第一話:偶然
嘘というものは、精巧に積み上げられた煉瓦のようなものだ。
一つひとつの事実は硬質で、ありふれていて、退屈ですらある。だが、それを選別し、配置し、接着剤で固めることによって、現実には存在し得ない伽藍を建築することができる。
私の職業は、世間で言うところのホラー作家である。
もっとも、私自身はこの肩書きに些か不満を抱いている。「ホラー」という言葉が想起させる、絶叫や流血、あるいは安直な霊魂の類いは、私が目指す作品とは乖離しているからだ。
私が構築したいのは、恐怖ではない。不安だ。
読者の背後に忍び寄るのではなく、読者の脳内にある認識を外れ落とすこと。安全だと思い込んでいた床が、実は紙一枚分しかないと気づかせること。それが私の創作における至上命題である。
机の上には、愛用しているノートパソコンが鎮座している。
画面には、白い無機質なテキストエディタが広がっており、カーソルが規則的な明滅を繰り返している。それは私の思考を反映するかのように、次なる文字列が打ち込まれるのを待っている。
私は次回の長編作品の構想を練っていた。その題名は仮に『事故物件』とする。
手垢のついた題材であることは重々承知している。幽霊が出る部屋、呪われた土地、前の住人の怨念。書店に行けば、この手の怪談実話や三流のホラー小説が棚を埋め尽くしている。
だが、だからこそ挑む価値がある。
大衆が消費し尽くしたと思っている陳腐なテーマを、圧倒的な構成力と細部のリアリティによって、まったく新しい絶望の形へと昇華させる。それこそが、プロフェッショナルである私の矜持であった。
私はコーヒーを一口含み、苦味が舌の上で拡散するのを待ってから、キーボードに指を置いた。
まず必要なのは、その「部屋」の条件である。
幽霊が出るから怖いのではない。その部屋の構造そのものが、人間の生理的嫌悪を喚起するようにできているから、結果として怪異が呼び寄せられるのだ。つまりは因果が逆でなければならない。
私は脳内で、理想的な忌むべき空間を組み立て始めた。
方角は北向きでなければならない。太陽の恩恵を拒絶し、常に薄暗い陰影が支配する場所。風通しが悪く、湿気が滞留する。壁紙の裏や畳の芯に、黒いカビの胞子が静かに根を張り、住人の肺腑をゆっくりと侵食していくような粘着性が必要だ。
間取りは、単身者向けのワンルーム、それも和室が良いだろう。
フローリングやコンクリート打ちっ放しの壁は、その無機質さがかえって清潔感を生んでしまう。有機物が腐敗していく過程を連想させるには、古びた藺草と、湿気を吸って重くなった襖、そして変色した土壁の質感が不可欠だ。
そして、物語の核となる「怪異」をどこに配置するか。
私は思考を巡らせる。床下収納、押入れ、浴室。どれもありがちだ。視線が届きにくく、かつ日常的に意識の死角となる場所。
天袋だ。
押入れの上部、天井と接する部分に設けられた小さな収納空間。普段使わない道具や、季節外れの寝具を押し込んでおくための場所。あそこは、一度物を入れてしまえば、引越しの日まで二度と開けることがない忘却の空間だ。
あるいは、直立した人間が見上げたときに、ちょうど首の角度がきつくなる位置にあるため、無意識に視認を避けてしまう場所でもある。
私はテキストエディタに、その設定を打ち込んだ。
『北向きの和室。六畳一間。築四十年以上の木造アパート。押入れの上部には天袋があり、その襖は経年劣化で歪んで容易には開かない』
文字にすることで、脳内の映像が具体性を増していく。
では、その天袋の中に何があるべきか。死体や白骨ではミステリになってしまう。生きている人間が潜んでいてはサスペンスだ。理解不能でありながら、生理的なおぞましさを伴う物体。
お札。それも、逆さまに貼られたお札だ。
通常、お札は災厄を退け、場を清浄に保つために貼られる。それが逆位置にあるということは、意味の反転を示唆する。
守るのではなく、閉じ込めているのか。あるいは、外部からの侵入を防ぐのではなく、内部から何かを招き入れているのか。その「あべこべ」な状態こそが、読者の予測を暴走へと導くのだ。
そこまで設定を固めたところで、私はふと指を止めた。
悪くない。だが、まだ弱い。これはあくまで私の脳内でのみの机上の空論だ。虚構としての強度は十分だが、現実という重しが足りない。
読者を物語の深淵に引きずり込むには、彼らが住んでいる現実世界と、この小説の世界が地続きであると錯覚させなければならない。
私はブラウザを立ち上げ、新しいタブを開いた。
不動産情報サイトで、実在の物件を検索してみようと考えたのだ。私の構築した条件、つまり「北向き」「和室」「築古」「木造」といった要素を兼ね備えた物件が、現代の賃貸市場においてどのような扱いを受けているのか。家賃の相場や、物件写真の空気感をすくい取ることで、描写に厚みを持たせるためである。
検索条件を入力していく。
エリアは都内だが、中心部からは外れた場所。沿線は私鉄の各駅停車しか停まらない駅。徒歩十五分以上。築年数は指定なしだが、あえて「木造」にチェックを入れる。家賃の上限は四万円。
検索ボタンをクリックする。
画面が白く瞬き、数秒の読み込みを経て、検索結果が表示された。
数十件の物件がリストアップされる。私はそれをスクロールしながら、詳細情報を目で追っていった。どれも似たり寄ったりの、安普請なアパートだ。外観写真は薄汚れたモルタルの壁、内装写真は広角レンズで無理やり広く見せようとした和室。
だが、三ページ目に差し掛かったとき、私の指が止まった。
ある一つの物件情報が、異様な引力で私の視線を捉えたからだ。
外観写真はない。間取り図だけが掲載されている。
六畳の和室。北向きの窓。玄関を入ってすぐの場所に狭いキッチンがあり、その奥に居室がある。そして、部屋の西側の壁一面が収納スペースになっている。
下段が押入れ、そして上段に、不自然なほど横に長い天袋が描かれていた。
私が先ほど脳内で描いた間取り図と、あまりにも酷似していた。
偶然の一致だということは理解している。日本の木造アパートの規格など、ある程度決まったパターンの中に収束するものだ。六畳一間の和室を描けば、似たような構成になるのは統計的に見ても必然である。
しかし、私の興味を惹いたのは間取りの合致だけではなかった。
備考欄の記述だ。
『告知事項あり』
不動産業界における隠語。心理的瑕疵物件。すなわち、その部屋、あるいはその建物内で、何らかの忌まわしい事案が発生したことを示唆する文言である。
自殺、他殺、孤独死、火災。内容は様々だが、通常の賃貸借契約においては借り主に伝える義務がある事象だ。
私は背筋が凍るように感じた。
それは恐怖ではない。狩人が獲物の足跡を見つけたときに感じる、静かな高揚だった。
私の想像力は、現実の裏側にある事実を正確に射抜いていたのだ。私が「こうあるべきだ」と考えた不吉な部屋の条件は、実際に「告知事項」が発生する現場の条件と合致していた。
これは、私の作家としての嗅覚が正常に機能していることの証明に他ならない。
私はその物件の住所をコピーした。
そして、もう一つのサイトを開く。
一般に「事故物件公示サイト」として知られる、有志によって運営されている地図情報サイトだ。投稿者が地図上に炎のアイコンを設置し、そこで起きた事件や事故の詳細を書き込むことができる。
情報の真偽は玉石混交だが、不動産屋が隠したがる過去の履歴を暴くツールとして、一部の好事家や慎重な部屋探しをする人々に重宝されている。
先ほどコピーした住所を検索窓にペーストし、エンターキーを叩く。
地図が都内の西側、住宅密集地へとズームしていく。
灰色の道路と四角い建物の区画がパズルのように組み合わさった画面の中に、そのアイコンはあった。
ゆらゆらと燃える、黄色い炎のマーク。
まさに、私が目をつけたアパートの所在地に、その印は刻まれていた。
私はマウスを握る手に力を込め、カーソルをその炎の上に移動させた。クリックする。小さな吹き出しがポップアップし、投稿された詳細情報が表示される。
『二階角部屋にて男性の孤独死発見。死後数ヶ月経過。室内、特に押入れ周辺から、出所不明のお札が大量に発見されたとの情報あり』
私は思わず、椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
傑作だ。
現実は、時として凡庸な作家の想像力を嘲笑うかのように、奇抜な展開を用意するものだと言われる。事実は小説よりも奇なり、という陳腐な格言がある。
だが、今回は違う。
私の想像力が、現実に追いつき、それを予見していたのだ。「北向きの和室」「天袋(押入れ周辺)」「お札」。私が机上で構築したプロットの要素が、まるで私の頭の中を覗き見たかのように、その物件には備わっていた。
孤独死した男が貼ったのか、それともその前の住人か。なぜお札が必要だったのか。なぜ「大量」なのか。
それらの疑問は、恐怖の対象ではなく、私の物語を補強するための最高級の素材だった。私が書こうとしている小説は、単なる空想ではない。現実の上に築かれる強固な伽藍となる。
この物件をモデルに、あるいはこの物件そのものを舞台として執筆すれば、そのリアリティは比類なきものとなるだろう。
モニターの中で揺らめく炎のアイコンが、私を手招きしているように見えた。
通常の人間の感性であれば、ここでページを閉じ、忘却の彼方へ追いやろうと努めるだろう。死の痕跡が残る場所、不可解な呪術的痕跡があった場所に近づこうとする者はいない。
しかし、私は作家だ。
安全な場所から双眼鏡で眺めるだけでは、本物の闇を描くことはできない。その闇の中に身を浸し、肺いっぱいに腐臭を吸い込み、肌で湿気を感じて初めて、読者の神経を逆撫でする文章が作成できるのだ。
私は再び不動産情報サイトのタブに戻った。
画面の右端にある「内見を申し込む」というボタンが、物理的な重みを持って迫ってくる。
迷いはなかった。むしろ、他の誰かにこの獲物を横取りされることへの焦燥すら感じていた。私は入力フォームに名前と連絡先を打ち込み、送信ボタンを押した。
「送信が完了しました」という無愛想なメッセージが表示される。
私は自身の指先を見つめた。キーボードの上で、指が強張って動かない。
武者震いか。それとも、脳の奥底で警鐘を鳴らしている本能的な拒絶反応か。
私はそれを、未だかつてない傑作が生まれる予兆として解釈することにした。論理的に考えれば、ただの古いアパートだ。お札など、精神を病んだ住人の奇行の結果に過ぎない。超常的な現象など存在せず、すべては物理法則と因果律によって説明がつく。
私はその構造を解き明かし、私の小説という枠組みの中に閉じ込めてやるのだ。
窓の外では、いつの間にか陽が傾き始めていた。私の部屋の中にも、薄墨を流したような影が浸食し始めている。だが、今の私にはその薄暗ささえもが、これからの取材活動を祝福する演出のように思えた。
私は手帳を開き、週末の日付に「取材」と書き込んだ。
黒いボールペンのインクが、白い紙の上に染み込んでいく。それはまるで、これから私の身に降りかかる出来事が、確定した事実として運命に刻印されたかのような、確かな手応えがあった。
私は期待に胸を膨らませながら、再びキーボードに向かった。内見までの数日間、この高揚感を維持したまま、プロットの細部を詰めておく必要がある。
ディスプレイの光だけが、私の顔を青白く照らしていた。
静寂に包まれた仕事部屋で、私はまだ見ぬ北向きの和室へと、意識の触手を伸ばしていった。そこにあるはずの淀んだ空気と、カビの臭い、そして逆さまに貼られたお札のざらついた感触を、幻視し始めていた。




