07 騎士フルトブラントの真心
シーサーペントのシーサーちゃんは、沖縄生まれ。那覇新港からはるばる来てくれたらしい。
波止場には、シーサーちゃんを見送る大勢のキジムナーが押し寄せたそうだ。
それはさぞかし壮観だったことだろう。
決して『にほんご』とやらをしゃべっているわけではないはずなのに、生まれを誇るシーサーちゃんの言葉は、正確に聞き取ることが難しく、バカ女同様に、自動翻訳のスペルを用いた。
わたくしとて、水の精として、少しくらいは魔法を使えるのだ。まぁ基本、大洪水を起こすくらいしか出来ないが。
噴水とか水責めとか。そのあたり。ターゲットを細かく定めなくてよいもの。
だって勉強嫌いだし。細かい調整はイライラするし。
加えて、スペルを綴ろうとも、妖精魔法の拠をこれまでほどうまくは、身体の内部に感じられない。
これはいよいよ、そういうことなんだろう。
「それで? フルトブラント君とウンディーネちゃんは心を、愛をがっちり交わし合ったんだよね! おめでとう! 素晴らしい! それじゃ帰ろうか! ガルボーイ王国アンナ次期女王も、キミたちの帰りを待っているよ!」
さあ早く、と急かせるシーサーちゃんの発言に、頭の中は疑問符でいっぱいだ。
そしてそれはフルトブラントも同様であったらしい。
焦った様子でシーサーちゃんに問いかける。
「いや! 私とウンディーネが心と愛を交わし合あったとは、いったいどういうことだ? そんな覚えは全くないぞ!」
ガシャン!
格子に指先を引っ掛け、力強く揺すぶるフルトブラントには心からの焦りと不満が露わだ。
まぁ、それはそうだろう。
フルトブラントは初めて顔を合わせたそのときから、わたくしの顔を見るなり、露骨な品定めの凝視を始めたかと思うと、いかにも不快だと言わんばかりに眉間をシワを深く刻んだ。そして親の仇かのごとく鋭い眼光で睨みつけてきたのだ。
隣に並ぶアーニャだかアンナだか。そのような名前のチンクシャに向ける慈愛の眼差しとは正反対の。
わたくしへの言葉遣いも態度も、フルトブラントは初めから取り繕うことがなかった。
恋する相手、それどころか女人への態度ですらない。
妖怪。人知の及ばぬ、恐ろし気な。
フルトブラントにおけるわたくしとは、ただそれだけであろう。
フルトブラントは、バカ女相手であってさえ、わたくしにするよりずっと丁寧に、女性として見なし接していた。
つまり、シーサーちゃんの大いなる勘違いである。
水属性の生物というものは、概してロマンティックだ。
魂を持たぬ、愛も哀も知らぬ水の精、キューレボルン伯父様とて例外ではないし、シーサーペントのシーサーちゃんもそうであろう。
男と女の組み合わせを見るやいなや、カップリングしたくなるのである。
よくよく考えると、はた迷惑な属性である。
男同士とか女同士とか、無性別同士とか。いろいろあるだろうに。
ここは同じ水属性出自の存在として、シーサーちゃんを説得せねばなるまい。
「シーサーちゃん。認識に行き違いがあるようです。わたくしとフルトブラントは、愛は言わずもがな。心を交わしたりなどしておりません。なぜなら、フルトブラントはチンクシ――もとい、アーニャだかアンナだとかいう、人間の女とよい仲なのです」
「なっ!」
格子にかけていた指を引き抜くと、フルトブラントが勢いよく、わたくしに詰め寄ってきた。
「初めに言ったろう! アーニャは私の妹だ! 妹を誰がそんな不埒な目で見るものか!」
これにはさすがにカチンときた。
高尚なる水の精――いや、どうも、すでに人間になってしまったようだが――であったわたくしを騙ろうなどと、不遜にもほどがあるというものだ。
「嘘をおっしゃい! 水の精ウンディーネに、人間の体に流れる血潮の由来を隠し通せるとでもお思いか! フルトブラントとあのチンクシャの血は、一滴たりとも同じではなかった!」
「チンクシャ? アーニャのことか?」
戸惑うようにフルトブラントの勢いが削がれ、それ見たことか、と鼻息あらく、胸を聳やかす。
フルトブラントはゆっくりと首を振ると、先程より随分と穏やかな声色で弁明し始めた。
「たしかに私とアーニャに血の繋がりはない。アーニャはガルボーイ王国から亡命してきた王女であるし、私は、アーニャを匿う使命を負ったゲルプ国グリューンドルフ公。その人の嫡嗣であった。
「だがそれがなんだ? 幼少の砌より、我等は兄妹として育った。それでいてアーニャに懸想するほど、私は理性を失ってはいない」
そこまで言うと、フルトブラントは深く息を吸いこむ。
「なにより私は、物心ついてすぐ、私の妻としたい、愛すべき者がいることを確信していた。そのために私は、アーニャの旅に同行したのだ。これこそ愛しき者を探すに好機と」
灰青色の瞳が炯々とし、フルトブラントは膝をつく。
「水の精、ウンディーネよ。彼等の言うような事実は、なかったであろう。妖精とは偽らず、好き嫌いの素直に振る舞うものだと聞く」
それはそうだ。
妖精は魂を持たないので、嘘偽りでおべっかを使うようなことはしないし、好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。楽しいこと嬉しいことに身を任せ、気の向くままに人を助けたり、イタズラをする。
頷いてみせると、フルトブラントは自らを嘲るように、かすかに口の端を歪ませた。
「つまりウンディーネは、私に好意を寄せてはいない。なぜなら、私の妄想の中にあるおまえは、目があったそのときから、互いに目を離せず、恥ずかしがることもなく、私に擦り寄ってきた」
常に真っ直ぐな心根が卑屈さを滲ませることに、苛立ちを覚える。
だいたい、魂を持たぬ妖精は無為に嘘を振る舞わないが、わたくしは違う。
わたくしには既に魂がある。
そしておそらく、水の精ですらなくなった。
「なんだそれは。わたくしはそんなこと――」
わたくしには、初めて知る羞恥心というものが、胸に芽生え始めている。
徐々にその手を伸ばし蝕むように、確実に。
そんなこと。
わたくしははたして、フルトブラントの言うところの、どれを否定しようと声を上げたのか。
わたくしがフルトブラントに擦り寄ったなどと、記憶にまったくないことについて?
それともわたくしが、フルトブラントに。
そう。それ。それだ。わかってほしい。それを寄せてはいないと、そういった、それのことを?
フルトブラントはわたくしが口ごもるのを見て、眉間のシワを深めた。
痛々しいような沈痛な面持ち。
「ああ、そうだ。そんな事実はない。だからこれは私の妄想だと言ったろう。ウンディーネが私の貞淑な妻であったように思い、また私がおまえの信頼を裏切ったように――私は気狂いなのかと自身を信じられず、また妖精による質の悪い、怪しげな呪いでもどこぞで施されたのか、これまで疑ってきた。
「そしてそんな存在が本当にこの世に在るのか。在ってほしくもあり、しかし在ってしまえば、私はどうなってしまうのか」
知らぬ間に胸の前で握りしめていたらしい手を、フルトブラントに取られる。
「だが、それはいい。そのようなことは、もういいのだ」
「いや、よくないぞ。わたくしにはなんのことやらさっぱり――」
厳しい面構えばかりのフルトブラントが、ここにきて柔らかく微笑んだ。
額にシワの一つも刻まず、まるで優美な貴公子のように。
その様子に、わたくしの反論は、すっかり音を成さずにノドから消えてしまった。
「わからずともよいではないか? ただ今、私がウンディーネを愛しく思うこと。これさえ確かならば、私はもう、他に何も疑い迷うことはない」
フルトブラントは灰青色の、ともすれば酷薄そうにも見える瞳の色を、まぎれもない情熱の色へと変じ、わたくしの手を恭しく掲げた。そしてフルトブラントの額が手の甲に寄せられる。
触れるか触れないか。その際。
空気を挟んでさえ伝わる額の熱。
『かんこーひー』がカランコロンと音を立て、弾みながら地に転がっていく。
乳褐色の液体が飛び散り、わたくしのドレスに染みをいくつも作ったが、山吹色の布地であったから、そう目立たないだろう。
フルトブラントのアイボリーのチュニックには、もちろん目立つシミとなった。
フルトブラント本人がそれを気にするかは、わたくしの預かり知らぬこと。
だがもし、フルトブラントがそれをどうにか繕いたいと望むのであれば、わたくしは、スペルを綴ることなく、ただ人の子として。
布を当て、丁寧にブラシを落とし、石鹸を泡だて、シミを落とすに努めよう。
こうして美しい騎士さまは、水の精からただの娘となった美しい娘に愛を告白し、娘はその愛を受け入れ、二人は歓喜に抱き合った。めでたしめでたし。
これはそういうハッピーエンドのお話。
あとはただ、美しい娘のひとり語りで幕を閉じる。