第33話:海を見つめる女性②
「こんにちは」
その女性は、三人に向かってにこやかに挨拶した。
薄いピンクのワンピースに麦わら帽子。赤い瞳に、長く美しい黒髪を風に揺らし、どこか大人びた魅力をまとう女性だ。
その穏やかな声に、エレナが屈託のない笑顔で応じる。
「こんにちはー」
「こんにちはー!」
蓮も、陽菜も、続いて軽く頭を下げた。
どこか不思議な気配はあるものの、敵意のようなものはまるで感じられない。
むしろ、ほんのりと温かくて、懐かしいような空気すら漂っていた。
「かわいい妖精さんね」
「でしょ!」
女性がそう言うと、エレナは嬉しそうに腰に手を当て、ふんっと鼻を鳴らした。
代わりに陽菜が、一歩前に出て尋ねる。
「……見えるんですね。エレナのことが」
女性は静かに頷いた。
「エレナちゃんっていうのね。うん。私はもう、“想い”だけの……妖の存在だから」
その言葉に、三人は一瞬だけ黙った。
彼女は、自分のことをよく理解している──そんな風に見えた。
やがて、エレナが小さく首をかしげながら尋ねる。
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
女性は少しだけ空を見上げ、微笑む。
「……私、どうやら病気だったみたい。でもね、この場所、とても居心地がよくて……好きなの」
風がそっと彼女の髪を揺らし、淡い陽射しがワンピースのすそを照らす。
「波の音も、人の声も、風の匂いも……全部、生きていたときと同じように感じられるの」
そう言うと、女性はスカートの裾を軽くつまみ、くるりと一回転した。
ワンピースがひらりと舞い、素足が濡れた砂に柔らかく足跡を残していく。
ふと、女性は思い出したように言った。
「……あ、わたし、美佳っていうの。苗字はもう……思い出せないの」
それを聞いて、陽菜、蓮、エレナもそれぞれ自己紹介をした。
そのまま、美佳は陽菜たち三人と並んで歩き出し、やがて一行は海辺にある整備されたコンクリートの見晴らし台へとたどり着いた。
そこは、屋根付きのベンチが静かに佇み、潮風が吹き抜けるその場所は、海を一望できる絶好の休憩所だった。
「だから、ここにいるの。でも、今日みたいに、ちゃんと話せる人に会えるのは、すごく珍しいのよ」
「たいていの人には……もう、私たちの“存在”って届かないから」
その言葉に、蓮が穏やかに応じた。
「うまく言えないけど、俺と陽菜とエレナには、美佳さんの“想い”が見えてる。だから、触れられるんです」
そう言うと、三人はそっと手を伸ばして美佳に触れた。
美佳もまた、自分の“想い”を、そっと三人に見せてくれた。
──真っ白な空間。それは、彼女の心の中。
そこには、病室のベッドに横たわる美佳の姿。
抗がん剤の影響で髪は抜け、痩せ細っていた。
ベッドのそばに立つ老夫婦──おそらく両親なのだろう。
そして次の場面では、ICUの映像に切り替わる。
美佳は意識を失い、酸素マスクをつけて昏睡状態だった。
両親が静かに見守っている。そこへ、ひとりの男性が現れる。たぶん、婚約者だ。
彼がそっと美佳の手を握ると、不思議なことに、美佳の手もかすかに彼に触れた。
そして、最後の場面。
医師が静かに首を横に振る。
両親は呆然とし、婚約者はその場に崩れ落ちるように泣いていた。
画面が真っ白に染まり、現実へと戻る。
陽菜はそっと声をかけた。
「……大変でしたね。おつかれさま」
そう言って、美佳に抱きついた。でも、彼女の想いには恨みも、怒りも、悲しみもなかった。
陽菜も、悲しみではなく、笑顔で応えた。
美佳も優しく陽菜とエレナを抱きしめながら、微笑む。
「ふたりとも、やさしいね……ありがとう」
そして、美佳は蓮にも向き合った。
「あなたの、想いも見えたわ。ご両親亡くして、大変だったでしょう?」
そう言って、蓮をぎゅっと抱きしめる。
蓮は驚きながらも、その温もりに、どこかほっとしたような顔を見せた。
「いやっ! 美佳さん! 蓮は、蓮は大丈夫なんですっ!!」
少し焦った声。
それは、蓮が他の女性に抱かれるのを見たくないという、ちょっとした嫉妬心からだった。
「あらら……陽菜ちゃん、ごめんなさいね」
美佳はそれを察して、静かに謝った。
そのやり取りを見て、エレナは口元を手で隠してクスクス笑う。
それにつられて、美佳も蓮も笑い出す。
陽菜だけが頬を膨らませて、ふてくされたようにそっぽを向いていた。
──そのとき、見晴らし台から見える堤防の先端で、ひとりの釣り人が魚を釣り上げた。
美佳が目を輝かせる。
「あ、すごいわね。墨を吐いてる……たぶん、アオリイカね」
「この時期のイカって、珍しいらしいのよ」
釣り上げた人物の周囲には人だかりができ、歓声が上がっていた。
それは、釣った本人だけでなく、周囲の釣り人たちも同じように喜び合っている光景だった。
美佳はその様子を見ながら、ぽつりと言った。
「この場所ね、恋人もくるし、釣り人もくる。いろんな人の、喜怒哀楽が交差するの」
「……だから、ここが好きなの」
そして、少し照れたように微笑みながら、付け加えた。
「ちょうど、ふたりみたいなお似合いのカップルもね」
それを聞いた陽菜と蓮は、ぱっと顔を赤らめた。
そこに、エレナが茶々を入れる。
「美佳さん、昔はね、ふたりとも“恋人じゃねーし”って全力で否定してたんだよ」
「でもね、最近はそれすら言わなくなったの~」
そう言って、口元に手をあててクスクス笑うエレナ。
「うっさい! バカ妖精!!」
陽菜がむきになって怒り、エレナにげんこつグリグリをしようとする。
その様子を見て、美佳はまた、やさしく微笑んだ。
そんな彼女に、陽菜が静かに口を開いた。
「美佳さん。私とエレナは“想い”を届けることができるんです。ここは美佳さんにとって”煉獄”、送り届けることもできます」
けれど、美佳は首を横に振り、穏やかに否定した。
「ありがとう。でもね、私は……まだ、ここに居たいの。いろんな人に、出会って、触れたいのよ」
その言葉に、陽菜は目を伏せ、そっと頷いた。
──ふと見ると、美佳の“五色”がやわらかく、赤く輝いていた。
それは、”勇気”と”心の平穏”を意味する色。彩華の父がそう教えてくれたことを、陽菜は思い出す。
陽菜の心に、ほっとしたような安堵が広がる。エレナもまた、陽菜と目を合わせて、安心したように微笑んだ。
全ての“想い”が、悲しみや恨みでできているわけではない。ここにとどまることを、誰かを呪うためではなく、何かを見守り、寄り添うために選ぶ想いもある。
三人は、そのことを、初めて実感として理解した。
──そのとき、防災無線のチャイムが鳴り響いた。
夕方を告げる、町の定時チャイムだ。
蓮がぽつりと呟く。
「……そろそろ、行かないと」
その声は、どこか寂しげだった。
陽菜も短く、静かに応える。
「……うん」
その一言に、同じ寂しさがにじんでいた。
しばしの沈黙のあと、蓮が美佳の方を向いて、丁寧に頭を下げる。
「美佳さん、ありがとうございました。うまく言えないけど……なんか、勇気をもらった気がします」
口ベタながらも、そこには真っ直ぐな想いがこもっていた。
美佳はやわらかく微笑み、優しい声で応える。
「元気でね。……そして、陽菜ちゃんのこと、ちゃんと守ってあげてね」
「蓮くんには、強い愛情と、愛する人を守り抜く意志がある。きっと、大丈夫よ」
蓮は少し照れくさそうに、それでも力強く返事した。
「……はい」
すると、陽菜が腕を組みながら、得意げに笑った。
「うんうん! こんなかわいくて優しくて、守りがいがあるのはウチだけだぞ!幸せ者だなー、蓮!!」
すかさず蓮がツッコミを入れる。
「おまえ、あとで説教な!!」
そのやり取りに、美佳とエレナはくすくすと笑い、楽しげに肩を揺らす。
潮風に混じって、やさしい笑い声が見晴らし台に響いた──。




