第一章―二 壊滅の記憶、語られぬ火
霧が少しだけ晴れた夜だった。
守霧島の北方観測塔――かつて灯台だったこの場所は、今はジェネラル・オルデンが思索に耽る静かな居場所になっている。
その傍らに、黒衣の男が音もなく現れた。
「いい夜だな。霧の島にしちゃ、星が見えるだけ上出来だ」
「……イケナか。来ると思っていた」
ジェネラル・オルデンは、立ったまま視線を空に向けたままそう言った。
イケナ・ダイスは軽く肩をすくめると、腰のベルトにぶら下がった魔導水筒を取り出す。
「昔話でもしようと思ってな。……この静けさ、嵐の前にしては妙に懐かしい」
「ならば聞こう。……あの戦いのことを」
イケナの目が細まる。
「ああ、“霧牙谷”のことか」
あれは終戦の一年前のことだった。
北方戦線――霧牙谷の戦域にて、エルフの精鋭魔導師団《銀の枝》が展開した。
彼らは数百に及ぶ術者と、空を飛ぶ精霊兵、癒し手、結界兵などを完全に編制された“魔法だけの軍隊”だった。
三つの拠点があっという間に破られ、味方の指揮系統が寸断されたその夜、
ジェネラル・オルデンは、魔法師団の投入を上層部に打診した。
だが返ってきたのは、「撤退命令」。
それを無視したのが、当時まだ中佐だったイケナ・ダイスだった。
「命令なんざ知ったことかってな。俺は勝てると思ったんだ。
奴らの編制が完璧すぎたからこそ、“その中心を撃ち抜けばいい”ってな」
イケナは、焔の魔印を刻んだ義手を静かに撫でた。
「俺が使ったのは《業火転相》──
簡単に言えば、“魔法の構造式”そのものを逆流させる術だ」
オルデンが、珍しく表情を動かした。
「……魔法式の逆流? 自壊狙いか」
「そう。連携術式ほど壊れるのは早い。
銀の枝の連携陣を“模倣”して、俺の炎式と繋いだ。あいつら、完全に自分たちの魔力だと思ったろうな」
「そして、その魔力が君の焔となって爆ぜた」
イケナは、しばし沈黙した。
「……あの谷、今も焼け跡のままだ。
味方も混ざってた。俺の指揮の下にいた小隊も、全員吹っ飛んだ。
“敵を壊滅させた”なんて美談じゃねぇ。
……ただの、“焼いた”だ」
霧の中に、重い空気が落ちる。
だが、オルデンは静かに言葉を返した。
「それでも、君の判断で前線が維持された。
あの戦いがなければ、北半島は落ちていた。
……君の命令を受けた者たちは、誰一人、恨んではいまい」
イケナは目を伏せ、ふっと笑う。
「そう言ってくれるのは、あんただけさ、将軍。
俺が今ここにいるのも、その罪滅ぼしみたいなもんだ」
「罪ではない。必要だった火だ。
そして――これからもう一度、“誰かが火を点ける”時が来る」
オルデンは霧の向こうを見つめる。
その目は、何かを見ていた。
まだ見ぬ敵、まだ訪れぬ戦場、そして再び燃え上がる可能性を――
夜風が、焔の記憶をなぞるように吹き抜けた。
霧の島は静かなまま、その火を待っていた。