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顕現  作者: 速水静香


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第二話:接触

 週末の空は、私の期待を裏切らない曇天だった。

 雲は低く垂れ込め、街全体を灰色のフィルター越しに見ているような錯覚を覚えさせる。湿度が高く、肌にまとわりつくような空気が、不快指数を押し上げていた。


 約束の時間の五分前、私は指定された駅の改札前に到着した。


 そこには、一目でそれと分かる男が立っていた。

 不動産仲介業者の男だ。年齢は不詳。四十代のようにも見えるし、定年を過ぎた老人のようにも見える。


 肌の色艶がなく、全体的に枯れた植物のような印象を与える人物だった。着ているスーツはサイズが合っておらず、肩の部分がだらしなく落ちている。


「……作家の先生ですか」


 私が名乗る前に、男の方から声をかけてきた。その声は、錆びた弦を擦ったような、低く掠れた声だった。抑揚がなく、感情の含有量が極めて低い。


「ええ。本日はよろしくお願いします」


 私は努めて明るく、ビジネスライクな口調で応じた。相手の陰鬱な空気に同調する必要はない。私はあくまで、物件を評価する観察者としての立場を崩してはならない。


「こちらです。車を出しますので」


 男は私の顔を見ようともせず、踵を返した。その歩き方は、重い足枷を引きずっているかのように緩慢だった。

 案内されたのは、社用車と思われる白い軽自動車だった。車内には、古い紙の束の臭いに、安っぽい芳香剤の香りが上塗りされた独特の臭気が充満していた。後部座席には、図面や契約書類らしきものが乱雑に積み上げられている。

 助手席に乗り込むと、男は無言でエンジンをかけた。

 車は駅前の商店街を抜け、住宅街へと入っていく。車窓を流れる風景は、徐々に色彩を失い、古びた建物が増えていく。


「あの物件、どうして選ばれたんですか」


 ハンドルを握ったまま、男が前方の道路を見つめて尋ねてきた。世間話というよりは、確認作業のような淡々とした口調だ。


「仕事の資料として興味がありましてね。私は小説を書いていまして、次の作品の舞台に似た環境を探していたんです」


 私は正直に答えた。隠す必要はない。むしろ、作家という身分を明かすことで、いわくつきの物件に対する好奇心を正当化できる。


「……そうですか」


 男の反応は薄かった。興味がないのか、あるいは私の答えが想定内だったのか。


「あの部屋の情報、ご存知なんですよね。サイトとかで」

「ええ、まあ。いわくつきであることは知っています。なんでも孤独死があったとか」


 私がそう言うと、男はわずかに眉を動かしたようだった。横顔からは感情が読み取れないが、車内の空気が少しだけ張り詰めたように感じられた。


「それだけじゃありませんよ」


 男がポツリと言った。


「前の入居者も、その前も、長くは居つきませんでした。まあ、古い建物ですから。建て付けも悪いし、湿気もひどい。音も響く。神経質な方には向かない物件です」


 それは不動産屋としての予防線なのか、それとも親切心からの警告なのか。


「構いません。私はそういう環境こそを求めていますから」


 私の言葉に、男は初めてこちらをちらりと見た。その瞳は濁っており、焦点が合っているのかいないのか判然としなかった。


「……書くため、ですか」

「そうです。現実に即した恐怖を描くためには、安全な場所で想像しているだけでは不十分です。現場の空気を吸い、その場の気配を肌で感じる必要があるんです」


 私は少し饒舌になっていたかもしれない。自身の創作論を語ることで、この陰気な男に対して優位に立ちたかったのかもしれない。

 男はそれ以上何も言わず、再び視線を前方に戻した。

 車は狭い路地に入り込み、徐行運転になった。両側には塀が迫り、見通しが悪い。


「着きました」


 男が車を止めたのは、突き当たりにある木造二階建てのアパートの前だった。


 私は息を呑んだ。

 そこにあったのは、私の脳内にあるイメージを、そのまま具現化したような建物だったからだ。

 外壁は塗装が剥げ落ち、下地の木材が黒ずんで露出している。屋根瓦の一部は欠け、雨樋は所々欠落している。二階の廊下部分にある鉄柵は赤錆に覆われ、触れれば崩れ落ちそうな脆さを晒していた。


 何よりも、その建物が纏っている雰囲気が異様だった。

 周囲の家々からは生活音が聞こえるのに、このアパートの周囲だけ真空地帯のように静まり返っている。鳥の声すらしない。ただ、湿った空気が澱み、目に見えない重さとなって建物を覆っているような圧迫感があった。


「二階の奥です」


 男が先に立ち、外階段を登っていく。金属製の階段は、一歩踏み出すたびに鉄が苦痛を訴えるような音を立てた。

 私はその後ろ姿を追いながら、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。これから目にする光景を、一つ残らず記録しなければならない。


 二階の廊下は薄暗く、各部屋のドアはどれも閉ざされていた。表札が出ている部屋もあるが、人の気配は感じられない。

 一番奥の部屋、二〇四号室の前で男が立ち止まった。

 ドアは安っぽいプレス鉄板で、郵便受けの投入口が錆び付いている。

 男が鍵束を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ガチャリ、という硬質な音が周囲へ広がった。


 ドアがゆっくりと内側へと開かれた。


 その瞬間、鼻をつく臭気が漂ってきた。

 カビ、古い畳、埃、そして正体不明の酸臭。それらが渾然一体となって、廃墟特有の空気が漏れ出してきたのだ。


「どうぞ」


 男に促され、私は玄関の敷居を跨いだ。

 靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せる。床板が微かに沈み込む感触があった。


 室内は薄暗かった。北向きの窓には雨戸こそ閉まっていないものの、磨りガラス越しに入ってくる光は弱々しく、部屋の隅々までを照らすには至らない。

 私は目を凝らして、部屋の全貌を確認した。


 六畳の和室。畳は全体的に日焼けして茶色く変色しており、所々に黒い染みのような汚れが見える。壁は砂壁で、触れればボロボロと崩れ落ちそうな感じだ。

 そして、私の視線は吸い寄せられるように、西側の壁へと向かった。

 そこには、押入れがあった。

 襖は黄ばんでおり、何十年もの間、開け閉めされてきたであろう手垢の痕跡が残っている。

 その上。


 天袋。

 それは、私がプロットで描いた通りの位置に、描いた通りの不吉な存在感を持ってそこに在った。

 襖のわずかな開きから、内部の闇が覗いている。それは単なる光の不在ではない。何か濃密な、ねっとりとしたものが詰まっているかのような、重みのある闇だった。


「……電気、点きませんね」


 私が壁のスイッチを押しても、天井の裸電球は反応しなかった。


「ああ、ブレーカーを上げていませんから。まあ、天気が良ければ見えるでしょう」


 男は玄関に立ったまま、中に入ってこようとしなかった。まるで、この部屋の空気に触れることを拒んでいるかのように。


「少し、見せてもらいますね」


 私は努めて冷静な声を出し、畳の上を進んだ。

 足の裏から伝わってくる感触が、不快だった。畳が湿気を帯びており、靴下越しにじっとりと濡れるような感覚がある。


 私は部屋の中央に立ち、周囲を見渡した。

 間違いない。ここだ。

 私の小説のために用意された、素晴らしい条件だ。この荒廃具合、この空気の重さ、そしてあの天袋。すべてが私の創作意欲を刺激し、脳内の物語をフル回転させる。


 私はスマートフォンを取り出し、部屋の四隅を撮影した。スマホのフラッシュが焚かれるたびに、一瞬だけ部屋の陰影が反転し、隠れていた汚れや傷が白日の下に晒される。

 そして、私は押入れの前に立った。

 私の身長では、天袋の襖に手は届くが、内部を覗き込むには少し高さが足りない。


「脚立か何か、ありませんか」


 振り返って男に尋ねた。


「……車に積んでありますけど、使うんですか」


 男の声に、明らかな躊躇が含まれていた。


「ええ。天袋の中も確認したいので。収納の広さは重要ですから」


 嘘ではない。だが、真の目的はそこではない。

 私は確認しなければならなかった。私の想像力が、どこまで現実に肉薄しているのかを。あの地図サイトの記述にあった「お札」が、本当に存在するのかどうかを。

 男は渋々といった様子で車に戻り、小さな折りたたみ式の脚立を持って戻ってきた。


 私はそれを受け取り、押入れの前に設置した。

 金属製の脚立を開く音が、静寂を破るように、脚立の開く音が落ちた。


 私は一段、また一段と足をかけた。

 視点が上がるにつれて、天袋の襖が目の前に迫ってくる。


 襖の紙には、小さな穴がいくつも空いていた。虫食いなのか、あるいは誰かが指で突いたのか。


 私は右手を伸ばし、襖の縁に指をかけた。

 ざらりとした木の感触。


 深呼吸をして、私は一気に襖を横にスライドさせた。


 ガガガ、と乾いた音がして、襖が開いた。


 内部から、冷たい風が吹き出してきたように感じた。

 私はスマートフォンのライトを点灯させ、その光束を闇の中へと向けた。


 白い光が、長年の埃と闇を押しのけていく。


 天袋の奥、ベニヤ板の壁。

 そこに、それはあった。

 古びて茶色に変色した半紙。そこに朱色の顔料で書かれた、判読不能な文字の羅列。


 お札だ。

 そして、それは私の想像通り、天地が逆さまの状態で、壁に糊付けされていた。

 一枚ではない。奥の壁、側面の壁、そして天井部分にまで、びっしりと余白なく貼られている。まるで、その空間全体を封印するかのように。あるいは、その空間そのものが、お札で作られたものであるかのように。

 私は息をするのも忘れて、その光景に見入っていた。


 恐怖?


 いいや、違う。

 私が感じたのは、強烈な「勝利」の感覚だった。

 見たか。私の目は正しかった。私の知性は、この世界の裏側に潜む法則を、完全に見抜いていたのだ。この部屋は、私が書くために存在する。このお札も、この不気味な天袋も、すべては私の物語の一部となるために、ここで待っていたのだ。


 私はスマホのシャッターを切った。

 画面の中で、逆さまのお札が白く浮かび上がる。


 その時、ふと指先にお札の端が触れた。

 紙やすりのように乾燥し、それでいて妙に脂っぽい感触。そして、指の腹から血管を通って心臓へと直結するような、刺すような冷たさ。


 その触感を得た瞬間、私の身体の内臓が縮み上がるのを感じた。

 これだ。この感触だ。

 これさえあれば、私はかつてない傑作を生み出すことができるだろう。現実と虚構というものを取り払い、読者を真の恐怖へと叩き落とす、歴史に残るホラー小説を。

 私は脚立を降り、玄関で待つ不動産屋に向き直った。


「……戻りましょう」


 私の言葉に、男は安堵したように肩の力を抜いた。


「そうですか。ええ、それがいいでしょう」


 男は逃げるようにドアを開けた。


 私はもう一度だけ、部屋を振り返った。

 開けっ放しになった天袋の闇が、黒い口を開けて私を見下ろしていた。


 その奥にある逆さまのお札が、わずかに蠢いたような気がした。。

 ようこそ、と招いているのか。それとも、逃げろ、と警告しているのか。


 どちらでも構わない。私はその闇を支配し、飼い慣らし、言葉という鎖で繋いでみせる。私は作家なのだから。

 私は靴を履き、軽やかな足取りでアパートの階段を降りていった。


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