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第一章 ―― この世界のルールを、俺は知っている ――


 まず、体を確認した。

 宿屋らしき部屋の床に立ち、俺は自分の手のひらをじっと見つめた。二十七歳の社会人の手ではない。高校生の頃のような、まだ線の細い、若い手だ。

 鏡はないが、おそらく十七歳か、せいぜい十八歳くらいの体に戻っている。筋肉の付き方が軽い。でも不思議と、体のどこかに「剣を握ったことがある」感覚が染み付いている気がした。

 ――ゲームのキャラクターのステータスが、そのまま体に宿っている。

 そう判断するのに、五秒もかからなかった。

 十年間、このゲームをプレイし続けた。フルダイブだから、剣の振り方も、足の運び方も、全部この体で体験してきた。そのデータが、今の俺の肉体に刻まれているとしたら。

「……悪くない」

 俺は小さく呟いて、腰の剣に手をかけた。抜いてみる。切っ先を正眼に構えると、自然に、まるで長年の習慣のように体が形を作った。

 やはりそうだ。

 ゲームで積み上げた全てが、この体にある。

 次に、スキルを確認しようとした。ゲームの中ではメニューを開けば一覧が出てくるが、当然ここにはそんなものはない。だが意識を集中させると、頭の奥のほうに何か膨大なものが眠っている感覚があった。引き出そうとすれば引き出せる、巨大な引き出しのような。

 試しに「明鏡止水」を意識した。

 瞬間、頭の中が凪いだ。余計な思考が消え、感覚が研ぎ澄まされる。窓の外の馬のひづめの音。二部屋隣から聞こえる誰かの寝息。廊下を歩く足音の重さから、体格まで想像できる。

「……ある」

 スキルが、ある。

 俺は明鏡止水を解除して、深く息を吐いた。

 それから改めて、状況を整理した。


 ゲームのシステムを思い出す。

 剣聖物語のスキルは、大きく二種類に分かれる。「流派スキル」と「固有スキル」だ。流派スキルは各流派に属する技や能力で、俺の場合は无刀流のものが基本となる。固有スキルは、特定の条件を満たすことで解放される特別なスキルだ。

 そして俺が「剣聖」の称号を得た瞬間に解放されたのが、固有スキル「限界突破リミットブレイク」。全ての流派のスキルを習得可能にする、規格外の能力だ。

 だが問題がある。

 二千万を超えるスキルを全て頭に入れているかと言えば、そうじゃない。十年間プレイしてきたが、攻略に必要な七百八十個を中心に覚えていて、残りは断片的にしか記憶していない。つまり今の俺は「全スキルを習得できる権利」は持っているが、どんなスキルが存在するのかを全部把握しているわけじゃない。

 だから、まず確認が必要だ。

 ゲームの序盤、この街には「蔵書館」という施設がある。流派のスキル一覧が閲覧できる場所だ。本来は入門した流派のものしか見られないが、俺の「限界突破」があれば話は別のはずだ。スキルを習得できるなら、閲覧も問題ないだろう。

 それと、もう一つ確認したいことがあった。

 ――この世界は、俺が知っているゲームの世界と、本当に同じなのか。

 目覚めてからの違和感が、ずっと胸の中にあった。ゲームの中の宿屋と、今いるこの部屋の質感が、微妙に違う。窓から見える街並みも、ゲームの画面で見たものより、もう少し複雑で、生活感がある。

 まだ断定はできない。だが慎重に動く必要がある。

 俺は剣を帯び直して、部屋を出た。


 蔵書館は、街の中心部にあった。

 石造りの重厚な建物で、入口には壮年の男が座っていた。ゲームの中にも同じ人物がいた。名前は確か、館主の「老田おいた」という人物だ。

「入館したいんですが」

 俺が声をかけると、老田は眼鏡越しにこちらを見て、少し眉を上げた。

「若いな。流派への入門前か?」

「はい。入門試験の前に、少し勉強しておきたくて」

 嘘ではない。老田はしばらく俺を見てから、静かに頷いた。

「入門前でも閲覧は自由だ。ただし、習得はできん。入ってよし」

 館内に入ると、壁一面に本棚が並んでいた。ゲームの中では単なる背景オブジェクトだったそれが、今は本当に一冊一冊に重さがあって、ページをめくれば紙の感触がある。

 俺は体の奥に眠るスキルの感覚を辿りながら、棚を歩いた。

 「限界突破」を意識すると、どの流派の棚に近づいても、自然にスキルの名前と概要が頭の中に流れ込んでくる感覚があった。習得してはいないが、認識できる。まるで本を読んでいるような、でも読むより速い、不思議な感覚だった。

 俺は三時間かけて、全ての流派の棚を一通り歩いた。

 二百流派。約二千万のスキル。全部を細かく記憶したわけじゃない。ただ、大きな流れ――どの流派がどんな特性を持ち、どんな方向性のスキルが存在するか――そのマップだけは頭に入れた。

 十年間のゲームの記憶と照合する。

 一致するものと、しないものがある。

 ゲームにはなかったスキルが、いくつか存在した。逆に、ゲームにあったはずのスキルが、ここにはない流派もあった。細部が違う。微妙に、だが確実に。

 俺は蔵書館を出て、空を見上げた。

 青い空だった。雲が流れている。風が頬を撫でる。

 頭の中で、一つの結論が形になりつつあった。


 街を歩きながら、俺は考え続けた。

 ゲームと違う点。ゲームと同じ点。それを整理することが、今一番大事な作業だ。

 剣聖物語のストーリーでは、この街を出た先の街道に、中盤の強敵が巡回しているはずだった。そう考えながら街の外れを歩いていると――俺は足を止めた。

 街道の入口近く。木陰に背を預けて、一人の男が空を見上げていた。

 年齢は俺より少し上。二十代前半くらいか。落ち着いた目をした、線の細い青年だった。腰には剣。道着の着こなしから、剣を扱う人間だとわかる。

 俺は一瞬、息を止めた。

 知っている。

 この顔を、俺はよく知っている。

 ――松平義久。

 剣聖物語のストーリー中盤、プレイヤーの前に立ちはだかる強敵。冷酷で、容赦がなく、主人公を何度も追い詰めてくる、あの松平義久だ。俺が何百回も挑戦した相手。負けるたびに画面越しに悔しさを叩きつけてきた、あいつ。

 だが今、目の前にいる松平義久は――穏やかな顔で、空を眺めていた。

 ゲームと全然違う。

 どうする。無視して通り過ぎるか。

 俺は少し迷って、声をかけることにした。情報収集という意味でも、この男と話すことには価値がある。それに、ゲームとは別人みたいな雰囲気に、純粋に興味が湧いた。

「すみません」

 松平が視線を落として、こちらを見た。警戒する様子はない。

「なんだ? 旅人か」

「いえ、この街に来たばかりで。少し道を聞いてもいいですか」

「ああ、構わん」

 松平は木陰から離れて、俺と向き合った。近くで見ると、目の奥が静かだ。強い人間特有の、落ち着いた静けさがある。ゲームの中の松平も強かったが、この静けさは違う種類のものだった。ゲームのあいつは冷酷な静けさで、目の前の松平は――どこか、満ちたような静けさだ。

「どこへ行くつもりだ」

「入門試験を受けに行こうと思ってます。流派の」

 松平の目が、わずかに動いた。

「入門試験か。……どこの流派を考えている」

「无刀流です」

 短い沈黙。

 それから松平は少し表情を緩めて、「そうか」と言った。

「俺も无刀流だ。……試験を受けるなら、一つ教えてやろう」

 俺は内心で驚いた。アドバイスをくれる気か。ゲームの中の松平なら、こんな展開はありえない。あいつは主人公に話しかけてくる時は、剣を抜く直前だけだった。

「试験では、師範代が三つの問いを出す」と松平は続けた。「剣理の問いと、実技の問いと、もう一つ。三つ目は毎年変わる。今年は『相手の剣を見て、何を読み取るか』という問いだと聞いた」

「……なぜ教えてくれるんですか」

 俺が素直に聞くと、松平は少し考えてから言った。

「无刀流は今、入門者が少ない。続ける人間はもっと少ない。……俺が入門した時も、同じことを教えてもらったから」

 それだけ言って、松平は空を見上げた。

「あと、俺が通っている剣術学校の話をしてもいいか」

 剣術学校。

 その言葉を聞いた瞬間、俺は確信した。

 ――この世界は、俺が知っているゲームとは違う。

 ゲームの中に、剣術学校は存在しない。そんな施設の設定は、どこにもなかった。なのに目の前の松平は、当たり前のようにその話をしている。

「三年制の剣術学校で、この街から少し行ったところにある。腕のいい師範が揃っていて、俺はもう二年通っている。……もしお前が入門試験に合格して、正式な剣士になるつもりがあるなら、受けてみても損はない」

「入学試験があるんですか」

「ある。だが难しくはない。实力があれば通る」と松平は言った。「それと、学校の中にはランキング制度がある。上位十名を『闘獣階』と呼ぶ。そこに入れば、学校内でかなりの裁量が与えられる」

 闘獣階。

 俺は内心でその言葉を繰り返した。

 十名。学校内での権力。入れ替え戦。

 松平がそこまで話してくれたのは、おそらく五分足らずの会話だった。だが俺の頭の中では、すでに計算が始まっていた。入門試験に合格し、剣術学校に入り、闘獣階に入る。それが、この世界での最初の目標になる。

「ありがとうございます」

 俺が礼を言うと、松平は軽く頷いた。

「試験、頑張れ。……无刀流は、面白い流派だ」

 それだけ言って、松平は街道を歩き始めた。その背中を見ながら、俺は静かに息を吐いた。

 ゲームの中の松平義久は、俺が何百回も殺されてきた強敵だ。あいつと戦うたびに、画面越しに怒りと悔しさをぶつけてきた。

 なのに今、俺はこいつに礼を言っていた。

 妙な感じだった。でも、悪くなかった。


 入門試験は、翌日だった。

 试験会場は街の南にある道場で、俺が到着した時には十数人の受験者が集まっていた。年齢はまちまちで、十代から三十代くらいまでいる。皆、どこか緊張した顔をしていた。

 俺は会場の隅に立って、周囲を観察した。

 「能力分析」を起動する。

 このスキルは、相手の習得済みスキルを全て確認できる能力だ。ゲームの中でも存在したが、この世界では「実在するスキル」として機能している。つまりゲーム内のプレイヤーだけでなく、この世界の人間にも使えるはずだ。

 試してみると――見えた。

 隣に立っている二十代の男。无刀流・四段。習得スキル数は二百十二個。得意系統は「見切り」と「足捌き」。

 向こうの壁際にいる女性。无刀流・三段。習得スキル数は百八十七個。得意系統は「間合い管理」。

 そして試験官として正面に座っている三人の師範代。

 一人目。无刀流・八段。習得スキル数は六百九十一個。

 二人目。无刀流・七段。習得スキル数は六百二十二個。

 三人目。无刀流・九段。習得スキル数は七百四十一個。

 俺は静かに、それぞれのスキル構成を頭の中で分析した。七百四十一個。かなりの使い手だ。ゲームのクリアに必要な七百八十個には届いていないが、この世界では間違いなくトップクラスだろう。

 だが俺には、二千万のスキルがある。

 手加減する必要がある、と改めて確認した。

 松平から「闘獣階」の話を聞いた時から、俺の方針は決まっていた。ここで全力を見せる必要はない。合格できる最低限の実力を示して、手の内を隠したまま次へ進む。

 试験が始まった。



 師範代の一人が立ち上がり、受験者を見渡した。

「これより入門試験を行う。試験は三部構成だ。第一は剣理の問い、第二は実技、第三は今年の特別問だ」

 松平が教えてくれた通りだ。

 第一の問い。「剣において最も重要なものは何か」。

 これはゲームの中にも同じ問いがあった。正解は「間」だ。タイミング、距離、呼吸、その全てを含む概念としての「間」。俺は滞りなく答えた。師範代は軽く頷いた。

 第二の実技。師範代の一人と木刀で打ち合う、短い試合形式だ。

 俺の相手は七段の師範代だった。

 俺はスキル構成を「明鏡止水」「完全犯罪」「直感」「能力分析」の四つに絞った。明鏡止水で精神を落ち着かせ、完全犯罪で自分の真の実力を隠し、直感で相手の動きを読み、能力分析で師範代のスキル構成を把握する。

 七段の師範代は、六百二十二個のスキルを持つ使い手だ。その中に「圧力」と「崩し」の系統が多い。おそらくこちらを正面から押しつぶすスタイルで来る。

 案の定、師範代は正面から大きく踏み込んできた。

 俺は一歩引いて、軌道をずらした。師範代の木刀が空を切る。その隙に、俺は軽く師範代の剣先を叩いた。弾かれた師範代が体勢を崩す寸前、俺はあえて追撃をやめた。

 師範代が俺を見た。

 俺は静かに構え直した。

 その後も数合打ち合ったが、俺は終始「ギリギリ対応できているように見せる」ことに全力を注いだ。本気を出せば師範代に触れさせることなく終わらせられる。だがそれをしてはいけない。ここで目立ちすぎると、後々動きにくくなる。

 最終的に、師範代は試合を止めた。

「……合格だ」と言った。「なかなか面白い間合いを持っている」

 俺は軽く頭を下げた。

 第三の問い。「相手の剣を見て、何を読み取るか」。

 これも松平のおかげで準備していた。俺は「剣の軌道よりも、剣を握る指の力み方を見る」と答えた。指の力み方は、その人の精神状態を如実に反映する。力んでいれば焦りがある。緩ければ余裕があるか、あるいは油断している。その差を読むことが、実戦では最初の一手を決める。

 三人の師範代が顔を見合わせた。

「……合格」

 そう言ったのは、九段の師範代だった。厳しそうな目をした人物だったが、俺を見る目にわずかに興味の色があった。

「お前、名前は」

「斎藤誠です」

「どこで剣を学んだ」

 一瞬、どう答えるか考えた。

「独学です」

 师範代は少し沈黙した後、「そうか」と言った。それから、こう続けた。

「斎藤。お前に、一つ勧めたいことがある。入門試験の合格に加えて、剣術学校への入学試験を受けてみないか」

 俺は内心で「来た」と思った。

 松平が言っていた、剣術学校への話だ。


 師範代――名前を「桐生きりゅう師範代」といった――から、入学試験の概要を教えてもらった。

 試験内容は模擬戦形式で、約一ヶ月後に行われる。試験官である学校の教師と立ち合い、実力と判断力を見られる試験だ。合格すれば三年制の剣術学校に入学できる。

「一ヶ月、準備期間をやろう。その間、ここの道場を使っていい」

 桐生師範代はそう言って、地図を渡してくれた。学校の場所と、試験会場の場所が書かれている。

 その夜、俺は宿屋に戻って作業を始めた。

 やることは一つ。情報の修正だ。

 俺は「洗脳」のスキルを使って、桐生師範代から一時間ほど話を聞いた。スキルの効果は穏やかなもので、相手が自然に話したくなるよう誘導するものだ。暴力的な意味での洗脳じゃない。あくまで「聞きやすい雰囲気を作る」程度だが、これだけで十分に多くの情報が引き出せる。

 この世界の政治構造。街の歴史。剣術学校の成り立ち。闘獣階の過去の顔ぶれ。ゲームとの比較。

 整理すると、大きな結論に辿り着いた。

 この世界は、剣聖物語の世界だ。地名も、人名も、剣術の体系も、大筋では一致している。だが細部が違う。ゲームにはなかった施設がある。ゲームとは違う性格のキャラクターがいる。ゲームには存在しなかったスキルがある。

 つまりこの世界は――剣聖物語の形をした、全く別の世界だ。

 同じ素材で作られた、別の料理。そう考えれば一番しっくりくる。

 俺はゲームの記憶を参考にしながら、この世界の独自のルールに合わせて計画を修正していく必要がある。ゲームの知識は強力な地図になるが、地図通りに動いても必ずしも正解じゃない。常に目の前の現実を優先する。

 それが、この世界での俺の基本方針だ。

 ――目標は変わらない。

 学校を卒業する。闘獣階に入る。友人を作る。この世界を隈なく冒険する。そして、もう一度剣聖の称号を獲得する。

 俺はそれを頭の中で確認して、目を閉じた。

 一ヶ月後、入学試験がある。

 その試験では、手の内を隠しながら合格する。ただ合格するだけじゃない。闘獣階を狙うなら、最初から計算して動く必要がある。目立ちすぎず、でも確実に爪痕は残す。審査官に「この生徒は面白い」と思わせる程度に。

 頭の中で、試験当日のシミュレーションを始めた。

 スキル構成はどうする。どの場面でどの技を見せる。どこで力を抜いて、どこで本気に近いものを出すか。全部計算する。鬼畜ゲームを十年プレイしてきた俺にとって、攻略の組み立ては得意中の得意だ。

 ただ、今回の相手はゲームのAIじゃない。

 生きている人間だ。

 それだけは、常に頭に置いておく必要があった。

 俺は静かに、目を開けた。

 窓の外では、星が出ていた。ゲームの中で何度か見た星空だが、今夜のそれはずっと本物に近い、深い輝きを持っていた。

「さて」

 呟いて、俺は準備に入った。

 一ヶ月後の入学試験に向けて――この世界での、本当の戦いが始まろうとしていた。

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