第2話:公園のベンチ
ポケットの中でスマホが震え、陽菜は立ち止まって画面を開いた。
< 高1なんだし、まだ気にしなくていいわよ。むしろ、男子に疑われるよ >
そこに表示された沙耶からの返信に、思わず口元がほころんだ。
絵文字も混じった返答。それは、いつぞやの時に気になった、少し恥ずかしい質問への答えだった。
「……ほら、見てみ」
メールをそのままエレナに突きつけた陽菜は、めずらしくふんっと鼻を鳴らす。
「え~? そういうもんなの~? 男女のことってまだよくわかんないなぁ~」
エレナは首をかしげ、楽しげに笑う。
陽菜とエレナは学校帰り、ゆったりとした足取りで自宅へ向かっていた。
とはいえ、普段はこの道はあまり歩かない。
それなのに、なぜか今日は二人ともこの道を選んで歩きたがっていた。
さっきまで西日に照らされて明るさを残していた空が、気づけばいつの間にか、厚い雲が空全体を覆い、道に長い影を落とし始めていた。
「なんだか急に暗くなったね」
エレナがぽつりと呟くと、間もなくぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
「わっ、やばっ!」
陽菜の声に呼応するように、雨はみるみる激しさを増し、エレナは走り出した。
「こっち! あそこ、公園の屋根のあるところ!」
エレナの声に頷き、陽菜も急いでその場所へ駆け込む。
屋根の下にあるベンチに腰を下ろすと、雨音が屋根を打ちつける音が辺りに響き渡り、冷たい風が頬を撫でる。
「大丈夫かい?」
隣の木陰のベンチには、初老の男性が静かに腰掛けていた。
灰色の傘を脇にたたみ、少し猫背でこちらを見ている。
その目と視線が合った瞬間、陽菜とエレナの胸にふわりと何かが揺れた。
──この人は、“想い”だけでできた存在なのだと。
「これでも飲んで、一息つきなさい」
男性はそう言って、持っていたコンビニ袋から温かそうな缶コーヒーを一つ取り出し、陽菜に差し出した。
手に取ると、ひんやりと冷えた指先に缶の温もりがじんわりと伝わってくる。
「ありがとうございます」
陽菜が礼を言うと、男性は小さく頷いた。
「ここは昔から、わしの居場所だったんじゃ。娘とよく来た場所なんだよ」
その声は穏やかで優しいが、どこか遠い過去を見つめているような、切なげな響きを帯びていた。
缶を開けると、甘い香りが広がる。
エレナがぽつりと訊ねる。
「いつもここにいるの?」
男性は少し笑みを浮かべて答えた。
「そうだなあ……」
しかし、その笑顔の奥には、わずかな寂しさが潜んでいた。
──これだ。胸に触れてきた感覚の正体は、たぶん“伝えられなかった言葉”。
「……ひょっとして、娘さんと何か話せなかったことがあるんですか?」
思わず口にしたその言葉に、男性は驚いたように陽菜を見つめる。
そして、微笑みながらぽつりと言った。
「お嬢ちゃん、勘がいいな」
「最期の日にな、急に容体が悪くなって、言えんかったんだ。“幸せでいてほしい”って、それだけなのに」
その声には深い悔いが滲んでいた。
そんな時、雨脚が少し弱まり、男性は傘を手に立ち上がった。
「じゃあ、わしは行くよ」
背を向けかけたそのとき、私は咄嗟に声を上げた。
「待ってください!その想い、娘さんにお伝えします」
男性は足を止めて振り返る。
驚きと、そしてどこか希望の光が入り混じった表情だった。
「……できるのかい?」
陽菜は力強く答えた。
「はい。私たちがここにいることを知っていて、声をかけてくれたんですよね?」
その言葉に、エレナは自信満々に腰に手を当て、ふんっと鼻を鳴らした。
陽菜が続ける。
「缶コーヒーもいただきましたし」
男性は優しく微笑み返し、穏やかな声で言った。
「ありがとう。あの家族が教えてくれた通りじゃ……」
二人は顔を見合わせ、不思議そうに尋ねた。
「あの家族、ですか?」
男性は答えず、ただ優しく微笑むばかりだった。
陽菜はその疑問を胸にしまい込み、改めて尋ねた。
「娘さんの名前や住所、わかりますか?」
男性は胸ポケットから小さな封筒を取り出す。
封筒の中の便箋には、几帳面な文字でこう綴られていた。
<いつも見守っている。幸せでいてほしい。>
「これを、頼む」
そう言って封筒を差し出すと、続けて言葉を添えた。
「お嬢さん、妖精さん、どうかよろしくお願いいたします」
そう告げると、男性の姿はふっと淡く薄れ、やがて雨の帳に溶けていった。
エレナが言う。
「呼ばれたのかな? わたしたちの力が必要だったんだね」
陽菜は小さく頷き、手の中の封筒をそっとバッグにしまった。
「たぶんね……」
「缶コーヒーも貰っちまったし、こりゃ届けるしかないっしょ」
雨がやみかけた空を見上げると、薄く太陽の光が差し込んでいた。
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翌日、陽菜とエレナは約束の住所へと向かった。
静かな住宅街の一角、小さな庭が彩る二階建ての一戸建てがそこにあった。
インターホンを押すと、しばらくしてドアが静かに開いた。
現れたのは三十代前半と思われる女性で、柔らかな目元にはどこか故人に似た面影があった。
彼女の視線は、陽菜が差し出す封筒に注がれる。
「突然すみません。こちらはお父さんからお預かりした手紙です」
女性は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
しかし、手紙の筆跡に気づくと、その瞳に一筋の涙が光った。
「父の言葉を、こうして改めて受け取るのは初めてです」
彼女は震える手で封筒を開き、ゆっくりと文字を追った。
その言葉は胸の奥に深く染み渡り、思わず肩が震えた。
「ありがとう……本当にありがとう」
繰り返し呟きながら、涙があふれ出す。
陽菜はそっと彼女の手を握り、その温もりを感じ取った。
やがて女性は陽菜とエレナを家の中へと招き入れ、仏壇の前へと導いた。
もちろん、女性にはエレナの姿は見えていなかった。
陽菜は線香を一本取り出し、慎重に火を灯すと、立ち昇る白い煙が静かに空間を満たし、穏やかな空気が漂った。
女性はふと陽菜に問いかけた。
「これを、どうやって?」
陽菜は少し言葉を選びながら答えた。
「信じてもらえないかもしれませんが、私は見えないものが見えるんです」
「公園で偶然、お会いしました」
女性は驚きの色を隠せず、声を上げた。
「公園?」
陽菜は静かに頷きながら説明した。
「この先の角にある、屋根のついたベンチがある公園です」
「娘さんとよく一緒にいらしていたと聞いています」
女性の瞳に再び涙が浮かび、声を震わせて言った。
「そうでしたか……ありがとうございます」
深く礼をしながら、彼女は二人に感謝を伝える。
涙をこぼしながらも微笑み、ぽつりと呟いた。
「私も伝えられなかった想いがありました。今日、やっとその一歩が踏み出せた気がします」
静かな沈黙が流れたあと、陽菜が穏やかに言葉を紡いだ。
「想いは、形を変えても、必ず繋がっているんです」
窓の外からは、風に揺れる庭の葉音が静かに聞こえていた。
女性の家をあとにし、陽菜とエレナは帰り道を歩き始める。
ふと、エレナが口を開いた。
「今回のお手紙は無事に届けられてよかったね」
陽菜は笑顔で答えた。
「だね!想いが届いてミッション完了だな!!」
エレナはクスクス笑ってからかうように言う。
「でも、陽菜は蓮のこともちゃんと解決しなきゃだよ~」
陽菜は思わずツッコミを入れた。
「なにを解決すんだよ?ウチは仲いいぞ!?」
エレナは後ろに手を組み、軽く前かがみになって微笑んだ。
「んーん。なんでもなーーい」
そんな二人のやりとりが、静かな街に柔らかく響いていた──。




