第10話:通学路の廃工場の怪③
それは、白一色の空間だった。音も色も、感情さえも吸い込まれたような、ただただ静寂な場所──怪物の“心の中”。
その中心に、エレナと蓮も立っていた。
三人はそこで、ひとつの情景を見ていた。
まるで、心の奥深くに埋もれた記憶が、投影機の光に照らし出されたかのように。
──怪物の心の奥にある、記憶の断片と想い。
ふいに、一人の男が現れる。
背を向けたその姿には、どこか薄い疲れが滲んでいた。
傍らには、小さな少女と、その母親らしき女性。
三人はまるで壊れかけた家族写真のように並び立ち、ぎこちなくも笑い合っていた。
──陽菜は直感していた。
これは、幸せな記憶ではない。
むしろ、そこからすべてが崩れ落ちていったのだと。
場面が変わる。
男は、銀行のカウンターにいた。
次に、消費者金融。続いて、闇金の狭い部屋。
視線を伏せ、淡々と判を押していく姿だけが映る。
さらに、男が働いていたであろう工場にも、取り立て屋がやってくる。
怒号。机を叩く音。
そして、”閉鎖”の紙が無造作に貼られる。
誰もいないシャッターの奥に、乾いた風が吹き抜ける。
場面は次第に、歪み始めた。
薄暗いキッチンにて、男は包丁を手にしていた。
無言のまま、それを──
血飛沫が壁に散った。
母親が、抵抗する暇もなく崩れ落ちる。
男は、ゆっくりと寝室へ向かう。
小さな布団に包まった、あの少女がいた。
静かに歩み寄り、手を伸ばす。
『……ごめんな。もう、こうするしかなかったんだ』
男の苦しげな囁きが、空気のようにこだまする。
その手が少女の首に触れた刹那──
『いま、楽にしてあげるよ……』
男の言葉と共に空間が砕けた。
世界がノイズを走らせ、白く、白く溶けていく。
陽菜は、息を吐いた。怪物の奥底に沈んだ、消すことのできない過去の傷痕を。
陽菜は、ふと胸の奥を押さえる。
重たく、冷たく、痛いほどに沈んだものが、そこにあった。
これが、この“怪物”の心……かつて人間だった”想い”の、悲鳴のような記憶なのだと。
陽菜は顔を上げた。隣には、怪物にそっと手をかざすエレナと、その隣に立つ蓮の姿があった。
その姿を見つめながら、陽菜はかすかに震える声で呟いた。
その瞳には、静かに涙の光が滲んでいた。
「……これが、この人の“想い”なんだ……」
「だから……ずっと、贖い続けてたんだ……苦しみながら」
彼女の声は、哀しみと理解に満ちていた。
けれど、その静けさを裂くように、蓮が声を上げた。
「俺だって両親、死んでんだよ」
「周りの冷たさも、イヤってほど味わった。貧乏人って笑われて、無視されて、毎日地獄みてえだった」
蓮は、歯を食いしばる。
どれだけ苦しかったかなんて、誰にもわかってたまるか。
けれど──それでも。
「……それでもな、死にてぇなんて、一度も思わなかったよ」
その瞳が、怪物を真っ直ぐに射抜いた。
「てめぇのことなんか知らねぇ。でもな──てめぇの娘は、死にたくなんてなかったはずだろ」
「勝手に絶望して、全部終わらせた気になってんじゃねぇ……」
蓮は拳を握りしめ、言い放った。
「くっだらねぇんだよ、お前みたいなクソ虫は!!」
その叫びは、重く、痛烈だった。
赦しでも同情でもない、蓮の魂からの怒声だった。
「陽菜っ! エレナっ!!」
蓮が声を張り上げる。その強い想いは、確かに三人に届いていた。
陽菜とエレナ、そして蓮。
三人は一つの意思で、怪物の深く閉ざされた“想い”を丁寧に解きほぐしていく。
「だからさ、さっさとあっちの世界で仲良く暮らせや!!」
再び、陽菜たちは怪物の“心の中”の白い空間に戻る。
そこには先ほどの男が、静かにうずくまっていた。
その隣に、二つの人影がゆっくりと現れる。
男の妻と、幼い少女……彼の家族だ。
少女は大はしゃぎで男に抱きついた。
『パパ、これからはずーっといっしょだね』
無垢な笑顔が、その空間をやわらかく満たす。
『ああ、もうずっと一緒だよ』
男は微笑みながら少女を抱きしめた。
ゆっくりと立ち上がり、少女の手を握って、陽菜たちに向き直る。
その顔は、どこか穏やかで満たされたものだった。
言葉はない。だが、無言のまま、男は三人に感謝の意を示すように軽く頭を下げた。
視界が白に染まり、ゆっくりと溶けていく。
──廃工場の想願空虚が解け、現実へと戻った。
あの怪物の姿はもうそこにはなく、淡い輝きとなって静かに空へと昇っていく。
残されたのは、穏やかな静寂だけだった。
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廃工場を出た三人は、何気ない町の風景の中を歩いていた。
柔らかな光が、舗道に長い影を落としている。
「陽菜、今回も大活躍だったねぇ~」
エレナが屈託のない笑顔で声をかけた。
「いや、今回は蓮が一番だったよ」
陽菜は軽く否定しながらも、少しだけ嬉しそうだった。
「うんうん、わたしの声もちゃんと届いてたしね」
エレナも嬉しそうに頷く。
陽菜はエレナの言葉を蓮に伝えた。
「白い空間で緑色の光を見たんだ。たぶんあれがエレナなんだろ?」
蓮は少し照れくさそうに陽菜に尋ねた。
いや、正確にはエレナに聞いていたのかもしれない。
「そうだよ、エレナもそう言ってる」
陽菜は笑顔で答えた。
三人が橋の上を渡り始めたとき、陽菜がふと足を止めて蓮を呼び止めた。
「蓮……ありがとう。うまく言えないけど……カッコよかったよ」
照れくさそうに言う陽菜に、蓮は少し顔を赤らめた。
二人は並んで川の流れを静かに見つめていた。
そんな静かな空気の中で、突然、蓮がそっと陽菜の手を握った。
陽菜も無意識に手を握り返したが、すぐに我に返る。
「おい!何どさくさに紛れて握ってきてんだよ!」
照れと怒りが入り混じった声で言う陽菜に、
「はぁ、今はちょい感傷的な気分なんだよ、いいじゃねーかよ」
蓮が照れ隠し気味に答えた。
「ダメだっ! まだ彼氏にもなってねーっつーの!」
陽菜は真剣な目できっぱりと拒否する。
「なんでそこまで話飛躍するんだよ!」
蓮は呆れたようにツッコミを入れた。
「ウチは、手を握るのは彼氏からって決めてるんだ!だからダメなんだ!」
腕を組んでドヤ顔で言い切る陽菜は、ジト目で睨んだ。
そんな彼女を前に、蓮はちょっとだけ間を置いてから──
「……じゃあ、彼氏になるわ」
その告白に陽菜は即座に反応した。
「断る!彼氏になるなら、あと一回くらいウチを助けろ!それが条件だっ!」
蓮は両手で頭を抱え、面倒くさそうに眉をひそめた。
「いや、無理無理! オレあんなチート能力持ってねぇし!」
陽菜はムッとして、目を細めた。
「はぁ? おめー、あのとき”俺を頼れ”ってイキってただろ!」
「うっ……!」
図星を突かれて、蓮は言葉に詰まる。
だがそれでも蓮は首を横に振った。
そんな蓮のリアクションに、陽菜もまったく引かない。
「じゃあ、エッチもつけてやる」
そう言われて、むしろ蓮の方が戸惑い気味になった。
「陽菜……ちょ、今回の件で、頭イカれたんじゃねぇか……」
彼はぽつりと呟いた。
そのやり取りを見て、エレナは肩でくすくすと笑った。
「陽菜ってやっぱり、蓮のこと初恋のときのまま好きなんだねぇ~」
その言葉にムッとした陽菜は、勢いよくエレナの頭をげんこつでグリグリした──。




