第23話:エレナの危機……そして②
彩華は、公園の地面に仰向けに倒れていた。意識はない。
その姿を見つめながら、陽菜は絞り出すように言った。
「……嫌だ」
それはただの拒絶ではなかった。
エレナをあんな目に遭わせた……その一点だけで、許せないという“決意”の表れだった。
蓮が口を開く。
「どうしたんだよ……なんで、助けようとしないんだ?」
陽菜は振り返り、怒気を含んだ声で言った。
「そもそもコイツ、誰なんだよ! なんでウチらのこと知ってるんだよ!? ……蓮、あんたとどういう関係なんだよ!!」
蓮は一瞬言葉を詰まらせたが、しっかり答えた。
「彩華は……俺の友だちなんだ。家が、代々こういう術を扱ってる家系みたいだから……」
「だから相談したんだ。妖精や想いのこと……理解できるかもって思って……。ごめん……余計なこと、したかもしれない」
陽菜はその言葉に一切同情を見せなかった。
「……そう。でも、だからって嫌なもんは嫌だ!」
「エレナはウチの家族だよ。大切な家族を、こんな目に合わせたヤツを、どうして助けなきゃいけないの!?」
蓮が食い下がる。
「でも……エレナは無事だったじゃないか!」
だが陽菜は即座に叫ぶ。
「”無事ならいい”って問題じゃねーんだよ!!」
「手ぇ出された。それだけで十分なんだよ!」
陽菜の言葉に、蓮の拳が震えた。
「陽菜……」
反論したかった。でも、どう言えばいいのかわからなかった。
すると、陽菜がさらに言葉を重ねる。
「それでいいの!? お父さんとお母さんが亡くなったときも、それで納得できたの!?」
「エレナは、ウチにとって……大切なんだよ!」
その目に、怒りと涙が入り混じる。
「鬼退治がしたいなら、コイツと勝手にやってろよ! セックスでもなんでも好きにすりゃいいだろ!!」
「一生、好きなだけヤリまくってろ!!」
陽菜はさらに言った。
「こんなヤツ、もっと苦しんでくたばればいいんだ。そうなんだ!」
「デスる前にぶっ潰す! そうでしょ……」
蓮の表情が凍った。
唇をかみ、そして次の瞬間、陽菜の頬に音が響いた。
ビンタだった。
陽菜の目が見開かれた。驚きと戸惑いと一瞬の静寂。
沙耶とエレナも、目を見張った。
陽菜は頬に手を添えながら、声を上げた。
「……なにすんだよ!!」
その蓮は、顔を伏せたまま、ビンタした手をもう片方の手で押さえていた。
その姿を見た瞬間、陽菜はすべてを理解した。
痛かったのは、叩かれたことじゃない、自分が言った言葉が、蓮を深く傷つけたことだった。
蓮が、両親を亡くしたときのこと。命の重さを、子どもの頃から知っていたこと。
今までどれだけ、そうした苦しみの中で生きてきたのか。
陽菜の瞳から、涙がこぼれ落ちた。憎しみじゃない。誰かへの怒りでもない……自分自身への情けなさ。
蓮に甘えてばかりだった自分。醜い嫉妬心。狭い心。どれだけ、ひどいことを口にしていたか。
ぽたぽたと、大粒の涙が止まらない。そのとき、鼻の奥から血が一筋、流れ出した。
涙と混じった鼻血が服に染み込み、自分の胸元を赤く濡らしていく。
それが、自分の醜さの証のように思えた。
その様子を見たエレナの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……陽菜」
名前を呼ぶその声は、静かで、どこまでも優しい。
陽菜は肩を震わせながら、声にならない声で泣き続けた。
でも──それでも。
心の奥で、消えない感情があった。
エレナを傷つけたことだけは、どうしても許せない──
狭くていい。子どもっぽくていい。嫌われたって構わない。それでも、その想いだけは、変えられなかった。
陽菜はしゃがみ込んだまま、ぼろぼろと涙をこぼす。嗚咽がとまらない。
やがて、ふとこぼれたのは、かすれた声だった。
「うう……なんで、コイツには手を出さなくて、ウチは叩くの……?」
「そんなにウチが、嫌い……?」
それは、学食での出来事だった。蓮は彩華には手を出さなかった。
でも、それは違う。蓮は”彩華に手を出さなかった”のではなく、”彩華に手を出させないようにした”のだった。
頭ではわかってる。でももう、自分でも気持ちが抑えられない。心の奥から、わけのわからない怒りと痛みがあふれ続けていた。
言葉が勝手に出てくる。陽菜の心はもう、ぐちゃぐちゃだった。
涙がとめどなくあふれて、胸の奥が壊れそうに痛かった。
そんななか、エレナが、そっと陽菜の顔に寄り添ってきた。
小さな手で陽菜の頬に触れ、涙をこぼしながら言う。
「陽菜、ありがとう。本当はね、いっぱい抱きしめてあげたい。でも……小さい今のわたしは、これくらいしかできない……」
その声は震えていた。けれど、はっきりと、まっすぐに届いてくる。
「でもね、陽菜。わたしは、いつだって陽菜の味方だよ」
沙耶もそっと陽菜に寄り添ってきた。静かに、けれど強く抱きしめてくる。
陽菜の鼻血が沙耶の服に染みていくのも構わず、沙耶はそのまま陽菜を包み込んだ。
陽菜はほんのりと温かいぬくもりを感じていた。
やがて沙耶が、そっと囁くように言った。
「陽菜ちゃん……落ち着いて聞いて。いまは、陽菜ちゃんにできることをやろう? エレナちゃんと、いっしょに」
その言葉に、エレナも小さく頷いた。
「陽菜。……いっしょに助けよう。きっとそれが、いい結果につながると思う」
エレナのまっすぐな目。沙耶の包み込むような声。
陽菜の中で、少しずつだが、感情の整理がつき始めてきた。
もう、ぐちゃぐちゃだった心が、やっと“前に進む”ほうへ傾きはじめた。
沙耶は陽菜の顔をじっと見つめると、涙と鼻血でぐしゃぐしゃになった頬を、そっと手でぬぐってやる。
「……よし、綺麗になった」
エレナも、小さな手で懸命に陽菜の涙をぬぐう。
「あらあら……これ以上泣いたら、可愛い顔が台無しよ?」
くすっ、と沙耶が笑った。
その軽やかな言葉に、陽菜の口元にもようやく、かすかな笑みが戻った。
それを見て蓮も、ほっとしたように小さく息をついた。
けれど、胸の奥にはどうしようもない痛みが残っていた。
(……俺は、結局、何もできなかった)
手を上げることしかできなかった。陽菜の涙すら、ぬぐってやれなかった。
理屈で動いて、自分の正しさを押しつけた先にあったのは、陽菜を傷つけただけだった。
陽菜は陽菜なりに、思い悩んでいたのだ。迷って、苦しんで、それでも必死に何かを守ろうとしていた。
そんな陽菜の心に、触れようとしなかった。気づこうとしなかった。
──いや、気づけなかった。
自分の無力さが、今さらのように突き刺さってくる。それが、静かに、ずっと心に残り続けていた──。




