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顕現  作者: 速水静香


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第四話:顕現

 物語の構築とは、混沌とした可能性の海から、たった一つの必然を掬い上げる作業に他ならない。

 無数の選択肢の中から、論理的にも美学的にも、それ以外にはあり得ないという一本の道筋を選び取る。それが作家の仕事であり、私が最も得意とする領域であったはずだ。


 しかし、今の私は、その一本の道筋を見失っていた。


 テキストエディタの行数は、既に長編小説としての体裁を成す分量に達している。

 第一話での物件との出会い。第二話での内見と、あのお札の発見。第三話での執筆開始と、徐々に蝕まれていく日常。

 ここまでの流れは、プロット通りに組み上がっている。緻密な計算と、現場で収集したリアリティのある素材が、強固な構造体として機能している。読み返してみても、そこには一点の破綻もない。読者の不安を煽り、心理的な安全地帯を削り取るための手立ても、十分に講じられている。


 問題は、結末だ。


 私は苛立ちを抑えるように、エンターキーを強めに叩いた。

 カーソルが改行され、空白の行が生まれる。だが、そこに続くべき言葉が浮かんでこない。


 主人公――つまり、小説の中の「私」は、怪異の源泉であるあのアパートの部屋、北向きの和室の天袋と対峙しなければならない。それは物語の構造上、回避不可能なクライマックスだ。

 そこで何が起きるのか。

 彼、あるいは私は、どうなるのか。


 私はいくつかのパターンを想定してみた。


 プランA。主人公は天袋のお札を剥がし、あるいは焼き払うことで、呪縛から解放される。

 ――駄目だ。あまりにも陳腐だ。三流のオカルト映画のような、安直な解決策に過ぎない。超常的な現象に対して、物理的な干渉が有効であるという前提自体が、私の美学に反する。それに、あのお札が貼られた経緯や、そこに込められた執念の質量を考えれば、紙を燃やした程度で消え去るような軽いものではないことは明白だ。


 プランB。主人公は怪異に取り込まれ、無残な死を遂げる。

 ――これもまた、退屈な予定調和だ。ホラーにおける「バッドエンド」は、時として「ハッピーエンド」以上にありふれている。単に主人公を殺せば読者が怖がると思っているならば、それは書き手の怠慢でしかない。確かに死とは絶対的な断絶だが、私が描きたいのは断絶ではなく、浸食だ。日常と非日常、生と死が意味を失う、その不快さこそが恐怖なのだ。


 では、その不快さを出すには、どのような結末にすればよいのか?


 私の指先はキーボードの上で硬直し、動こうとしない。

 脳内にあるのは、あの天袋の暗闇だけだ。

 あの闇の奥に、何があるのか。

 お札の向こう側に、何が潜んでいるのか。


 私は知っているはずだ。私はあそこへ行き、自分の目で見たのだから。

 だが、今の私の記憶にある映像は、静止画に過ぎない。

 物語を終わらせるためには、その静止画を動画へと進めなければならない。

 襖が開き、闇が溢れ出し、そして……。


 そして?


 思考が空転する。

 摩擦熱で脳が焼け付くような感覚。

 私は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。


 その時、視界の隅で、部屋の光景が奇妙な変質を起こしていることに気づいた。


 私の書斎は、マンションの一室にある。壁は白く、照明はLEDの昼光色だ。部屋の隅々まで均一な光が届くように設計されている。

 だが、今の部屋は違った。


 部屋の四隅に、黒い何かが溜まっている。

 それは単なる光の不足ではない。もっとまとわりつくような重さを持った黒だ。

 コールタール、あるいは腐敗した泥。

 そういった不浄な液体が、床と壁の接合部から滲み出し、じわじわと水位を上げているように見える。


 私は目を凝らした。

 黒い滲みは、視線を向けると一瞬だけ後退し、目を逸らすとまた音もなく広がってくる。

 まるで、「だるまさんがころんだ」をする子供のように、私の視界の外から、その領域を拡大しようとしている。


 錯覚だ。

 私は即座に断定した。

 長時間、高輝度のディスプレイを凝視し続けていたことによる、網膜の残像現象。あるいは、極度の疲労が引き起こした飛蚊症の一種。眼科医に行けば、硝子体の混濁だとか、視神経の不調だとか、もっともらしい病名がつくだろう。

 そう、これは医学的な現象であり、物理的な現象ではない。

 私の部屋に泥が湧くはずがない。ここは七階だ。地盤からも、湿気からも隔離された空間なのだから。


 私は首を振り、視線を正面のモニターに戻した。

 白い画面だけが、この世界で唯一の、確かな現実のように思えた。


 だが、視覚の外への意識を閉ざすと、かえって他の感覚を鋭敏にさせた。


 音だ。


 最初は、空調の送風音かと思った。

 あるいは、冷蔵庫のコンプレッサーが唸る低周波音。

 しかし、その音はもっと有機的で、湿り気を帯びていた。


 ジュルッ……。

 ヒュゥゥ……。


 何かが、濡れた狭い管を通るような音。

 あるいは、水分を含んだスポンジをゆっくりと絞るような音。

 それが、断続的に聞こえてくる。


 場所は、背後だ。

 正確には、私の右耳の少し後ろ。首筋の産毛が触れるか触れないかという、極めて近い距離。


 私は肩を強張らせた。

 振り返ってはいけない。

 なぜなら、そこには何もないからだ。

 何もないことを確認してしまえば、この音が私の脳内で生成されているという事実を認めざるを得なくなる。それは私の精神的な健全性が損なわれていることの証明になってしまう。私は狂ってなどいない。私はあくまで冷静な人間であり、この現象を分析する主体なのだ。


 だから、私は仮説を立てる。


 あのアパートで取材したときの記憶が、私の脳の聴覚野を刺激し、過去の経験を現在の感覚として再生しているのだ、と。

 内見の時、私は気づかなかったかもしれないが、あの部屋の壁の奥や、天井裏では、常にこのような音が鳴っていたのかもしれない。古い配管を流れる汚水や、木材を食い荒らすシロアリの咀嚼音。

 私の無意識がそれを覚えており、今、執筆という状態で再生されているのだ。


「……優秀だ」


 私は乾いた唇で呟いた。

 そうだ、これは役に立つ。

 この不快な音、粘膜が擦れ合うような生理的な嫌悪感を催す音。これをそのまま文章に描写すれば、読者は耳を塞ぎたくなるような恐怖を味わうことになるだろう。


 私はキーボードを叩き始めた。

 それは指先が、私の意思とは関係なく、勝手に動いていくような感覚があった。


『背後で、湿った呼吸音がする。それは人間のものではない。肺を持たない何かが、無理やり空気を吸い込み、吐き出しているような、空虚な摩擦音だ』


 文字が表示される速度が上がる。

 変換候補を選ぶ手間すら惜しい。脳直結で、思考がそのまま文字へと変わり、画面上に定着していく。


 臭いが強くなる。

 カビの胞子が、鼻腔の奥深くに突き刺さる。

 いや、それはもはや臭いというレベルを超えていた。

 味だ。

 口の中に、古新聞を噛み砕いたような、苦くて埃っぽい味が広がる。

 舌の上がざらつく。

 私は咳き込みそうになったが、喉の奥に何かが張り付いているようで、うまく息が吐けない。

 まるで、見えない綿を口いっぱいに詰め込まれているようだ。


 不快だ。

 苦しい。

 だが、止めない。

 この苦痛こそが、リアリティの源泉だ。

 私は今、あの部屋にある。

 物理的な距離など関係ない。私の意識は空間という制約を飛び越え、あの和室と「一体化」している。


 ガタリ。


 不意に、部屋全体が揺れたような気がした。

 地震か?

 私はモニターの端に目をやった。机の上に置いたペットボトルの水は、水面を揺らしてもいない。

 揺れたのは、私の三半規管だ。

 平衡感覚が狂い始めている。床が傾斜し、天井が低く圧迫してくるような錯覚。


 視界が狭まっていく。

 周囲の風景――本棚も、ドアも、窓も――が、急速に色あせ、闇に飲まれていく。

 あの「コールタール」が、ついに部屋全体を飲み込み始めたのだ。


 残されたのは、目の前の四角い発光体だけ。

 白く輝くテキストエディタ。

 そこだけが、論理と秩序が保たれた最後の領域。

 あるいは、世界で唯一の秩序。


 私はその光にしがみつくように、前のめりになった。

 顔を画面に近づける。

 文字の光が、網膜を焼き尽くすほどに明るい。


 だが、そこには何も書かれていなかった。

 点滅するカーソルは、無能な私を嘲笑うように、ただ空白を刻んでいるだけだ。

 これでは駄目だ。ここには「答え」がない。想像だけで構築した結末など、あの闇の前では無力だ。


 本物を見なければ、この白い空間を埋めることはできない。


 書かなければならない。

 結末を。

 この物語の着地点を。


 だが、どうやって?

 机上の空論では、もう限界だ。

 私の想像力は、あの部屋の現実に追いつき、追い越したと思っていた。しかし、それは傲慢だったのかもしれない。

 現実は、私の想像のさらに奥、深い深い底に横たわっている。

 そこを見なければ、本当のことは書けない。


 行かなければ。

 強迫的な観念が、脳髄を支配した。


 現地へ飛べ。

 あの襖を開けろ。

 そして、その中にあるものを、目ではなく、魂に刻み込め。


 私は立ち上がろうとした。

 取材に行くのだ。今すぐに。

 上着を羽織り、鍵を持ち、タクシーを拾って、あの町へ。


 しかし、私の身体は動かなかった。

 足が、床と一体化している。

 いや、感覚がない。膝から下が、真っ黒な泥の中に埋没してしまったかのように、重く、冷たく、私の意思を受け付けない。

 腰も、椅子と一体化している。背骨が背もたれのフレームと癒着し、血管が私の肉体から外れて椅子の脚を伝い、床下の深淵へと同化しているようだ。


 動けない。


 焦燥が胸を焼く。

 行かなければならないのに、動けない。

 結末を知りたいのに、手が届かない。


 その時、天啓が降りた。


 ――違う。


 わざわざ肉体を運ぶ必要などない。

 私は作家だ。

 言葉こそが私の翼であり、乗り物であり、世界そのものではないか。

 テキストエディタの中に、道はある。

 ここに書くことが、すなわち移動することなのだ。


 私は震える指で、キーボードを叩いた。


『私は立ち上がった』


 文字にした瞬間、私の意識はふわりと浮上した感覚を覚えた。

 肉体は椅子に縛り付けられたままだが、私の認識は、モニターの中の「私」へと移行したのだ。


『私は部屋を出た。タクシーに乗り込み、あの場所へと向かった』


 景色が流れる。

 高速道路のオレンジ色の街灯。深夜の環状線。

 それらは私の記憶のコラージュだが、今この瞬間、それは現実以上の鮮明さを持って私の脳内を駆け巡る。


 タイピングの音が変わった。

 カチャカチャという乾いた音ではない。

 ベチャ、ベチャ、という、湿った肉を叩くような音。

 キーボードの隙間から、あの黒い液体が滲み出しているのかもしれない。

 だが、私は構わず指を走らせる。


『アパートの前に着いた。周囲は死んだように静まり返っている』


 風の温度を感じる。

 湿った、カビ臭い風。

 私の頬を撫でるその感触は、エアコンの風などではない。本物の夜気だ。

 ここにある。私は今、ここにいる。


 モニターの白い画面が、窓のように見える。

 その向こう側に、あの木造アパートが佇んでいる。

 私はその窓枠を跨ぎ越えるようにして、物語の中へと深く、深く潜っていく。


 耳元の呼吸音がいっそう激しくなる。


 ヒュウッ、ヒュウッ。


 それはもう、私の呼吸なのか、背後の「何か」の呼吸なのか、区別がつかない。

 あるいは、この部屋そのものが呼吸をしているのかもしれない。

 収縮し、膨張し、私という異物を飲み込もうと脈打っている。


 構うものか。

 私は笑っていたかもしれない。

 顔の筋肉が引きつり、唇が端から裂けるような感覚があったが、それが笑顔によるものなのか、恐怖による痙攣なのかは判然としない。

 ただ、圧倒的な高揚感だけがあった。


 ついに、私は到達するのだ。

 誰も書けなかった、真実の結末に。

 現実と虚構が完全に一致したときの純粋な恐怖。

 それを見ることができる。


『階段を登る。鉄の錆びた臭いがする。二〇四号室の前に立つ』


 手には鍵がある。

 いつの間に持っていたのかは重要ではない。物語の中で、私は鍵を持っている。それがルールだ。

 鍵穴に差し込む感触。

 金属と金属が擦れ合い、シリンダーが回る重い手応え。


 ガチャリ。


 その音は、私の頭の中で鳴ったのか、それとも現実の私の部屋のドアが開いた音なのか。

 区別は曖昧だ。

 背後で、現実のドアが開いた気配がした。

 廊下の光が差し込んだ気がした。

 だが、私は振り返らない。振り返る必要がない。

 私の目の前にあるのは、二〇四号室のドアだけだからだ。


『ドアを開ける』


 私は打ち込む。

 エンターキーを叩く。


 世界が反転した。


 私の書斎の壁が、天井が、床が、音を立てて剥がれ落ちていく。

 白いクロスは砂壁へ。

 フローリングは腐った畳へ。

 LEDの光は、裸電球の頼りない橙色へ。


 私は知覚する。

 ここがあの部屋だ。

 私は最初からここにいたのだ。

 マンションの書斎など、私の願望が見せた儚い夢だったのかもしれない。

 この湿気、この臭い、この圧迫感こそが、私の唯一の現実。


 私はパソコンに向かっている。

 場所は、北向きの和室の真ん中。

 ちゃぶ台すらない。畳の上に直に置き、私は胡座をかいて座っている。

 膝の上で、ノートパソコンだけが青白く光っている。


 カーソルが点滅している。

 私を急かしている。

 早く書け。続きを。結論を。


 私は顔を上げた。

 正面にあるのは、押入れ。

 そして、その上にある天袋。


 襖は閉ざされている。

 だが、私は知っている。その向こう側で、何かが待っていることを。

 逆さまのお札が、重力に逆らって垂れ下がり、その隙間から「何か」が私を覗き見ていることを。


 書かなければ。

 開けなければ。


 私は憑かれたようにタイピングを再開した。

 指先が痛い。皮膚が破れ、血が滲んでいるかもしれない。

 それでも止まらない。

 文字を打つたびに、襖がガタガタと震える。

 私が「開く」と書けば、それは開くのだ。

 私が「見る」と書けば、それは姿を現すのだ。

 私は創造主であり、同時に、ここの生贄でもある。


『私は手を伸ばした。天袋の襖に指をかけた』


 現実の私の手はキーボードの上にある。

 だが、感覚としての私の手は、確かにあのざらついた木の枠を掴んでいた。


 冷たい。

 氷のように冷たい空気が、襖の隙間から漏れ出してくる。

 それは私の指を凍らせ、腕を伝って心臓へと達する。


 怖いか?

 と、自分に問いかける。

 ああ、怖い。

 かつてないほどに恐ろしい。

 だが、それ以上に、知りたい。

 見たい。

 書きたい。


 その欲望だけが、私をこの場に繋ぎ止めている。

 逃げるという選択肢は、もはや私の辞書には存在しなかった。

 ここで物語を完結させることが、私の存在証明のすべてだった。


 私は最後の力を振り絞り、キーを叩いた。

 次の一文が、決定的なものになると確信しながら。


 背後の闇が、質量を持って私にのしかかる。

 耳元の呼吸音が、嘲笑のような音に変わる。

 部屋中の空気が、私という一点に向かって収束していく。


 さあ、クライマックスだ。

 私は目を見開き、光る画面だけを見つめ続けた。

 そこには、私が書いた文字が、生き物のように蠢いていた。

 それはもはや日本語ですらなかったかもしれない。

 人間には理解不能な、彼らの言語だったのかもしれない。


 それでも私は打ち込んだ。

 私の魂を、その文字列に変換して、ディスプレイの向こう側へと送り込んだ。

 私の意識は、肉体を抜け出し、あの天袋の闇の中へと、真っ逆さまに沈んでいった。


 泥のように重く、深い、物語の底へ。くらいい。くらい、くらい、。 あ、な、が、あいてい、る。 さかさまの、おふだ、が、わらって、。aあ、。、。kあhs、d、。、。

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