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第七章 ―― 剣聖の名は、伊達じゃない ――

柊木戦の朝。

 俺はいつもより三十分早く起きた。

 別に緊張していたわけじゃない。ただ、今日の試合だけは少し丁寧に準備したかった。月島戦も白川戦も、相手のスキル構成は総会で把握済みだった。だが柊木だけは違う。

 七百七十八個。

 総会で能力分析を走らせた時、柊木のスキル一覧を全て確認した。その中に、俺の記憶にないスキルが三つあった。

 「天眼てんがん」「無音むおん」「剣域けんいき」。

 この三つだけ、動作原理が読めなかった。名前から推測はできる。だが推測と実際は違う。ゲームにも存在しない、完全にこの世界独自のスキルだ。

 俺は窓の外を見た。

 夜明け前の空が、薄く白んでいた。

 今日の試合で、あの三つに遭遇する可能性が高い。見て覚えられるなら問題ない。だが万が一、見ても覚えられないスキルだったら。

 それは初めての経験になる。

 俺は木刀を手に取って、素振りを始めた。


 道場の熱気は、昨日までとは別物だった。

 満席どころか、廊下の窓という窓に顔が張り付いている。外の中庭にまで人が溢れていた。教師陣も全員集合している。桐生師範代が観覧席の端に腕を組んで立っているのが見えた。

 柊木は俺より先に道場に来ていた。

 中央に立って、目を閉じている。道着の裾が静かに揺れている。騒がしい道場の中で、柊木の周囲だけ空気が違った。一位が纏う静けさというのは、こういうものか。

 俺が道場に入ると、柊木が目を開けた。

 視線が合った。

 柊木は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。

 審判が両者を呼んだ。

「昇格戦、三日目。斎藤誠対柊木暦。始め」

— 

 柊木は動かなかった。

 開始の合図から、五秒、十秒。微動だにしない。構えたまま、ただ俺を見ている。

 俺も動かなかった。

 仕掛けてくるのを待った。柊木のスキルの中で未知のものが三つある。先に動いて、その三つを引き出す。それが最初の方針だった。

 十五秒が過ぎた。

 道場がしんと静まっていた。観覧席の誰も声を出さない。

 二十秒。

 柊木が動いた。

 速い。

 月島でも白川でもない、別次元の速さだった。踏み込みの音が聞こえる前に、剣先が俺の目の前にあった。

 俺は「直感」で反応した。ギリギリで外した。

 柊木の木刀が俺の耳元を掠めた。本当に、数センチの差だった。

 道場が息を呑んだ。

 柊木は止まらなかった。一撃目を外した勢いのまま、即座に切り返す。二撃目。俺は後退して外した。三撃目は横から。俺は木刀で受けた。

 衝撃が腕に走った。

 重い。白川の倍以上の力がある。七百七十八個の積み上げは、こういうことか。

 俺は受けながら、分析を続けた。

 速度。重さ。間合いの取り方。全部が上だ。だがパターンがある。どんな剣士にも、パターンがある。俺は十年間、二千万のスキルを相手にそれを読み続けてきた。

 四撃目。

 俺は外さずに受け流した。柊木の力を横に逃がして、体勢を崩させる。

 だが崩れなかった。

 柊木の体幹が、受け流しを受け止めた。重心が全くぶれない。まるで地面に根を張っているようだ。

 「天眼」が来た。

 瞬間、俺の視界が変わった。

 正確には、柊木の目が変わった。黒い瞳の中に、金色の光が走ったように見えた。次の刹那、柊木の動きが変わった。俺の「直感」が読もうとしているのに、読めない。

 どこに来るかがわからない。

 これが「天眼」か。

 相手の「直感」を無力化する、あるいは上回るスキル。俺の直感は今まで一度も外れたことがなかった。それが今、機能していない。

 柊木の五撃目が来た。

 読めない。

 俺は「明鏡止水」を全開にした。直感ではなく、純粋な観察で対応する。目で見て、体で判断する。それだけで対応できるか。

 木刀が俺の左肩を打った。

 軽い一打だが、確実に当たった。今日の試合で、初めて打たれた。

 道場がどよめいた。


 「天眼」に打たれた後、俺は一歩引いた。

 距離を取って、柊木を見た。

 柊木の目がまだ金色を帯びている。「天眼」は継続中だ。

 俺は「天眼」の動作原理を解析しようとした。能力分析で構成は見えている。だが見えているのにわからない。構成の要素が、俺の知識の体系に当てはまらない。

 初めての感覚だった。

 「見ても覚えられない」。

 十年間、二千万のスキルと向き合ってきて、そんな経験は一度もなかった。見れば必ず理解できた。それが俺の根幹だと思っていた。

 だが今、目の前のスキルが理解できない。

 俺は深く息を吸った。

 混乱するな。対応できないわけじゃない。「天眼」の原理はわからないが、効果はわかった。直感を封じるスキルだ。ならば直感を使わずに戦えばいい。

 目で見る。体で判断する。

 それだけで、柊木に勝てるか。

 俺はゆっくりと、構えを変えた。

 今まで使っていた「完全犯罪」を、外した。

 手の内を隠す必要がない、と判断した。今日の相手は、隠しても意味がない。

 柊木が俺の構えの変化を見て、わずかに目を細めた。

「……構えが変わった」と柊木が言った。試合中に話しかけてきたのは初めてだ。

「隠す必要がなくなったので」

「何を隠していたの」

「全部です」

 柊木は少し黙った。それから「天眼」の金色が、少し薄れた。

「全部?」

「はい」

「今まで、手を抜いていたの」

「月島さんと白川さんには、少し。でも今は全力です」

 柊木はしばらく俺を見ていた。それから静かに言った。

「じゃあ、こっちも出す」

 「無音むおん」が展開された。

 道場の音が消えた。

 正確には、柊木の動きから音が消えた。踏み込みの音、衣擦れの音、呼吸の音。全部が消えた。音で相手の動きを補助的に読んでいた俺の感覚が、また一つ削られた。

 同時に「剣域けんいき」。

 柊木の体の周囲に、薄い膜のようなものが広がる感覚があった。触覚ではない、別の何かだ。間合いの概念が変わった。俺が安全だと思っていた距離が、もう安全じゃない。

 三つ全部が来た。

 「天眼」で直感を封じ、「無音」で聴覚の補助を消し、「剣域」で間合いの感覚を狂わせる。

 三重の封じ手。

 道場の観覧席が静まり返っていた。

 俺は構えたまま、静かに考えた。

 封じられた。直感も、聴覚補助も、間合い感覚も。残っているのは「目で見る力」と「明鏡止水による精神の静けさ」と「十年間で叩き込んだ剣の型」だけだ。

 それだけで、七百七十八個の柊木に勝てるか。

 俺は答えを出した。

 勝てる。


 柊木が来た。

 音がない。間合いがわからない。直感もない。

 だが目がある。

 俺は柊木の体だけを見た。スキルを見るのではない。スキルを使う体を見る。どんなスキルも、最終的には人間の体が動かす。重心がどこにあるか。肩の向きがどちらか。膝の角度がどう変わるか。

 それだけを見た。

 柊木の踏み込み。重心が右に沈んだ。右から来る。

 俺は左に外した。

 柊木が止まった。

 「天眼」が機能しているのに、俺が外した。柊木の目に、初めて驚きが浮かんだ。

「……なんで外せた」

「目で見たので」

「天眼は直感を封じる。目では読めないはず」

「スキルは読めません。でも体は読めます」

 柊木は少し間を置いた。

 それから再び来た。今度は連続で。三撃、四撃、五撃。音がない。間合いが狂っている。直感もない。

 それでも俺は外し続けた。

 体を見ることだけに集中した。明鏡止水で雑念を消して、ただ目の前の体の動きだけを追った。十年間、何万回も剣士の動きを見続けてきた蓄積が、今ここにある。

 七撃目。

 俺は外さずに、踏み込んだ。

 柊木の懐に入った瞬間、「剣域」の膜に触れた。想定より内側だった。だが止まらなかった。そのまま押し込んで、柊木の木刀を外側から弾いた。

 柊木がわずかによろめいた。

 俺は木刀の切っ先を、柊木の喉元に向けた。

 止めた。

 道場が、しばらく無音だった。

 それから審判が、少し震えた声で言った。

「……勝負あり」

 道場が爆発した。

 歓声と驚嘆が混ざった、今まで聞いたことのない種類の音だった。蒼太の「うおおおお」という声が、その中で一際大きく聞こえた。

 俺は木刀を下げて、柊木に礼をした。

 柊木は「天眼」と「無音」と「剣域」を解除した。道場の音が戻ってきた。

 柊木は俺を見ていた。

 驚きと、それ以外の何かが混ざった目だった。分析するような、それでいてどこか温かみのある目だ。

「体を見ていたの」と柊木が言った。

「はい」

「スキルじゃなくて」

「スキルは読めませんでした。あの三つは」

「……初めて言われた」柊木は静かに言った。「あの三つが読めないと言った人間は、今まで全員負けた」

「俺も一回打たれました」

「でも勝った」

「はい」

 柊木は少し間を置いてから、礼を返した。

「……強かった」

 それだけ言って、柊木は道場を出た。

 俺はその背中を見ながら、静かに息を吐いた。

 天眼、無音、剣域。この三つは、今日の試合を通じても習得できなかった。見て、対応はできた。だが「覚えられなかった」。

 初めての経験だ。

 面白い、と思った。この世界には、まだ俺の知らないものがある。


 クラス対抗戦は、翌週だった。

 各クラスから五人を選んで、他クラスと対戦する形式だ。俺のクラスは俺と蒼太、凛花、霧島、ひよりの五人を選んだ。全員が、俺の弟子だった。

 他クラスの面々を能力分析で確認した。最も強い相手で五段・四百三十個。俺のクラスの四人は今や三段から四段だが、この三ヶ月で質が変わっている。数字より中身が違う。

 試合は五連戦の個人戦形式だった。

 一番手は蒼太。相手は四段の男子だった。

 蒼太は以前と比べて、明らかに力みが減っていた。踏み込みが軽くなって、切り返しにゆとりがある。三合打ち合って、蒼太が相手の剣を弾いて一本を取った。

 観覧席から歓声が上がった。

 蒼太は「よっしゃ」と言いながらガッツポーズをした。それから俺の方を見て、少し照れた顔をした。

 二番手は凛花。相手は三段の女子だった。

 凛花は今日、感情を乗せていた。意図的に乗せていた。以前は感情が漏れていたが、今日は「乗せる」と「乗せない」を選んでいる。それが剣に出ていた。相手が凛花の感情の揺れに引っ張られて、間合いを誤った。凛花がそこに踏み込んで一本。

 三番手は霧島。相手は五段の男子だった。最強の相手だ。

 霧島は無表情のまま戦った。だが以前と違う点が一つあった。「読めなかった半分」を、少しずつ自分で見つけ始めている。相手の重心を読む目が、三ヶ月前とは別物だ。七合打ち合って、霧島が相手の踏み込みのタイミングを外して一本を取った。

 四番手はひより。相手は四段の男子だった。

 ひよりの戦いは、毎回見ていて不思議な気持ちになる。何をするかわからない。本人もわかっていない気がする。だが気がつくと、相手が崩れている。均等に散らばったスキルが、状況に応じて最適なものを自然に選んでいる。ひより自身はそれを意識していない。だからこそ読めない。

 四戦全勝。

 五番手は俺だったが、試合は不要になった。

 対戦結果が確定したため、俺は戦わずに終わった。

 試合後、蒼太が俺のところに走ってきた。

「斎藤! 俺ら全員勝ったぞ!」

「見てました」

「嬉しくないのか!」

「嬉しいですよ」

「顔に出せよ」

 凛花が「斎藤さんの嬉しそうな顔、私も見たことないです」と言った。

 霧島が「俺もない」と言った。

 ひよりが「あ、一回だけあった気がします」と言った。「たまごやきをお断りした時」

「それは嬉しい顔じゃないですよ」

「でも表情が変わってました」

 俺は返事をしなかった。

 四人が笑っていた。それぞれ違う笑い方で、それぞれ違う方向を向きながら、同じ場所に立って笑っていた。

 この三ヶ月で、確かに何かが変わった。

 四人だけじゃなく、俺も含めて。

 そう思いながら、俺は四人の顔を見た。

 翌週、理事長から呼び出しがあった。十二月の格刀技大会に推薦する、という話だった。

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