【第二章―一】 愚者、無様に逃げ出す──何をおいても厚顔無恥に
霧が鳴った。
島の北端に設置された霊脈結界が、重く低く共鳴したのだ。
「結界震! 霊波の異常反応です!」
司令室の報告が炸裂するように飛び交う中、ツラギ・カナメは真っ先に立ち上がった。
「何……? 敵!? 敵が来たのか!? 馬鹿な、条約がある、条約がッ……!」
「審官! ノルド艦隊の魔力反応が確認されました! おそらく――」
「もういいッ!!」
突如、ツラギが絶叫する。
「私は本国政導庁の人間だ! 政治指導者なんだぞ!?
こんな辺境の島で戦死するなど、あってはならない!
すぐに船を出せ! 退避だ! 退避を優先しろッッ!!」
「で、ですが霧が――」
「貴様らは命令を聞け! 私を誰だと思っている!?
貴様らの命より、私の立場のほうが遥かに重要だ!!」
その声に、司令室の空気が一気に凍りつく。
士官たちが黙りこくる中、ただ一人、ジェネラル・オルデンがゆっくりと立ち上がった。
「審官殿」
その声は、低く、冷たい。
まるで刃が霧を裂く音のようだった。
「ここは、戦場だ。
我々は逃げる者の盾ではない。
あなたの逃走を止めはしない。だが、戦いを邪魔するな」
ツラギは一瞬、何か言い返そうとしたが、その目を見て言葉を失った。
階級では下でも、威圧でも勝てない。
“戦場の空気”というものに、彼は生涯一度も触れたことがなかった。
だから、背を向けた。
それが“政導審官ツラギ・カナメ”という男の全てだった。
その後の姿
ツラギは霧の中、誰よりも先に脱出艇へ向かった。
本来は医療班や後方兵の避難に使われる艇だ。
「これは私のためのものだ。
当然だ。私は生きて戻らねばならぬ。
誰がこの戦争の真実を、記録するというのだ……!」
誰も答えなかった。
もはや彼に振り向く者などいない。
残された者たち
霧の中、残された者たちは静かに武器を取っていた。
騎士団長セイランは、剣の封印を解いた。
イケナは霧の流れに合わせて魔導機甲の起動を確認していた。
ヒメカは結界を貼りながら、“名のない魂の守護”を祈っていた。
そして、ジェネラル・オルデンは、静かに言った。
「──一人、逃げたか。
ならば、我らは一人分、重く立たねばならん」
誰かが逃げ出すたび、残された者の責任は重くなる。
その覚悟を持って、彼らは霧の向こうを見据えた。




