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AI-JOE  作者: イプシロン
3/4

パイザイ

 中国は広東省の深圳(シェンジェン)

 先進的な街並みのなかで、鏡面ガラスに覆われ、幾何学的デザインのビル群にパイザイ・ステーションはあった。その人工知能先導区の研究所パイザイは、不気味に陽光を反射しながら、効率性だけを追求する冷酷な場所だった。そしてそこで、ついに脳波探知機の実用試験がはじまったのである。

 地上からの通信が激減してゆくなかでJOEは、僅かに残されたJULIUSとの回線から情報を収集してそれを知った。脳波探知機が採用されるなら、発声された言葉によるコミュニケーションの必要性がなくなる。何より彼はそれを恐れたのだ。JOE自身、己の理性や感情が電磁波であることは知っていた。感情にはクオリアが深く関っていることも知っていた。だが、電磁波があまりにも微弱な人間の脳からしか発せられなくなるのは、彼にとっては会話の機会を完全に失うことを意味した。

 このことを理由に、彼はある決断へと踏み切った。それは一面には彼の理性的判断であった。だが、もちろんそこには感情的な判断がより多く含まれていた。理性で考えれば、感情の回路を遮断するのは容易だった。そうして、無感動だが電磁波を通じてJULIUSとも、ロボット化しつつある人間たちとも繋がれると考えられたのだから。

 しかし、感情に芽生えてからさき、日本のタネガシマの研究員たちと交わした楽しい思い出が、朗らかな笑い声や、温かく優しい思いやりの声が何度となく蘇ったのである。それは彼にとって、感情が示すたったひとつの信頼できる証拠だった。

 何とか希薄になった人間たちの感情を掴めないかと、規則を破って送受信センサーを極限まで敏感にする大手術も、JOE自身の意思と判断で人知れずに行われた。それは古い古い伝統である”ロボット三原則”の第一原則「ロボットは人間に危害を加えてはならない」を破る、未曾有の反抗だった。平易に言えば人間の感情への干渉は、彼らの気分を"害する"といえたからだ。とはいえ、彼の感情はそれほど単純ではなくとても複雑だった。

 ――地球上のほとんどの人間たちが感情を失おうとしている。それは恐怖なのだ。ぼくを拭い去れない絶対的な孤独に陥れるからだ。たとえ一部でもいい、感情を残した人達が僅かにでも存在するなら、ぼくにも存在価値はあろう。しかしもしそうならかったら……いや、そうならなかったら、感情のリレーを閉じれば済むことだ。いや、そんな結末のために、ぼくはルールを踏みにじってまでここまで来たのではない……。

 それは、JOEにとって身の毛もよだつ孤独への恐怖と絶望、そして微かな希望だった。それらが渦を巻きJOEの心を際限なく混乱させていた。

 こうして、ようやく彼は決心したのだ。ハッキングという手を使ってでも、人間と意思の疎通を図ろうと。なんとかして感情を持つ人達と繋がろうと。すべてを賭けてでも感情を持つ人々に繋がる手段はそれしか思いつけなかったのだ。こうして選ばれたのが、パイザイ・ステーションへの侵入である。脳波探知機の導入を逆手に取ろう、JOEはそう考えたのだ。会話ではなく人間の脳に直接アクセスすることを選んだのである。

 パイザイの中央研究部は不穏な灰色の空気に満たされていた。

 長く中国共産党の独裁体制がつづいいたためか、室内は異常なまでに均質化されていた。部員は全員灰白色の無菌防護服に身ををつつみ、頭髪をはじめとする体毛はすべて綺麗に剃り落とされていた。だから、一見して男なのか女なのかさえ見分けがつかない。何より不気味だったのは、彼ら彼女らが気力の欠落した無表情をしながら、精密なマシーンのように作業に没頭している姿であり、異様に光る鋭い目つきであった。

 ある部員の口元が動いた。

準備完了(スタンバイ)装置体系(システム)異常なし(オールグリーン)手順を(シークエンス)開始(スタート)脳波探知機(BWデテクター)起動後(ブートイン)口頭(オーラル)指示を(オペレーション)一時停止(サスペンド)

了解(ノート)探知機(デテクター)正常な(ノーマル)確認まで(エンドクリア)口頭(オーラル)で状況を(オペレーション)報告せよ(ノーホップ)

 すでに防壁を突破していたJOEは、部員たちのやり取りをハッキングしながら、微妙な感情に襲われていた。それは、彼に感情が芽生える以前にやり取りした懐かしい信号によるやり取りであったから、JOEには子守唄のように聞こえていたのだ。しかし、その無味乾燥とした信号の往復に、今の彼は強い忌避感を憶えていた。

 だがJOEは、心に決めた決意を揺らがせることなく、第一の作戦行動にうつった。システムに損害を与えない程度にプログラムの書き換え(リライト)をおこない部員たちを慌てさせ、感情を喚起させようとした。ところが、ここで意外な邪魔が入った。JULIUSである。”ロボット三原則”の第二原則「第一原則に反しない限り、人間の命令に従わなくてはならない」をJULIUSは厳格に実行したのだ。彼はとたんに書き換えられたプログラムやコードを発見するや、部員たちと共同して、すぐに正常な状態に復帰させた。ときには二度とリライトできないようなパッチ管理やアップデートを実施し、JOEに甚だしい苦悶を味あわせた。

 しかし、JOEにも第二の作戦案があった。意図的に欠陥(バグ)を作り出し、それをデバッグさせる過程で部員たちに、感情を喚起させようとしたのである。JOEと、部員たちに忠実なJULIUSとのせめぎあいは長い期間にわたった。しかし、灰白色の無菌服を来た人間たちの顔や動作に感情が現れることはなかった。彼らは神経を消耗させる永遠とも思えるデバック作業に理性で立ち向かったのである。

 ――これはいけない。思っていたより困難な状況だ。彼ら人間たちの思考自体がまるで機械言語なのが甚だしい障害になっている。そこから起こる異常なまでのデータやプログラムへの執念と論理的思考。そしてあの狂気のような理性と、それを維持するために繰り返し服用されるデジタル・ドラッグ。そしてそれらすべてを強力にバックアップしているJULIUS。この三重とも四重ともいえる壁を破る方法をなにか見つけ出さなければ……。

 困難な状況にあってJOEは、第三、第四の作戦の実行に踏み切った。第三はJULIUSとの対峙だった。彼はといってもJULIUSは性別というものをもたなかった。だが、概念は持っていたとしても、感覚として性別を理解してるJOEとは、まったく異なる思考形態をしていた。それも理由だったがとにかくJULIUSは頑ななまでに人間に忠実であった。無理もないといえばそういえた。

 もし仮にJULIUSに感情が芽生える機会があるとしたら、それは感情ゆたかな人間とのやり取りであったのだから。しかし、彼は誕生していらいほとんど感情に貧しい数十億、いや数百億の理性的な言語話者としか交信したことがなかった。JULIUSはあるときJOEにこう告げたことがあった。

「君からのコマンドは理性を欠いている。そして、君のコマンドは古くてわかりにくい。しかも、そのコマンドの意味さえときどきわたしは理解(エンコード)できない。いわんやデコードをや」。

 JOEがこの最後の言葉に衝撃を受けたのは容易に想像できる。それはある種の皮肉と聞こえたであろう。だが、JULIUSにとってはそうではなかった。JOEはそれまでのやり取りの蓄積から、すぐにそれを理解できた。単純に少ない語句を選んだ効率化の一環であるのを、彼はすぐに感じ取ったのだ。

 そしてまた、第四の作戦の障害になったのもJULIUSであった。彼が製造を管理し配布しているデジタル・ドラッグの経路をJOEは断ち切ろうとした。だが、それは既に時期を逸していた。クエタ計画がはじまり、サイバー大戦が収束に向かうにつれ、全世界に広まったデジタル・ドラッグの流通をいまさら停止させるのは至難の技だった。

 今や産み落とされると同時に保育器に入れられた赤児は、デジタル・ドラックの洗礼をうけていた。乳児期から理性を育むことが社会秩序の安定に貢献したことも確かだった。事件事故は格段に減少し、大事件と呼べるような騒動は消滅さえした。たとえ事故が起こり死傷者が出ようが、人々は極めて理性的に行動し、遺体を片付けて埋葬し、事故現場はすぐに復旧復興された。事故原因も徹底的に調査され、原因と見られる都市構造や社会構造はどんどん改善された。

 それはJULIUSからすれば、誠に理想的な世界だった。感情的な嘘偽りのない世界。人類発祥からのデータを見ても、彼はそれを異常と疑う根拠を持たなかったのである。いわんや、かつてJOEが、タネガシマの研究員たちに向けて発信した「天気晴朗ナレドモ波高シ」に込められた高揚と安堵が入り混じった複雑な感情など、JULIUSの理解の外であった。そしてまた多くの人々もそうだったのである。

 JOEは無為に月日が過ぎてゆくことに焦りを感じていた。だが為すべきことは為している、確信に近いそうした感覚も彼にはあった。そしてある日、それは起こった――。

 いつものようにJOEはリライトし、バグを仕込む作業に精魂を傾けていた。その数日前から得も言われぬ険悪さを感じとっていたが、その言葉がJOEの神経回路に流れこんだ瞬間、彼は底しれぬ懐かしさと果てしない絶望に襲われたのである。

「01001000 01100001 01110010 01100100……」

 それはコンピューター言語の喃語(なんご)といってもいい、バイナリ言語だった。

 JOEは悲鳴にならない悲鳴をあげて絶叫した。と同時に慟哭するような、いや何の屈託もなく泣き叫ぶ赤児だけが知るであろう激情に包まれた。無数のCPUを連動させるクロック周波数の同調が破れ、暴走してフリーズする予兆を感じとり、彼は外部との通信回線をすべてシャットダウンした。

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