第32話:海を見つめる女性①
佐藤家は家族そろって旅行に来ていた。
といっても、行き先は千葉の海。たった一泊二日の小旅行だ。いわゆる“思い出づくり”というやつで、夏のシーズン真っ只中。
海水浴客はかなり多く、カップルに友達グループ、家族連れと、さまざまな人たちが砂浜に集まっていた。
陽菜は、もちろん最初は断るつもりでいた。
この年齢で家族旅行なんて、ちょっと気恥ずかしい──そんな気持ちがあったからだ。
だが、悠真はまだ小学生であり、家族旅行が好きなのと、なにより、エレナが行きたくて仕方なかったのだ。
むしろ、家族が不在なら、蓮と二人っきり、なんて妄想も、陽菜の中には確かにあった。
けれど、蓮は部活の合宿。連絡も取れるかどうか怪しいらしい。
じゃあ、梨紗や香澄を誘ってみるか……と考えたが、あいにく二人とも夏期講習で潰れていた。
”別の日なら全然いけたのに!”という返事はもらっていたが、予定を詰める気力もなく、”まあいいや”で済ませたのが陽菜らしさだった。
要するに、誰も遊んでくれず、暇だったのだ。
「……くっそ暑いし、砂まみれだし……何が“海水浴”だよ……」
「日焼けしたくねーし、この暑さ……デスるわ……」
小さなパラソルの下で、首元に携帯扇風機を当てながら、陽菜はうんざりした顔で呟いた。
麦茶のペットボトルがぬるくなっていく。
足元では、エレナがバスタオルの上に座って、大量の貝殻を前に選別作業中だ。
「これが陽菜っぽい……これはちょっと違う……あ、でもこっちは可愛い……!」
何をしているのか聞く気にもならないが、本人はご機嫌なようだった。
「エレナは楽しそうだね……」
ぼそりとこぼした陽菜の声に、エレナはぱっと顔を上げる。
「だって!陽菜と来れたもん!それにね、海、すっごく広いし、風もいい匂い!」
満面の笑みでそう言ったエレナに、陽菜はふっと笑う。
「昔は……お父ちゃんとお母さんと来るのが夢だったんでしょ?」
エレナはこくこくと大きく頷いた。
「うんうん。そうだよ~」
それは、康太と結衣がまだ高校生だった頃に交わした、ささやかな約束だった。
けれど当時、エレナの夢は叶わなかった。
でも、ふたりが結婚して、陽菜が生まれたことでその夢は、ようやく叶えられたのだ。
それ以来、夏の家族旅行といえば海。毎年恒例の行事になった。
無邪気に笑うエレナを見て、陽菜の頬も自然とゆるむ。
(ま、エレナが喜んでるなら、それでいいか)
エレナは妖精であるが、今日は水着姿になっていた。水色のビキニには、ひらひらのフリルがついていて、どこか子どもっぽくもあるが、それが逆に似合っている。
(……もし“獣人化”してたら、ナンパの嵐で地獄絵図だったな)
陽菜は、エレナの水着姿を見ながらそう感じていた。なにせ、エレナは人間になると、食い意地以外の容姿は完璧だ。
そんな陽菜も、今日は花柄のビキニ姿だった。
ただし、下はデニム柄のショートパンツを履いて隠している。水着だけの姿は、どうしても恥ずかしくて無理だ。
「エレナねえちゃーん!」
そう呼んでいるのは、悠真だった。
エレナは気づいて手を振ると、そのまま悠真のもとへ向かっていく。向こうでは母の結衣と一緒に砂で山を作って遊んでいるようだ。
そんな様子を眺めていると、父・康太が買い出しから戻ってきた。時刻はちょうど昼どき。陽菜の今日の昼食は、恒例のスーパーのかつ丼弁当だ。
「うひょー、かちゅどん~!」
陽菜が歓声を上げる。頼んでおいたスーパーのかつ丼弁当は、彼女にとって外せない“鉄板”のメニューだ。
サクサクの衣に、甘じょっぱいタレが絡んだあの味……これを食べなきゃ夏は始まらない。
それに、このスーパーで売っている店内調理のドーナツもまたお気に入り。ほんのり揚げたてで、揚げパンっぽくて美味しい。
悠真と康太が手にしているのは、例のチャーシュー弁当。こちらも、ふたりにとっては”海水浴気分”を盛り上げる毎年のお楽しみである。
昼食は、みんなそろって食べた。
結衣は特にこだわりなく、あれこれつまみながらのんびり食べている。
一方で悠真はというと、早く遊びたくてたまらない様子で、ささっと弁当を片付けると、浮き輪を抱えて砂浜へと走っていった。
「おいおい、あぶねーぞ」
康太が苦笑しながら追いかけるように悠真のあとを追っていく。
そのとき、陽菜のバッグ越しにスマホがブルッと震えた。
バッグに手を伸ばして覗いてみると、蓮からのメッセージが届いていた。
<すまん。部活でいまさっき気づいた。今から行く>
「ちょ、今こっち、自宅じゃねーし……」
陽菜はぶつぶつと文句を言いながら、慌てて返信する。
<え、まって、今旅行中だけど>
するとすぐに返事が返ってきた。
<知ってる。近いから寄るだけだ。いえい>
「……なに、それ」
陽菜はつい口元が緩むのを止められなかった。
その様子に、すぐ隣の結衣が気づく。
「陽菜、どうしたの?」
「ん? あ、いや、なんでもこないなんっす!!」
明らかに焦ってスマホを背中に隠す陽菜。
結衣はジト目でじーっと陽菜を見る。
そんな陽菜の画面をチラッと見ていたエレナが、結衣の耳元にひそひそと囁いた。
「あれまー。蓮くん、会いに来るんだって~」
「へぇ~♪」
結衣はニヤニヤしながら陽菜を見つめる。
「ちげーよ! ちょっと宿題のノートもらってくるだけだし!」
もはや自分でも何言ってるかわかってない陽菜の言葉に、結衣はすかさず突っ込む。
「いやいや、このタイミングで宿題~? 蓮くん、学年違うのに~?」
「うるせーっ!」
陽菜は真っ赤な顔でエレナをジト目で睨みつける。
「この、バカ妖精がっ!」
エレナは舌を出して、ひらひらと陽菜をからかうように微笑んだ。
海水浴をひとしきり楽しんだあと、陽菜たちは旅館に戻った。
夕食まで少し時間があるので、陽菜とエレナは駅まで蓮を迎えに行く。
改札前で待っていると、駅舎から蓮が姿を現した。
「おっす」
「……おう! 来ちまった」
ちょっと照れながらそう言った蓮に、陽菜が言う。
「なんで来たのさ?」
「なんでって……きちゃだめかよ」
照れたように返す蓮の言葉に、陽菜の顔がまた赤くなる。
エレナはそれを見てニヤニヤしていた。
そんな姿をみた蓮はエレナにも言った。
「エレナも、おっす」
「うんうん、おっす~」
エレナは手を後ろに組んで、満面の笑みを浮かべていた。
三人で並んで歩きながら、やがて波打ち際までやってきた。
夕日に照らされた海は、ゆっくりと揺れながら金色に輝いている。
遠くではパラソルをたたむ人たち、堤防では、釣り人たちがじっと海を見つめていた。
そんななか、エレナが蓮に話をした。
「陽菜ね、蓮が来るって聞いてから、ず~~っとニヤニヤしてたんだよ」
蓮がエレナの言葉に応える。
「え? マジ、やべーヤツ系じゃん」
「おいっ! ウチが海に沈めっぞ!? んあぁ!?」
陽菜は顔を真っ赤にして、エレナと蓮の肩を順番にどつく。
エレナはひらりと身をかわしたが、蓮はまともに受けて、波打ち際でよろけた。
「ちょ、やめろって! 着替えねーんだからマジで!」
蓮の言葉に陽菜は、にやりと笑う。
「へぇ~、じゃあ、おパンツまでビショビショにして帰るのか~? 想像しただけでウケるんですけど~」
陽菜が悪い顔でにやっと笑うと、蓮は呆れ顔になった。
「性格わっっる。マジでお前、最低だな!」
陽菜は少しムッとした顔で応える。
「ざけんな! 神性格・神スタイルのウチに相手してもらってんだ。感謝しろっつーの!」
「うんうん。これは、陽菜を選んだ蓮が悪いね~、蓮、責任とらないとだねぇ~」
エレナの無邪気なひと言に、陽菜と蓮、ふたり同時に真っ赤になった。
その瞬間──
「わっ!」
陽菜が足元の小石に引っかかり、バランスを崩した。
ドテッ。
「いててて……」
幸い、羽織ってきたTシャツの下は水着だし、ショートパンツの下にも水着を着ているので、濡れても大きな問題はない。
とはいえ、波をもろにかぶったせいで、ほとんど全身が海水に浸かったような状態だ。
せめて、バッグとスマホが無事だったのが救いだった。
蓮がすぐに手を差し出す。
「おい、大丈夫か?」
「サンキュッ!」
陽菜は手を取って立ち上がり、尻をはたきながらぼやく。
「マジありえん……」
その瞬間──
「ぎゃはははは!!」
蓮が腹を抱えて爆笑し始める。
「なにそれ! 因果応報じゃねーか! おいっ、やったぜ!!」
エレナもゲラゲラ笑っている。
「てんめーーら!! この美人のウチを笑いものにするとは、いい根性じゃねーか!!」
そう叫びながら、ふたりに向かってグーの拳を突き出して睨みつける陽菜。
だが蓮は、なぜかその姿に不意打ちを食らったようにドキリとした。
水着の上に羽織ったTシャツはすでにびしょ濡れで、ところどころ肌が透けて見える。
特に、細くくびれた腰のラインに、思わず目を奪われた。
「マジ最悪わだ~……」
そうぼやきながら、陽菜はTシャツの腰のあたりをぎゅっと握って、水を絞りはじめる。
その何気ない仕草と、濡れた髪で蓮を見上げるつぶらな瞳がまたしても、グっとくる。
「なーに、見てるんだよっ」
「そんなに、楽しいんかコルァァァ!!」
そのときだった。
陽菜の背後から、くすくすと笑う声が聞こえた。
エレナと蓮が先に気づき、陽菜も振り向いて、そこで目を見張る。
「たぶん……生きてる人じゃない……よな? エレナ?」
蓮が、ぽつりと呟く。
「うん……たぶんそう……」
エレナも真顔で頷いた。
「蓮にも、見えるんだね……」
陽菜が呟いたその視線の先に、ひとりの女性が立っていた。
手を後ろに組み、どこか楽しげな表情を浮かべながら、三人のほうを見て手招きしていた──。




