自首すると言っていました。
今頃はもう……」
佐知子が思慮深そうな一重の瞳を伏せる。
「こんな日が、いつかくることは、わかっていました」
世をはかなむ憂いを帯びた静かな声音で佐知子は溜め息をそっとつく。
「……どういうことですか?
あなたと秋島さんは、どんな関係なんです?」
佐知子は一瞬天井を見上げると、観念したように口を開く。
「とある駅で、ホームから男性を突き落とそうとしている女性を見かけました。
私は彼女の腕をとっさに掴み、彼女が人殺しになるのを防ぎました。
なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわかりません。
ただ、そのときはそんなに簡単に殺させたくない、そう思っていたのは確かです」
「……秋島さんが突き落とそうとしたのは、徳山遥斗という男ですよね?
田辺さんは徳山遥斗とどんな関係なんですか?」
「徳山遥斗?
いえ、名前は勇斗だったかと記憶していますが……。
張本人が目の前にいるのだから、彼に聞かれては?」
「……あ」
そこで月雫は、秋島絵里香が勇斗に対して見せた反応を思い出す。
佐知子も、勇斗が自分を陥れた『徳山勇斗』だと思っている。
面倒を感じつつ、月雫は絵里香のときと同じように、勇斗と遥斗は別人であると滔々と辛抱強く説明した。
真実を知った佐知子は、目を見開き、さすがに驚きをあらわにした。
「本当に、よく似たご兄弟なんですね」
佐知子の誤解を解き終えると、早速話の核心に迫る。
「秋島絵里香さんと、なにがあったんですか?」
「秋島さんに犯行を思いとどまらせたあと、駅のホームで話をしました。
そこで、秋島さんが私と同じように徳山勇斗──失礼、遥斗を恨んでいることを知りました。
同じ徳山遥斗の被害者として、私たちは意気投合して連絡先を交換しました」
佐知子が鼻を鳴らして吐き捨てる。
「私たちは徳山の被害者……。
そういって盛り上がりました。
『被害者』……。
便利な言葉だと思いませんか?
私は徳山の被害者、あの男に逆らえなかった、そう自分の犯した罪を棚上げにして逃げるための理由を作れますから。
でも、逃げ切れるわけがない。
だって、私は、私の意志で罪を犯したのだから……」
頭痛をこらえるように佐知子が頬杖をついて頭を支え表情をゆがめる。
「わたしたちは、徳山遥斗の悪事の証拠を探しています。
ささいなことでもいいのです、遥斗さんの犯罪を暴く手がかりを、なにかお持ちではありませんか?」
佐知子はコップの水を飲んだり箸をもてあそんだりして、なかなか話し出そうとしなかった。
だが、やがて決意を固めたように鋭い双眸を月雫たちに向けて重い口を開いた。
「それを話すには、私が犯した罪を話さなければなりません。
私ひとりでどうにかできる事態ではないので、お話しすることでなにが起きるかわかりません。
私やあなたたちが消される可能性だってあります」
「構いません。
なにか知っていることがあったら、教えてください。
わたしたちが警察に通報したりすることはありませんから」
佐知子が薄い唇を、かすかに持ち上げる。
「いいえ、あなたたちが私に辿り着いた時点で、きっと私の人生は終わりなのでしょう。
私はずっと、贖罪の機会を欲していたのかもしれません」
「贖罪……」
真っ直ぐ顔を上げ、声に少しだけ張りを載せて佐知子は語りはじめた。
「私は、許されない行為をしました。
殺人です」
その告白を月雫と勇斗が息を殺して聞き入る。
「ことのはじまりは、私が同じ銀行に勤める上司と不倫したことでした。
上司──彼は家庭がありましたが、すでに破綻しており、私を含め何人か愛人がいるようでした。
彼はギャンブル狂いで多額の借金もしていて、私は銀行のカネを横領して彼に貢いでいました。
でも、そんな綱渡りな生活に疲れてしまったとき、彼が『闇バイト』に参加しないかと言い出したのです。
私は、彼のためになるならと、了承しました。
なんだかんだ言って、私は彼のことが好きでしたから。
私に与えられた仕事は、銀行の窓口から特殊詐欺の被害に遭っている人がカネを振り込むのを監視する役目でした」
でも、と佐知子が陰鬱に続ける。
「一度甘い汁を吸うことを覚えた彼は、実入りのいい『闇バイト』にどんどんのめり込んでいきました。
その指示役が、徳山勇斗を名乗る男でした。
そして、ついに強盗に手を染めることになります。
私も実行役として彼とともに参加し、回を重ねるうちに上司は強盗のリーダー格になっていきました。
徳山遥斗は異常な人間でした。
普通、指示役は姿を見せず命令をくだすだけだと思うのですが、徳山は違いました。
自分も実行役として強盗に参加してきたのです。
徳山は犯罪そのものを一種のエンタメとして捉えているようでした。
まるで子どもが遊びに加わるみたいに強盗をはたらいて愉しんでいるみたいでした」
「遥斗さんが、強盗まで……」
思った以上に徳山遥斗という人間の業や闇は深いようだ。
「強盗に入ったその日、家主のお年寄りに抵抗され、徳山と上司に命令されるがまま、私はお年寄りに暴行を加えました。
尻込みしていた上司の代わりに、私が手を汚すことにしたのです。
すべては上司のため、そう思っていました。
……あれくらいで、死ぬとは思わなかったんです……。
でも、死んでしまった。
徳山は私が平気で人を殺せる人間だと考えたのか、私を誘ってその他に何件か強盗に入りました。
そして、そのカネを上司に貢いだ……。
徳山が捕まったと知り、いつ捜査の手が私に及ぶか、戦々恐々として過ごしていましたが、どうやらそれも終わりのようです。
私には、もう上司への愛情はありませんから、道連れにして警察に捕まりたいと思います」
淡々と話し続ける佐知子からは、静かな狂気が感じられた。
──この人は殺人犯なんだ、やっぱりわたしたちの感覚では理解できない。
佐知子に対して嫌悪感を抱いた月雫はそっと目を逸らす。
そんな月雫の代わりに勇斗が訊いた。
「闇バイトの指示を受けた際、遥斗と電話したり、メッセージのやりとりをしたりしていませんでしたか?」
「しました。
徳山とは何度も会っていますし、指示を電話でされたこともありますから、もし自分が捕まったとき、徳山の犯罪の証拠になるように通話を録音してあります」
月雫と勇斗が顔を見合わせて佐知子のほうへ身を乗り出した。
「聴かせてもらえますか?」
佐知子はうなずいて傍らの椅子に置いてあるバッグからスマホを取り出した。
少しだけ操作したあと、スマホから音声が流れはじめる。
[つぎの案件だが、俺も参加する。
お前もこい。
殺しはお前に任せるから、絶対にこいよ。
俺から逃げられると思うな。
お前はもう、こっち側の人間なんだからな]
[徳山さん、私、そろそろ強盗なんて辞めたいと思っているのですが……]
[何度言わせる、お前は人殺しだぞ、もう戻れないんだよ、俺の言う通りにすればカネには困らない。
久保支店長にも貢ぎたい放題だ]
[でも、警察に捕まったらなにもかも終わりです。
徳山さんは、怖くないんですか?]
[馬鹿か、俺がそんな失敗するわけないだろ。
とにかく、あとで集合場所を送るから、絶対にこい]
ぶつり、と通話が切れる。
「これを警察に提出すれば、声紋分析で徳山の声と判断されるかもしれません」
月雫と勇斗は顔を見合わせ、手を握り合って、喝采を叫んだ。
周囲の客が、さすがに月雫たちの方に視線を寄越すが、そんなことは気にならないほど月雫たちは興奮していた。
もし電話の音声が遥斗だと認められたら、これ以上強固な証拠はない。
これで、遥斗の悪事は暴かれる──。
すなわち、勇斗が無罪であることの証明にもなるのだ。
「このデータを送ってくれますか?」
勇斗がスマホを取り出したそのときだった。
「あ、あれ……?」
佐知子が不思議そうな表情で何度もスマホの画面に指を滑らせてしきりに首を傾げている。
「どうかしましたか?」
「突然スマホが真っ暗になって……。
あれ……動かない」
佐知子の焦った顔に、月雫たちも不安が募る。
数分間、粘り強く待っていると、「あ、動きました」とほっとしたように佐知子が言ったので、浮かしかけた腰を再び下ろす。
しかしすぐに佐知子の顔が曇った。
「音声データが……消えました」
「えっ、どういうことですか?」
「わかりません、どうしてこんな……。
今の今まで保存できていたのに……」
「少し借りてもいいですか?」
勇斗が佐知子からスマホを受け取り、操作してみるが、先ほど聞いた音声のデータは発見できなかった。
「そんな……」
月雫が消えかけそうな声を漏らしたそのときだった。
《月雫さん、勇斗さん、店の近くに警官が集まりはじめています!
早く店を出てください!》
イヤホンから絶叫にも似た切迫した想の声が耳に痛いほどの音量で響き、ふたりはとっさにイヤホンを外しかけてしまった。
「で、でも、想さん、まだデータが……」
《駄目です!
時間がありません!
田辺さんのことは諦めて、今すぐ店を出てください!
まもなく警官が店にやってきます!
捕まったら元も子もありません!
データより逃げることを優先してください!》
行こう、と勇斗が月雫の腕を取って立ち上がる。
「でも、データが……」
月雫が口惜しそうに戸惑っている佐知子を見下ろしてすがるように勇斗を見上げる。
「駄目だ、捕まったら俺は殺される。
月雫だって、どんな目に遭うか……。
田辺さん、すいません、ありがとうございました」
「え、あの……」
スマホを返され困惑している佐知子に頭を下げると、またしても勇斗がレジに5000円札を放り投げて店の外へと飛び出す。
見覚えのあるワゴン車が、滑るようにふたりの前に停車した。
「早く乗って!」
倫子が叫び、月雫と勇斗は後部座席に飛び込む。
シートベルトも締めないうちに車は急発進する。
タイヤがアスファルトを擦り、甲高い悲鳴を上げる。
前方から数人の警官が走ってくるのが見えた。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
月雫は、ばくばくとうるさい心臓を深呼吸で抑えつける。
勇斗も動揺が抑えられないのか荒い呼吸を繰り返している。
「……証拠が……。
遥斗さんの犯罪の、証拠が……。
やっと、手に入ると思ったのに……」
勇斗の隣で月雫が放心状態でうわ言を呟いている。
「仕方がありません。
想くんの言う通り、今捕まったら元も子もありませんから。
これが、賢明な判断です」
「でも、どうしてわたしたちの居場所が、こんなに早く警察に漏れるんでしょう?」
《ええ、明らかにおかしいです》
月雫の疑問に答えたのはイヤホン越しの想の声だった。
《まるでぼくたちの行動が筒抜け状態です、おかしいことこの上ありません。
月雫さんたちが移動している間に映ってしまった防犯カメラの映像は乾がすべて消しているはずなんですが》
想も想定外の事態なのか、戸惑いを隠せないでいた。
「こちらの情報が、漏れている……。
私たちの中に、裏切り者がいるということでしょうか」
倫子が、一番考えたくない可能性をずばりと指摘する。
《可能性としては考えられることです。
信じたくないことでもありますが》
車内に沈黙が降りる。
まだどこかで鳴っているサイレンの音が、嵐の日の海のように荒れ狂いはじめた月雫の心臓を波立たせた。




