第5話:十三段目の階段にいた少年
その階段に気づいたのは、なんでもない放課後の帰り道だった。
「……ねえ陽菜、あの階段って、いつからあった?」
エレナが陽菜の肩の上で、小さく首をかしげる。指差す先、公園の奥──公衆トイレの横に、苔むしたコンクリートの階段が静かに伸びていた。
「前からあったような……いや、なかったような……?」
どこか曖昧な記憶。普段通る通学路の脇道なのに、その階段だけ、まるでぽっかりと“今日だけ現れた”かのような違和感があった。
普段気にしていないから、だた単に目に入っていなかっただけなのかもしれない。
「行ってみよっか?」
陽菜は公園に入って、階段のそばへと歩いていく。
コンクリートは湿っていて、苔に覆われ、どこか冷たい空気を纏っていた。
見上げると、その階段は、まるで空へと吸い込まれるように、上へ、上へと伸びている。
「ねぇ、この階段……どこに続いてるんだろ」
陽菜がぽつりと呟く。
「陽菜……平地の公園に、こんな階段なんて、おかしいよ」
エレナの声には、ふだんの軽さがなかった。
陽菜も、さすがに胸の奥に冷たいものを感じた。けれど、その違和感すらも、好奇心を煽る要素になっていた。
陽菜が一歩踏み出したとき、エレナが不意に翅をふるわせて言った。
「ちょっと待って。その階段、段数がおかしい」
見える範囲で数えてみると、コンクリートの階段は十三段。
「それって、べつに変じゃなくね?」
「十三段って……あっち側に渡っちゃう数だよ。戻ってこれなくなる段かもしれない」
目の前の階段は十三段。けれど、見上げると、階段は空の彼方まで、どこまでも、どこまでも伸びているように感じられた。
「ほんのちょっとだけ。見てくるだけだよ。エレナはここで待ってて」
そう言って、陽菜はそっと一段目に足をかけた。
二段目、三段目──足取りはまだ軽い。
そして、四段目に足を置いた瞬間──耳に届いていたはずの風の音が、ぴたりと止まった。
八段目を踏んだとき、不意に空が、にわかに赤く染まり始めた。
夕暮れでも、朝焼けでもない、濃く重たい朱色が、じわじわと空を染めていく。
空気が変わっている。陽菜ははっきりとそれを感じていた。
温度でも、匂いでも、説明のできない何かが、確実に変わっていた。
そしてその変化は、階段を登るごとに、少しずつ、でも着実に、現実という足場を遠ざけていく。
「陽菜、やっぱり戻っておいでよ……」
エレナの声がした。けれどなぜか、それが遠ざかっていく。
そして、十三段目に足をかけた瞬間世界が、しん……と静まりかえった。
気がつくと、陽菜は知らない街の中に立っていた。
夕焼け色のような空は、まるで時を止めたように動かず、風もなく、人もいない。
車の音も、鳥のさえずりも、何ひとつ聞こえない世界。
「エレナ……?」
小さく呼んでも、返事はない。辺りを見渡しても、エレナの姿がなかった。
「まさか……ウチだけ、どっかに来てしまったの?」
陽菜は周囲を見渡す。そこは見覚えのあるようで、どこか違う街並みだった。
学校の制服を着たままの自分が、異空間にひとり──それだけで、足元が震える。
そして、ふと視界の端に気配を感じた。
「……ねえ、君。見えるの?」
夕暮れ色の空の下、ひとりの少年が立っていた。中学生くらい。
制服は古いデザインで、胸元に見たことのない校章が縫い付けられている。
「誰……?」
「ここには、僕と君しかいないんだ。もう、ずっとそうなんだよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。静かで、寂しげで、怖いほど澄んでいた。
「君、どうしてここに?」
少年が質問した。
「……階段を登ったんだよ。気がついたら、ここにいた」
陽菜が答えると、少年は小さく首をかしげた。
そして、ふっと微笑んだ。
「そうか……じゃあ、たぶん君も“忘れられた”んだね」
「忘れられた?」
陽菜が聞き返す。
「この世界は、忘れられた記憶の断片が集まってる場所。街も、景色も、名前も……全部、誰かの記憶にもうないものばかり」
少年がそう言うと、陽菜は思わずまわりを見渡した。
そこには、学校の旧校舎のような建物や、かつて通っていた幼稚園の遊具によく似たものもあった。
「ここに来るのは、“思ってもらえなかった何か”を抱えた人だけ。そういう人しか、あの階段を見つけられないんだよ」
少年は静かに語る。そして、ぽつりと呟いた。
「でも、長くいると……帰れなくなる」
その瞬間、遠くから風が吹いた。
音のない世界に、ひと筋の風。そして、風とともに、夕焼けに照らされて金色に輝く美しい翅が駆け抜ける。
「……陽菜!」
その声は、まぎれもなくエレナだった。風と一緒に舞い降りた彼女は、必死の形相で陽菜の手を掴む。
「早く、戻るよ! ここに長くいたら……!」
「でも、この子は……」
陽菜が少年を振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
いや、そこに“誰かがいた”記憶すら、あいまいになっていく。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
──気がつくと、陽菜は階段のふもとに立っていた。エレナが肩に戻り、心配そうにこちらを見ている。
「……夢、だったのかな」
陽菜は静かに空を見上げる。赤みの残る空に、ほんの一筋だけ風が吹いたような気がした。
「ねぇ、結局あれはなんだったんだろ?」
陽菜がエレナに問いかける。
「あれは、想願空虚」
エレナが言う。
「そうがんくうきょ?」
陽菜が眉をひそめる。
「死者の想いと、生者の想いが交差する地点……この世界でいう“煉獄”とも呼ばれてる場所」
その言葉に、陽菜は少しだけ思い当たる節があった。
「たしか、魂を浄化する場所……だっけ?」
陽菜の回答にエレナは頷く。
「うん。そう言われてるけど、実際には生きていた頃の想いが、浄化されずに残っている場所」
「あたしと陽菜の”想い”の力が強すぎて偶然つながったんだと思う……でもね、長く留まってしまうと取り込まれてしまうの」
エレナは静かに答えた。
「んー、つまりさっきの子は、自分が生きてたことを誰にも知られなかったっていう……未練?」
陽菜が考えるように言うと、
「陽菜、あたまいいね~」
エレナがからかうように笑った。
「あんた、それ絶対バカにしてるっしょ?」
「でもね、たぶん陽菜が知ってくれたことで、その想いは通じた。だから、もう浄化できたと思うよ」
エレナの言葉に、陽菜は少しだけ目を伏せた。
「だと、いいんだけどね……」
そう言いながら、夕暮れに染まる公園内を、ふたりはゆっくりと歩いた。
公園を出ようとしたそのとき、ふたりは、まるで示し合わせたかのように、同時に後ろを振り返った。
──さっきまで、あの不思議な階段があったはずの場所には、もう階段はなかった。
あるのは、ただ苔むした公衆トイレが、赤く伸びる夕暮れの影に包まれているだけだった。
「……ひょっとしたら、やっぱり陽菜に迷惑かけてるのかな。本当ならさ、あんな世界は見えるはずないもの……」
エレナがぽつりと呟いた。
「わたしと一緒にいることで、だんだん……変な力がついてきてるのかもしれない」
それは、以前、図書室の怪異を解決したときにも交わした会話。
エレナはふと、そのときのやりとりを思い出し、不安が胸をかすめた。
だが、陽菜の答えは、思いがけないものだった。
「だとしたら、すげーおもしれーじゃん!!」
驚いて目を見張るエレナをよそに、陽菜は楽しそうに笑う。
「ウチら、二人で最強のチート能力身に着けたようなもんじゃん!」
それは、紛れもない陽菜の本音だった。
エレナの心に、じんわりと安堵が広がる。
けれど同時に、なぜか焦りのようなものまで湧き上がってきた。
「いや……陽菜、それちょっとポジティブすぎない?」
むしろ、エレナのほうが動揺していた。
「よーし、とりあえずさ、全国の学校の怪談、片っ端から解決してやろーぜ!!」
陽菜は大笑いしながら、夕暮れの道を勢いよく歩いていく。
その背中を見つめながら、エレナはそっと胸に手をあてた。
──だいじょうぶ。
この絆は、そんな簡単に揺らぐものじゃない。
それは、ふたりが何より強く証明した、小さな真実だった──。




