04 バカ女と乗るゆりかもめ
バカ女は辺留田 流梛と名乗った。
……ん? ベルタルダ?
それって絶対に関わるな! と繰り返し念を押されていた女の名ではなかったか。
思わず、何も考えていなそうなアホ面をジットリと眺めた。
「なぁ〜にぃ? アタシが可愛すぎるぅ? うん、知ってるよぉ〜!」
いや、違うな。
こんなバカ女に危機感を抱けなど、キューレボルン伯父様ならともかく、お父様がそのようなウスラボケたことを仰せになるはずがない。
「えぇ〜。ウンディーネちゃんってぇ、ときどき失礼だよねぇ! アタシ、これでもけっこうアタマはいい方なのにぃ!」
どこがだ。
だがフルトブラントが首を捻り、疑い深そうに目を細めてバカ女を見やったことに、胸がスッキリしたので、口にするのはやめておいた。
「いや。口に出てるがな」
バカ女から目を外したフルトブラントと目が合い、「おまえの気持ちはよくわかるぞ」という気持ちを込めて頷いてやり、ついでに労いをこめて腕に軽く触れてやると、フルトブラントはギョっとしたように目を見開き、身を引いた。
高尚なる水の精たるわたくしの労いを拒絶するとは。
この男、やはり、いけすかない。
「――いけすかなくとも結構だが、女人がむやみに男に触るものではない」
そう言うと、フルトブラントはふいと視線を逸らし、窓の外の流れゆく景色をじっと見つめた。
わたくし達は、『ゆりかもめ』という異様に長い、魔物のような形状の乗り物の内部、そのいくつも並べられたベンチの一つに、三人並んで座っている。
扉の最も近くにバカ女、次にフルトブラント、最後にわたくし。
当初フルトブラントは、敵から身を守るため、扉近くに座ると真っ先に名乗り出た。「か弱き女人を守るのは騎士の務めだ」と。
だがそう口にしたかと思うと、はっと何かに気が付いたかのように息をのんだ。
そしてバカ女をじっと見つめ、意見を変えた。
「あなたは女人だが、この世界においては、私よりよっぽどうまく身の処し方を知っているに違いない。ならば私はあなたを守るよう前に立つより、あなたの動きを習うほうがよいだろう」
バカ女はそれに同意し、このような順序になったのだが、わたくしとしては、フルトブラントの言い分に、いまいち納得がいかない。
フルトブラントという男は、昔から女人に優しく親切で、物腰が柔らかで、名誉を愛し、女人がなにか危機的状況に陥ったと知るや否や、何もかも顧みず、一目散に助けに向かう質の男であったではないか。
まさか女を己の盾にするようなことが、あるはずもない。
なぜなら彼は、貞淑な妻となったわたくしの声を聞かず置き去りにして、遠雷轟く中、深く暗い黒谷へと藪を押し分け、夜露に濡れながら、美しき客人、ベルタルダを探しに馬を駆っていったではないか――そこまで考えたところで、わたくしはいったい何を考えているのか、と我に返った。
昔も何も。わたくしがフルトブラントと出会ったのは、今日が初めてだ。
『にほん』というこの地に転移される、その直前の、あのフルトブラントの露骨な品定めのまなざし。あれが初めて目と目を合わせた瞬間だった。
記憶の混濁のような、未知でいて、なにか気味の悪い予感に身震いしていると、バカ女のとぼけた声が、不穏な兆候を切り裂いた。
「さてぇ~。予習しておこうかぁ~?」
ガサゴソと乱雑な手つきで、バカ女が紙袋から書物を取り出す。
食事を終えて、バカ女が「あっ。そのまえに本屋寄らないとぉ~」と連れていかれた先には、はたして。
なんと、驚くほどの書物が並べられていた。それもこれまでに見たことのないような、鮮やかで美しい色彩に、わたくしとフルトブラントは呆気にとられた。
書物とは、人間の世界において、大変に高価なものだと聞き及んでいる。そのはずなのだが。
バカ女は圧倒されるような量の色鮮やかな書物のうち、手のひらの大きさほどの一つを選ぶと、それを『れじ』とやらに持って行った。
そして今、バカ女はそのときに手に入れた書物を膝の上で開いている。
「ええと、ウンディーネちゃんは水の精なんだよね? おっけ?」
「おっけ」
この世界のスラングというものは、端的で言葉の響きが愉快だ。
バカ女と同じ次元に成り下がりたくはないが、つい口にしてしまうのも仕方がない。どこか甘美で魅惑的なのだ。
「うんうん。っていうことは、フルちん、ウンディーネちゃんのことを力の限り、めいっぱい殴ってみてちょ~!」
「は!?」
「断る!」
とんでもないことを言い出したバカ女にぎょっとしていると、フルトブラントが躊躇なく、少しの間も置かず、即座に断った。
眉間のシワと強く引き結ばれた口。意志の強そうな目が、罪人か否か断ずるようにバカ女を睨みつけている。
勇ましく名誉を貴ぶ騎士そのものといった、凛々しい横顔を眺めると、体の中で弾性のある毬が激しく暴れまわるような心地がした。
心地。
やはりどうも、わたくしはすでに魂を得ているらしい。




