【第一章―七】 下僕の矜持、愚者の視察
場所は、ノルド帝国・首都サイルド東部外交庁。
本来なら貴族しか通されぬ高級応接室の前、ツラギ・カナメは寒空の中で立ち尽くしていた。
片手に握るのは、“和平提案書”。
もう何度目になるかもわからない“交渉要請”の書類だった。
だが、門は開かれなかった。
ノルド帝国の秘書官は彼を見下ろし、淡々と告げた。
「本日は外交代表の予定に余裕がございません。
政導審官ツラギ殿には、追って文書にてご返答を差し上げます」
「ま、待て。わたしは正式な同盟国の政導審官だぞ……!
この提案は、両国の未来を左右する重要な文書で――」
「ご退席を」
兵士が無言で前に立つ。
ツラギは息を呑み、ようやく口を閉じた。
振り返り、足を速める。
何かを言えば、今にも“捨てられる”ような気がしてならなかった。
だが、すでに捨てられていたのだ。
帰還――空虚な威圧
守霧島へ向かう前、本国の軍港で待機していた随行部隊の兵士たちは、ツラギの帰国を前にやや緊張していた。
なにせ“外交帰り”である。成功していれば上機嫌、失敗していれば……それはもう。
そして結果は、後者だった。
ツラギは乗船するなり、部下たちに向けて吐き捨てた。
「なぜ待機態勢が整っていない! 貴様ら、私を迎える資格があるとでも思っているのか!」
「は、はいっ……!」
「命令の遅延は職務放棄だ。貴様は明日から補給庫勤務に左遷だ。異論はあるか?」
「い、いえ……っ!」
次々に怒鳴り散らし、意味のない罵倒を繰り返すツラギ。
本国で積もらせた“惨めさ”を、ただ下に押しつけることでごまかしていた。
船室にて
ツラギは狭い船室の中で、濁った水のような目で“和平提案書”を見つめていた。
ノルド帝国の外交代表に渡すはずだったその書は、まだ封も開かれていない。
「……なぜだ。
わたしは間違っていない。
戦争など愚かだ。
条約があり、対話がある。
わたしは……正しいと、思っている……」
独白のような呟きが、虚空に消える。
だがその目は、どこか焦点を失っていた。
そして守霧島へ
港に降り立ったツラギは、あたかも勝利者のように背筋を伸ばし、
地元の将兵に無意味な挨拶と命令を繰り返した。
「私は帝都より“特命視察官”として来島している。
この島の軍務全般、政務記録、霊脈構成──すべて私の確認の対象だ。
ジェネラル・オルデンとやらにも、よく伝えておけ。
この島は“既に必要のない場所”なのだ。わかるな?」
見下すような口調だったが、背後にいる副官には見えていた。
ツラギの手が、かすかに震えていることを。
彼はわかっていたのだ。
自分は、ノルドにとって何の価値もない存在であることを。
だが、それでも“立場”という幻想にすがらねば、己は瓦解してしまう。
だからこそ、部下には高圧的に振る舞い、島の兵たちを“自分より下”と見なして命令するしかなかった。
その背中を、遠くから見ていた男がひとり。
ジェネラル・オルデン。
彼はただ、何も言わず、冷静にその姿を見つめていた。
「……お前の命令は、敵より冷たい」
その言葉は、声には出さず、胸の中で呟かれたまま霧に消えた。