第三話:記憶
自宅であるマンションの一室に戻ったとき、私はまず洗面所へ向かい、執拗なまでに手を洗った。
指の隙間、爪の間、手首に至るまで、泡立てた石鹸で念入りに擦り落とす。あの古びたアパートで付着したであろう、目に見えない塵を排除するためだ。カビの胞子、劣化した建材の粉末、あるいは前の住人が残した生活の残滓。それらが私の部屋であるこの空間に持ち込まれることは、衛生的な観点からも許容しがたい。
蛇口をひねり、勢いよく水を流す。排水口へと吸い込まれていく白い泡を見つめながら、私は自身の精神状態が極めて澄明であることを確認していた。
興奮は冷めていない。むしろ、時間の経過とともに内側で発酵し、純度を高めている。血管を流れる血液が、通常よりも少しだけ高い温度を保ったまま循環しているような感覚。それはスポーツ選手が試合直前に感じる集中状態に近いかもしれない。
タオルで水気を拭き取り、私は仕事部屋へと足を向けた。
新築分譲マンションの七階。遮音性の高い壁と、気密性に優れた窓。床には傷ひとつないフローリングが敷き詰められ、空調設備は常に快適な室温と湿度を維持している。
先ほどまでいたあの北向きの和室とは、対極にある環境だ。
だが、今の私にとって、この清潔すぎる空間は単なる作業場に過ぎない。私の意識の半分は、未だあのアパートの薄暗い天袋の中に残されている。あの場所で網膜に焼き付けた残像を、鮮度が落ちないうちに文字という形へ変換しなければならない。
私は高機能チェアに深く腰掛け、スリープ状態になっていたノートパソコンを開いた。
指紋認証を解除する。ディスプレイが瞬時に明るさを取り戻し、書きかけのテキストファイルが表示される。
そこには、私の物語が待っていた。
私は迷うことなくキーボードに指を走らせた。
思考と指先の動きが直結している。思考と指先が直結し、脳内のイメージがそのまま画面上の文字列として具現化されていく。その速度は、普段の執筆作業とは比較にならないほど速かった。
描写すべき対象は明確だ。
あのアパートの階段を登るときの、靴底に伝わる頼りない感触。
ドアを開けた瞬間に鼻腔を刺激した、澱んだ空気の質量。
そして、天袋の奥に潜んでいた、逆さまのお札。
私はキーを叩く。カチャカチャという軽快な打鍵音が、静謐な室内にリズムを刻む。
通常、私は形容詞の選択に慎重を期すタイプだ。「怖い」「不気味な」といった安直な言葉は使わず、対象の形状や質感を客観的に記述することで、読者の脳内に間接的な不安を醸成する手法を好む。
しかし、今日に限っては、言葉が向こうから勝手に飛び込んでくるようだった。
『半紙の表面は、長年の湿気を吸って黄ばみ、所々に茶色い染みが浮き出ていた。それは紙というよりも、乾燥した皮膚に近い質感を備えている。朱色の文字は、筆の運びが乱暴で、書いた者の激情がそのまま凝固したかのように、紙の繊維に食い込んでいた』
良い。悪くない描写だ。
私は自身の文章に酔いしれながら、さらなる没入を求めてディスプレイを凝視した。
文字の羅列が、ただの記号ではなく、意味を持った有機的な塊として迫ってくる。私はその塊を操作し、配置し、恐怖の伽藍を構築していく。
一時間、あるいは二時間が経過しただろうか。
集中力は途切れるどころか、加速度的に深まっていた。周囲の景色――本棚や壁の時計、窓の外の風景――は意識の範疇から除外され、私の世界はこの四角い発光体の中だけに収束していた。
その時だった。
ふと、鼻先を奇妙な臭いが掠めた。
最初は気のせいだと思った。
私の部屋には空気清浄機が設置されており、埃や臭気は常に除去されているはずだ。
だが、その臭いは確実にそこに存在した。
古雑誌を束ねて放置したような、埃っぽい紙の臭い。
湿って腐りかけた畳の、鼻の奥に重く溜まるような臭い。
そして、微かに鼻をつく、酸っぱい生活臭。
私は手を止めることなく、鼻翼をひくつかせた。
記憶の中にある臭いと同じだ。数時間前、あのアパートの二〇四号室で嗅いだものと、寸分違わず一致している。
服に染み付いていたのだろうか。
あり得ない話ではない。あの部屋の空気は粘着質で、衣服の繊維の奥深くまで入り込む性質を持っていた。
私は自身のシャツの袖に鼻を近づけてみた。
しかし、そこから香るのは柔軟剤のフローラルな香りだけだ。
では、この臭いはどこから来ているのか。
私はキーボードを叩き続けながら、論理的な推論を試みた。
これは「嗅覚のフラッシュバック」だ。
強烈な体験をした後、ふとした瞬間に当時の感覚が蘇ることがある。PTSDの一種として語られることが多いが、今の私の場合は、創作への極度の集中が引き起こした脳が見せる幻だろう。
脳が記憶の欠片を、現在の感覚として誤認しているのだ。
「……面白い」
私は思わず独り言を漏らした。
不快ではない。むしろ、歓迎すべき現象だ。
臭いを感じるということは、それだけ私の脳があの現場のリアリティを保持しているという証拠である。記憶が鮮明なうちに書き留める絶好の機会だ。この生理的な嫌悪感、肺の中が薄汚れた綿で満たされるような息苦しさを、そのまま文章に転写すればいい。
私は打鍵の速度を上げた。
臭いは徐々に濃度を増していく。まるで、部屋の空気が物理的に置換され始めているかのように。
新築マンションの清潔な空気は駆逐され、代わりに四十年分の湿気と怨嗟を吸い込んだ、重い気体が足元から這い上がってくる。
視界の端で、何かが動いた気がした。
反射的に目を向ける。
部屋の隅、本棚と壁の間。
そこには何もない。フローリングの床が続いているだけだ。
しかし、一瞬前まで、私の網膜は確かに別のものを捉えていた。
畳の目だ。
ささくれ立ち、色褪せた藺草の編み目。
そして、壁のクロスは白ではなく、あのアパート特有の、薄汚れた砂壁の質感を持っていたように見えた。
私は瞬きを繰り返した。
幻覚。それも、かなり高度なものだ。
長時間のVDT作業による眼精疲労、あるいは極度の集中状態が生み出した白昼夢。
通常ならば休息を取るべき徴候だ。しかし、私はその選択肢を即座に棄却した。
この感覚の混濁こそが、今の私に必要な燃料なのだ。現実と虚構の境が混濁する瞬間、作家は神の視点に近づくことができる。
パキッ。
背後で、乾燥した薪が爆ぜるような音がした。
木材が乾燥によって割れるような、あるいは重い荷重がきしませるような音。
私の部屋に、木製の家具はほとんどない。本棚もデスクもスチール製だ。この部屋で鳴るはずのない種類の音だった。
私は振り返らなかった。
振り返れば、論理的な説明がつかない光景を見てしまうかもしれないという懸念が、ほんの数パーセントだけあったことは否定しない。だが、それ以上に、モニターから目を離すことが惜しかった。
今、私の頭の中では、言葉が奔流となって溢れ出している。この流れを止めることは、作家としての自殺行為に等しい。
背後の音は、私の脳が作り出した効果音だ。
そう定義付け、私は執筆を続行した。
キーボードを叩く指先が、わずかに冷たくなっていることに気づいた。室温は適温に保たれているはずなのに、指先から熱が奪われていく。あのお札に触れたときのような、ざらついた冷気が、皮膚を通して侵入してくる感覚。
私はそれを不快に思うどころか、一種の快感として享受していた。
素晴らしい。私の肉体までもが、物語と同調し始めている。
このまま書き続ければ、かつてない傑作が完成することは確実だ。
◇
段落の区切りがついたところで、私は一度手を止めた。
大きく息を吐き出し、強張った肩の筋肉をほぐす。
喉が渇いていた。マグカップのコーヒーはすっかり冷めきっている。
ふと、確認したい事項が頭をよぎった。
先ほど描写したお札の配置についてだ。記憶では、天袋の奥の壁、側面、そして天井に貼られていたはずだが、その枚数や密度について、もう少し客観的な裏付けが欲しかった。
写真データを確認すれば済む話だが、私はそれとは別のアプローチを思いついた。
あの事故物件情報の投稿サイトだ。
あそこには、発見時の状況として「大量の不可解なお札」という記述があった。投稿者が他にも詳細な情報を書き込んでいるかもしれないし、あるいは別のユーザーから新たなコメントがついている可能性もある。
第三者の視点による記述は、私の主観を補強する材料として有用だ。
私はブラウザを立ち上げ、ブックマークからその地図サイトを開いた。
見慣れた日本地図が表示される。
私は迷うことなく、あのアパートがある地域へと拡大した。
マウスホイールを回し、縮尺を拡大していく。
私鉄の駅があり、商店街が伸び、そこから分岐する路地。
私の指先は、正確な位置を記憶している。
ここだ。
この角を曲がり、二つ目の区画。
カーソルを合わせた。
しかし、そこには何もなかった。
私は首を傾げた。
読み込みエラーだろうか。あるいは、ズームの倍率を間違えたか。
私は一度ページを更新し、広域表示からやり直した。
東京都全体を表示させると、無数の炎アイコンが点在しているのが見える。サイト自体の機能は正常だ。
再び、あのアパートの地点へと近づいていく。
周囲の物件には、いくつかのアイコンが表示されている。飛び降り、火災、病死。それらは確かに存在する。
だが、私が訪れたあのアパート、「北向きの和室」があるはずの場所にだけ、アイコンが存在しない。
ぽっかりと、空白になっている。
「……削除されたのか?」
私は呟いた。
事故物件の情報が、家主や不動産会社からの要請によって削除されることは珍しくない。風評被害を防ぐため、弁護士を通じてサイト運営者に圧力をかけるケースもあると聞く。
タイミングが悪かった。私が内見に行った直後に削除されるとは。
いや、待て。
私は履歴を確認することにした。
ブラウザの履歴から、数日前にアクセスしたそのページを直接開こうと試みる。
履歴には、確かにそのサイトへのアクセス記録が残っていた。
クリックする。
『お探しのページは見つかりませんでした』
無機質なエラーメッセージ。
完全に消されている。
私は舌打ちをした。
貴重な資料が失われたことへの苛立ち。客観的な証拠が消失したことへの焦燥。
だが、その感情の裏側で、冷ややかな疑念が鎌首をもたげた。
本当に、削除されたのか?
あそこには、確かに「炎のアイコン」があったはずだ。詳細欄には「孤独死」「お札」という記述があった。それは私の脳内で捏造された記憶ではないはずだ。
しかし、今、目の前のディスプレイは、その事実を否定している。
背筋に、冷たいものが走った。
もしや、最初から存在しなかったのではないか?
私の願望が、都合の良い情報を幻視させただけだとしたら?
「……いや、あるはずだ」
私は反射的にデスクの上のスマートフォンを鷲掴みにした。
私はあの時、確かに天袋の中を撮影した。スマホのフラッシュの光に浮かび上がった、あの無数のお札。あの画像さえあれば、私の記憶が正常であることは証明される。
私はロックを解除し、アルバムアプリを起動する。
最新のデータ。撮影日時は昨日の午後。間違いない。
私は祈るような気持ちで、そのサムネイルをタップした。
画面に広がったのは、粘度の高い漆黒だった。
露出不足による暗がりではない。レンズを黒い塗料で塗り潰したような、無意味な画像。
お札も、ベニヤ板の木目も、何ひとつ写っていない。ただの黒い長方形が、冷ややかに私を見返している。
フラッシュは焚いたはずだ。あの白い閃光が闇を切り裂いた残像を、私の網膜は今でも鮮明に記憶している。
けれど、ここには全く記録されていない。
馬鹿な。
私は即座にその仮説を否定した。
私はリアリストだ。現実に立脚した論理的な思考こそが私の武器だ。幻覚や妄想で事実を歪めるなど、私のプライドが許さない。
それに、現に私はあの部屋に行き、お札を目撃し、触れたのだ。不動産屋も告知事項があると言っていた。事実は揺るがない。
サイトの情報が消えたことなど、些末な問題だ。
むしろ、好都合と捉えるべきかもしれない。
ネット上の情報は、誰かの都合で簡単に書き換えられ、消去される脆いものだ。真実はそこにはない。
真実は、私の記憶と、この指先に残る感触の中にこそある。
「私が記録するしかない」
その思考に至った瞬間、不安は消え失せ、代わりに強烈な使命感が湧き上がってきた。
世界からあの部屋の情報が消されたのなら、私が小説という形で保存しなければならない。あの空間の異様さを、お札の不気味さを、最も生々しく言語化できるのは、この私しかいないのだ。
外部の証拠など不要だ。私が目撃し、私が記述することで、それは事実となる。
私はブラウザを閉じ、再びテキストエディタに向き合った。
先ほどよりも、部屋の空気が重くなっている気がした。
照明はついているはずなのに、部屋の四隅に影が溜まっている。
そして、臭い。
カビと湿気の臭いは、もはや無視できないレベルに達していた。まるで、誰かが隣で湿った布団を干しているかのような、生々しい距離感で押し寄せてくる。
私はキーボードに手を置いた。
カタッ。
背後で、また音がした。
今度は木がきしむ音ではなく、何かが床を擦るような音。
ズリ……ズリ……という、重いものを引きずるような微かな摩擦音。
私の聴覚は、その音源が私の背後、わずか数メートルの位置にあることを告げていた。
この部屋に、私以外の誰かがいるはずはない。
ドアは施錠されている。窓も閉まっている。
ならば、この音は何か。
幻聴だ。
私は強く念じた。
脳が極限まで集中した結果、環境音を過剰に解釈しているに過ぎない。冷蔵庫のモーター音や、上階の住人の足音が、脳内で変換されているのだ。
だが、その音は私の理性を嘲笑うかのように続いた。
ズリ……。
近づいている。
ゆっくりと、しかし確実に、私の背中へ向かって。
私は振り返ろうとした。
首を回し、背後の安全を確認すれば、この馬鹿げた妄想は霧散するはずだ。
しかし、私の首の筋肉は石のように硬直して動かなかった。
いや、違う。
動かせないのではない。動かしたくないのだ。
もし振り返って、そこに「何か」があったら?
あるいは、何もなかったら?
どちらにせよ、私の執筆は中断される。この完璧な集中状態が途切れてしまう。
それは惜しい。あまりにも惜しい。
私はモニターを凝視したまま、音の存在を受け入れることにした。
いいだろう。そこにいるなら、いろ。
這いずる音も、湿った気配も、カビの臭いも、すべて私の創作のためのBGMだ。最高の環境演出だ。
私はこの恐怖すらも利用してやる。
背後に迫る気配が生々しければ生々しいほど、私の書く文章はリアリティを増す。
ヒュウ……。
耳元で、風切音がした。
いや、それは風ではない。
湿った、生温かい吐息のような空気の流れが、私の右耳に触れたのだ。
心拍数が跳ね上がる。
全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出す。
逃げ出したいという本能的な衝動が、理性を決壊させようとする。
だが、私はそれを強靭な意志でねじ伏せた。
「書け」
私は自分自身に命令を下した。
この感覚を逃すな。この生理的な嫌悪感を、恐怖の震源地を、文字に変換しろ。
私は狂気的な熱量でキーを叩き続けた。
指が痛むほどの勢いで、文字を打ち込んでいく。
私の視界には、もはや自分の部屋の壁も家具も映っていなかった。
そこにあるのは、薄暗い和室と、開け放たれた天袋の闇だけ。
私は書く。
現実が崩落し、虚構が浸食してくるその上で、私はタイプし続ける。
外部の真実などどうでもいい。サイトの情報が消えようと、不動産屋の証言が曖昧であろうと関係ない。
私が書くことこそが、唯一の真実なのだから。
異臭と異音、そして背後に張り付くような視線の気配。
それらが濃密さを増せば増すほど、私の筆致は冴え渡った。
キーボードを叩く音が、機関銃の射撃音のように室内に響き渡る。
それは、迫り来る闇に対する威嚇射撃であり、同時に、彼らを招き入れるための合図でもあった。




