第18話:妖精が見える女性①
暑い朝だった。
夏休みに入ってからというもの、陽菜の毎日は、いよいよ暇になった。
だけどそれは、彼女にとっては“貴重な暇”だった。自由で、静かで、エレナが隣にいる。それだけで、もう十分だった。
……足りないものがあるとしたら。
それは、蓮のこと。
あの事件以来、蓮とは一度も顔を合わせていない。メッセージのやり取りも、ないままだった。
蓮のことだから、きっと自分を気遣って、あえて何も送ってこないのだろう。
それはもう、手に取るようにわかった。
本当は会いたかった。顔を見て、ちゃんと「ありがとう」って言いたかった。
なら、自分から行けばいい……そうわかっているのに、それができない自分が、ここにいた。
蓮にどう思われているのか。それを想像するだけで、胸の奥がひどくざわつく。
もう汚れてしまった……そんなふうに思われているかもしれない。
苦しくて、厄介な考えが、頭から離れない。
十六歳の心には、そんな想いをまるごと受け止められるだけの、強さも、広さも、まだなかったのだ。
それでも、ずっとこのままでいるわけにはいかない。
誰かの優しさに救われたのなら、その優しさに、応えたいと思った。
だから今日は、あのとき、自分を助けてくれた女性・真壁沙耶に、どうしてもお礼が言いたかった。
それはエレナも同じ気持ちだった。
幸い、沙耶の住むマンションは、自宅から自転車で20分ほどの距離。先日メッセージアプリで連絡先も交換していた。
今、陽菜はそのマンションのエントランスに立ち、部屋番号のインターホンを押している。
「はーい」
軽やかな声がスピーカーから返ってくる。
「あの……この間、お世話になった佐藤陽菜です」
少しだけ緊張して名乗ると、
「うん、あがって」
沙耶の声は、あのときと変わらず、優しかった。
すぐにオートロックのドアが開き、陽菜とエレナはエレベーターに乗り込んだ。
沙耶の部屋は八階。扉の前でチャイムを鳴らすと、ほどなくしてドアが開く。
「陽菜ちゃん、エレナちゃん、いらっしゃい」
笑顔で迎えてくれた沙耶に、二人は同時に頭を下げた。
「この間は、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました。……お邪魔します」
「部屋、ちょっと散らかってるけど、テキトーに座っちゃって」
部屋の中は、思った以上にきれいだった。ぬいぐるみやフィギュアが棚に並び、テレビの下にはゲーム機が数台。デスクにはノートPCと、隣に大きなデスクトップPCまで並んでいる。
ふと、陽菜はデスクの上に飾られている写真立てに目を留めた。何気なくのぞき込むと、隣にいたエレナも顔を寄せてくる。
そこには、三人の男女が映っていた。茶髪の男性と、翡翠色の髪の女性、そして金髪の女性。
皆、どこか整いすぎていて、まるでドラマやアニメの中から出てきたような美男美女だった。
「すごい……きれいな人たち」
陽菜が小さく呟く。
「でもなんか……あたしと年、そんなに変わらなそうじゃない?」
そう言って、写真に見入る陽菜に、エレナも同じ目線で答える。
「この人、彼氏さんかな?」
「うーん……でも金髪の子が腕かけてるし、そっちの彼氏なんじゃない?」
それぞれの距離感や仕草から、なんとなく関係性を探ってみる。けれど、もうひとつ気になることがあった。
「……ねえ、服装、ちょっと変じゃない?」
陽菜がそっと指をさす。
確かに、三人の着ている服は、どこか現代の空気からずれていた。
「……コスプレ帰りかな? なんか、ちょっと高そうなお店っぽいね……」
エレナもその陽菜の言葉に頷いた。
……そして、さらに見渡すと部屋の片隅には、どこか見覚えのある紙袋があった。
古着屋で見かけた──あの奇抜な服たちが、無造作に詰め込まれている。
「これ、もしかして……」
陽菜が目をやると、沙耶は小さく笑って言った。
「そうそう。結局、買っちゃったのよね」
陽菜は遠慮がちに敷かれていたクッションの上に腰を下ろした。
陽菜とエレナは”本当に買ったんだ……”と心の中で声をそろえつつも、妙に納得してしまった。
陽菜は、持参してきた小さなケーキの箱を差し出す。
「これ、お礼の気持ちです。よかったら……」
「わぁ、うれしい。ありがとう」
沙耶はケーキをお皿に乗せ、陽菜には冷えたオレンジジュースの入ったコップを差し出す。
「どうぞ。暑かったでしょ?」
「ありがとうございます」
陽菜はコップを受け取り、一口だけ飲んだ。
エレナは飲食しないため、何も出されていない。だが、それが自然だった。
部屋にはケーキの甘い香りが漂い、エアコンのやさしい風が頬をなでていた。
そんな穏やかな空気の中で、沙耶がふと問いかける。
「……あのあと、大丈夫だった?」
その声には、過度な心配ではなく、やわらかい気遣いがあった。
陽菜は少しだけ間を置き、こくりと頷いた。
「はい……でも、母はかなり動揺して……家に着いた瞬間、泣き出しちゃって……」
そう口にした瞬間、そのときの夜の光景が、鮮明に蘇る。
家に着いた途端、結衣は玄関でへたり込んだ。陽菜を抱きしめながら、何度も「ごめんね」と嗚咽まじりに謝ってきた。
現場では気を張っていたのだろう。自宅に戻った瞬間、その緊張の糸がぷつりと切れてしまったのだ。
自分の娘が、もし何か取り返しのつかない目に遭っていたら……そんな想像だけで、自責の念に押しつぶされそうだったのだ。
康太は康太で、目を潤ませながら陽菜の頭を撫で、それからエレナの頭にもそっと手を伸ばし、何度も何度もお礼を口にしていた。
「母は自分のこと、ずっと責めてました。守れなかったって……私が元気にしてたのが、逆に辛かったのかもしれません」
……でも、あれが”母親”というものだったのかもしれない。
陽菜は少しそう感じていた。
陽菜は苦笑しながらも、声には微かな揺れがあった。
沙耶は黙って聞いていたが、ゆっくりと首を縦に振った。
「……無事だったことが、どれだけ奇跡だったか、きっとお母さんが一番わかってるからね」
その言葉が、じんわりと胸に沁みる。
「ありがとう、沙耶さんが来てくれなかったら……」
陽菜がそう言いかけると、
「私だけじゃないよ。蓮くんも、あなたたちも、ちゃんとあきらめなかったから……」
沙耶はさらりと、けれど力強く言った。




