第9話:梨紗と陽菜
気が付けば、もう夕方を過ぎ、部屋の窓からは闇夜の色がにじみ始めていた。
香澄はこれから学習塾に行くらしい。
陽菜も香澄と一緒に帰ろうと、バッグを手にした。
だが、それを梨紗が軽く阻止する。
「陽菜、もうちょっと時間ある? 暇っしょー? もうちょっと付き合ってよ~」
調子のいい梨紗の言葉に、陽菜も肩をすくめて応じた。
「じゃー……。まあ、あと少しだけね」
その返事を聞いた香澄は、少し残念そうに唇をとがらせる。
「えー、一人で行くのか~。塾まで陽菜に付き合ってもらおうと思ったのに~」
陽菜は苦笑しながら振り返った。
「一人で行けるだろ。ウチは保護者じゃねーぞ!」
その冗談めいた言葉に、梨紗も香澄も噴き出す。
笑い声を響かせながら、ふたりは香澄を玄関まで見送った。
香澄が帰ると、ふたりは再び三人でいた部屋に戻った。
梨紗が座ると、陽菜に向かって口を開く。
「このあいだの件、本当にありがとう」
それは、梨紗を陽菜が助けたときの話だった。
梨紗は、やはりそのことを気にしていたらしい。「陽菜は特に気にするな」と声をかけ、ふたりはそれ以来、いつも通りに過ごしてきた。
香澄にはこの件を話していない。もちろん、これで友達関係を崩すことはないだろう。
むしろ、香澄が知れば、梨紗を心配して過保護になってしまうに違いない――陽菜はそう思った。
陽菜は肩をすくめて言った。
「ほんと、ガチでウチはなにもしていないから。それよりも、あの後は、大丈夫なの?」
陽菜が心配そうに聞くと、梨紗は少し照れながら答える。
「うん……大丈夫」
陽菜はそれを聞いて、胸をなで下ろした。
しばらくして、梨紗はもう一つ質問した。
「ねぇ……、北川先輩とは順調なの?」
茶化すつもりではなく、真剣な問いだと陽菜は受け取った。
陽菜も実直に答える。
「うん。今のところは問題ナッシング」
「そっか……」
梨紗は続けて聞いた。
「あの女は?」
それは彩華のことを指していた。
「あれは、もともと蓮の友人。それで知り合った」
梨紗は前のめりになって、さらに確認する。
「じゃーー、なんの関係もないんだね!!」
陽菜は思わず後ろにのけぞる。
「う……うん? ど……どした……?」
その反応を見て、梨紗はほっとしたように笑った。
梨紗の勢いが収まったのを見て、陽菜も胸をなでおろす。
今度は陽菜が口を開いた。
「その……ごめん、蓮と付き合うことになって……。まさか梨紗も好きだったなんて思わなくって……」
梨紗はきょとんとした顔で陽菜を見返す。
「私が? 北川先輩を? どーして?」
陽菜はびっくりして目を見開いた。
「え? それで怒ったりしてたんじゃないの?」
梨紗はあっけらかんと答えた。
「怒ってたけど、それは全然ちがうよ?」
そう言うと、梨紗はジュースを取りに立ち上がった。
その間、陽菜は考え込む。
(なぜに……怒る……女心はよくわからん……)
そう思いつつも、陽菜もれっきとした女なのだが……。
すると、背後から突然、やわらかい感触が伝わった。
背中に、柔らかい胸が当たる……。
振り向く間もなく、陽菜の顔の横に梨紗の顔がくる。
ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
そして、耳元でかすかに囁くように、梨紗が言った。
「私ね……陽菜のことが好き……」
陽菜は一瞬、心臓が止まるかと思った。そして心で叫んだ。
(な、なんと……!)
そんな陽菜の思考をよそに、梨紗は耳元で囁く。
「私ね、ずーっと好きだったの。陽菜のこと。だから……ほかの男子や女子が近づくのが許せなかった……」
「嘘じゃなくて、本当の想い。だから、ふたりだけの時に言いたかった……」
陽菜はすぐに頭の中で整理する。
(梨紗は大事な友達だし……恋愛感情はないけど、友達関係は壊したくない)
陽菜は、これまで様々な“想い”を相手にしてきた。そしてこれからもそうなるだろう。
だから、驚きはしたが、不快に感じることはなく、自然と受け入れられた。
「梨紗は大事な友達だよ……そう言ってくれるのはうれしい。だから、恋愛感情はないけど、これからも友達関係でいよう」
陽菜はそっと梨紗の抱き着いている腕に手を添える。
梨紗は少し肩をすくめて照れたように笑う。
「……うん、伝えたかっただけ。だから大丈夫だよ」
だが、その梨紗がぎゅっと陽菜を強く抱きしめた。
陽菜は、頬を伝う梨紗の涙の感触に気づく。
「……梨紗」
陽菜は、それ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
しばらくして、梨紗はそっと陽菜から離れた。
「陽菜……?」
その呼びかけに、陽菜は自然と振り返る。
すると、梨紗は恥ずかしそうに目を伏せながらも、そっと陽菜の頬に手を添え、唇を重ねた。
──その瞬間、周囲の時間がふたりだけのものに変わった。
陽菜は、何か言おうとする気力もなく、ただその感触を受け入れる。
梨紗はさらにぎゅっと抱きしめ、柔らかく囁いた。
「あと、もう少しだけ、このままでいさせて」
陽菜は言葉を返すこともできず、ただ黙ってその温もりに身を任せた。
(いままで、様々な想いを相手にしてきたとはいえ……こりゃ、さすがに参ったな……)
心の中で、思わず呟く。
胸の奥で鼓動が早まり、呼吸がわずかに乱れるのを感じる。先ほどの唇の感触と、頬に触れた温もりが、まだ体中に残っていて、どうにも振り払えなかった。
その様子を、外から宙に浮いて見下ろす存在がいた。
薄い翅をきらめかせた邪妖精・スプリガンである。カーテンも壁も、彼女にとっては何の障害にもならなかった。
『……姐さんも、いろいろ大変ですねぇ』
クスクスと笑いながら、スプリガンは片頬をつり上げた。
『でもまあ、その娘の想い、姐さんに届いたわけですし、もっと叶えてあげてもいいんじゃありません?』
そして、不敵に胸を張る。
『恋も戦もごっちゃにした方が、スリルってもんでしょう? アタイも手伝ってあげますので。ククク……』
不敵に笑う声だけを残し、空気に溶け込むように姿を消した。




