第8話:梨紗の家
「今度、うちで打ち上げしよーよ」
―前、そう誘ってきた梨紗の言葉を思い出しながら、陽菜は香澄と並んで歩いていた。
今日はエレナは不在。なにせ、今のエレナは、自由自在に妖精にも人間にもなれる。
そのため、母・結衣に買い物へ付き合わされていたのだ。
とはいえ、陽菜の胸には小さな影があった。九尾の狐がいつ襲ってくるかわからない。
けれど、結衣に打ち明ければ、余計な不安を与えてしまう。エレナも納得したうえの行動であった。
「たしか、梨紗の家ってこの辺だよね」
香澄が言うと、陽菜は頷いた。
「たぶんそう。……あ、ここだ」
目の前にそびえるのは、六階建ての白いマンション。
梨紗は三階に住んでいる。入口のエントランスホールもなく、居室前まで直接たどり着ける造りだった。
インターホンを押すと、すぐに元気な声が返ってきた。扉が開き、梨紗が笑顔で迎えてくれる。
陽菜がビニール袋を差し出した。
「ほら、差し入れ」
部屋の中はきれいに整理されていた。
だが、どこか家庭の温もりに欠ける空気が漂っており、陽菜の胸に小さな引っ掛かりを残した。
「そういえば、梨紗って母子家庭だったよね? お母さんは仕事?」
陽菜が問いかけると、梨紗は肩をすくめて答えた。
「うん。……でも、今は私一人で暮らしてるの。お母さんは、別の男性と一緒にいるみたい」
「そっか……。ごめん」
陽菜が申し訳なさそうに言うと、梨紗はすぐに明るい笑みを見せた。
「あ! でも大丈夫。学費も家賃も塾代も、毎月ちゃんともらってるから」
その無邪気な笑顔を見て、陽菜も微笑んだ。
けれど心の奥では、本当は寂しいんだろうな、と感じずにはいられなかった。
打ち上げといってもお酒を飲むわけではない。三人で集まって、ただ思い切り騒ぐだけ。
コスメの話、梨紗の服の話、クラスの男子の噂や恋バナまで、話題は尽きず、笑い声が絶えなかった。
ここ最近は九尾の狐のことばかりで気を張っていた。こんなふうに、ただの女子高生として過ごすのは本当に久しぶりだ。
陽菜はそう思いながら、心地よい時間を噛みしめていた。
梨紗が差し出すチョコをつまみながら、コスメ談義で盛り上がる。
「これ、めっちゃ発色いいじゃん!」
「でしょ? 駅前のセールでさ……」
梨紗と香澄の他愛もない会話に笑いながら、陽菜はふと立ち上がった。
「ジュース、取りに行こうっと」
陽菜はそういって、梨紗が冷蔵庫に入れておいてくれたジュースを取りに立ち上がった。
窓際を通りかかった瞬間、陽菜の視線は外に向いた。
――そこで一瞬、違和感を覚える。
アスファルトの歩道を、黒い影がすっと横切ったように見えた。
強い日差しの下ではあり得ない、濃く、どこか不自然な影。
(いま、なにかいた……?)
思わず目を凝らすが、そこには誰もいない。
ただ、風に揺れた街路樹がつくった影が地面に揺れているだけだった。
「どうしたの、陽菜?」
梨紗が首をかしげる。
「……ううん、なんでもない」
陽菜は笑みを浮かべ、冷蔵庫からジュースを手に取った。
香澄がクッションを抱えたまま、ニヤニヤと顔を寄せてくる。
「ねえねえ、陽菜は? 北川先輩とどんな感じなの?」
「えっ!? ウ、ウチは……」
突然の直球に、陽菜の頬が一気に熱くなる。
香澄はニヤニヤしながら追い打ちをかけた。
「えっちしたの? どうだった? やっぱ痛い?」
「ちょっ……な、なに言ってんだよ! まだ、なにもしてねーし!!」
陽菜は真っ赤になり、香澄の抱えていたクッションを奪って投げつけた。
「わっ、ちょ、やったな!」
香澄の笑い声が再び部屋いっぱいに広がる。
だが、その横で梨紗は笑わず、黙ったまま視線を伏せていた。
それはほんの一瞬……けれど、まるで嫉妬のように見えた。
「ははーん。さては梨紗も北川先輩のこと好きだな~?」
香澄がニヤニヤと梨紗に顔を近づける。
「ち、ちがうよ!!」
梨紗は慌てて否定する。けれど声が裏返り、頬まで赤く染まっていた。
「うわ、反応早っ。図星じゃん?」
香澄がゲラゲラと笑い転げる。
「……違うってば」
梨紗は再び言ったが、その目はほんの一瞬だけ、陽菜に向けられて、すぐ逸らされた。
そのやり取りを見て、陽菜は胸の奥に奇妙な感覚を抱いた。
(……蓮のことが好き。やっぱり、それが時々感じる違和感の理由なのかな)
(でも、この間……蓮というよりは、彩華に対して怒っていたように見えた……)
けれど、陽菜の心の片隅には、それ以上に、さっき見た“影”の残像が、どうしてもこびりついていた。
まるで、真昼の光の下からでも、誰かが見つめているような気配を感じていた。
(やっぱり……九尾の狐……?)
心の中で陽菜はそう呟く。
「ちょっとごめん!」
居ても立ってもいられなくなった陽菜は、慌ててスマホを取り出し、結衣に電話をかける。
「もしもし、お母さん? ちょっと確認したくて……エレナ、今そばにいる?」
受話口から聞こえてくるのは、いつも通りの落ち着いた結衣の声。
その瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
「ええ、いるわよ。買い物も済ませて、今は休憩中」
続いた声色は、どこか苦笑い混じりだった。
「っていうかさー、トイレでいきなり人間になっちゃって……。今は、フードコートでハンバーガー三個も食べてるわよ……」
「……えぇぇ!? 三個!?」
電話の向こうの結衣は、完全に呆れ顔が透けて見えるような調子だ。それに加えて、クチャクチャと咀嚼する音まで聞こえてくる。
そして、突然、受話口の向こうで騒がしい声が響いた。
『んぐぐっ!? ケチャップごぉぼれちゃ! ……おがぁわりひょうだーい!!』
想像した映像が脳裏にフルカラーで再生され、陽菜は青ざめる。
(まーた、食い意地張りやがって……)
そして、やっとの思いで口を開いた。
「あざす……いや、了解っす……」
脱力感でいっぱいの陽菜は、二人がいる部屋に戻るなりテーブルに突っ伏して叫んだ。
「思い過ごしかよ。あぁぁぁ~、もぉぉぉぉ~、デスるわ~」
梨紗と香澄はただポカンとするばかりだった。
――しかし、それは陽菜の思い過ごしではなかった。
その少し前、エレナもスーパーの通路で、黒い影を目にしていたのだ。
棚の間をすっと滑る、強い蛍光灯の下ではありえないほど濃い影。空気ごとひんやりとするような存在感。
(……なに、あの影……?)
妖精の姿だったエレナは、息をひそめて結衣の背中に隠れる。
その影は、視線の端を縫うように動き、彼女の動きに合わせるかのようにかすかに揺れる。
周囲を見回しても、誰もいない。
だが、影だけが確かに、そこにある。静かに、しかし明確に、漂っていた。
――数十分後。
人間に変身したエレナは、そんな出来事を忘れたかのように、ケチャップを口につけながらハンバーガーを幸せそうに頬張っていた。




