02 進んだ先にも一人芝居
「…………おい。その一人芝居はいつまで続くんだ。妖怪女」
「はぁあああああああ!? 誰が妖怪水かけババアですって?!」
「……そこまで言ってないだろ……」
使用人を呼びつけるベル代わりの、紐のついた黒い塊。
その中央にある『ここを押してくれ』と言わんばかりの濃灰色の部分を、人差し指で超速連続プッシュし、目薬をさして滂沱の涙を流しつつ拳を振り回していると、クソ男――フルトブラントは疲れたようにハアッと嘆息した。
濡れた前髪を乱雑にかきあげて、額に滴る水滴をぶるっと首を振るうことで飛ばしている。
飛び散る水飛沫がビタンっビタンっとわたくしの頬を叩きつける。
やめろ。
なんかちょっと光なんか浴びて、キラキラしちゃって綺麗だったりするけど。
やめろ。
だがしかし。ぷるぷる犬みたいに水飛沫を振り払っているその姿が、ちょっと色っぽいものだから、とてもムカつく。
所詮人間のくせに。
しかも犬畜生みたいなやり方で水を払っているくせに。
いえ。ごめんなさい。ワンちゃんは好きよ。大好き。
ええ。わたくしの一番好きなワンちゃんは柴犬っていうの。神聖アース帝国周辺国では見たことがないけれど。とても可愛いのよ。
ああ。脱線してしまった。腹立たしい。これも何もかも、このやけに色っぽい人間のせい。
ええ。なんで水の精のわたくしが、たかが人間ごときにドキドキしなくてはいけないのか。
ああ! 腹立たしい!
「……全部口に出ているからな? それに私が『色っぽく』濡れてるのはおまえのせいだろうが! 妖怪水掛けババアが!」
「結局ババアって言いやがった!!!!! このファッキン・クソ・マザーファッカー野郎!」
「ファッキンとクソと、あととにかく放送禁止用語を混ぜるな! バカ妖怪!」
「放送禁止用語ってなんだ! どこに何を放送してんだよ! クソがぁあああああ!」
「……おまえ、覚えたての人間の言葉を使ってみたいだけだな……?」
フルトブラントが目を眇めている。
どきり。
いや、フルトブラントの半目にときめきたのではなく、バレたか、のどきりである。
初めて聞くスラングというやつが、なんたが面白くてかっこよくて、つい口ずさみたくなるのだ。
水の精として高尚な存在であるわたくしは、普段こんなくだけた口調を使うことは、地中海のうち、有力な水界の王であるお父様と、お父様からお目付け役を任されたキューレボルン伯父様――コイツが本当に口うるさい――から許されないので、それもしかたがないというものだ。
バレたら半殺しの目にあうのだ。
というより。
「それはおまえもだろ! このクソイケメン!」
ファッキンもクソも。どちらも口にしているのは、目の前の男も同じである。『放送禁止用語』とか言ってるし。
言葉を音にするとき、少しだけ口ごもる姿に、母性本能をくすぐられたりなんかしない。
「このタイミングでなんで褒めた?!」
びっくりしたというように、目を真ん丸にしたって可愛くないのよ。
ほだされたりなんかしない。
その濡れ髪にちょっと胸元のあいたチュニックが、肌に張り付いてセクシーだなんて思ってない。
「やっだぁ~! ウィンディーネちゃん、鼻血出てるよぉ~」
うるさいバカ女。ちょっと黙ってろ。
てっぺんは黒で毛先にいくにしたがって青色、というよくわからないファンタジックな髪色の女を眼光鋭く睨みつけてやると、女は「きゃあ。こわぁ~い。でも鼻血出してるとかまじウケる!」と怖がってるのか馬鹿にしてるのかよくわからないことを言う。
うん。怖がってるということにしておこう。
ということでバカ女がよこしたハンカチ――にしては透けてて薄くて脆い気がするが――を鼻に詰め、セクシーお兄さんなフルトブラントを改めて怒鳴りつける。
「知るかアホンダラ! おまえが女にキャッキャウフフされているうちに、わたくしら『かいてんずし』に連れられてきてしまったじゃないか! 罪深き顔面凶器め!」
「『顔面凶器』が何か知らんが、おそらく使い方を間違えているからな! それに私のせいではない! 私がこちらのご婦人に道を尋ねている最中、おまえが割り込んで突撃してきたからだろうが! 『お腹が空きました。何か食わせろ』と!」
だってしかたがない。
お腹が空いていたのだ。
一刻も早く、なにかを腹に詰めねば、目の前の固くてマズそうな人間を食らうしか他に術はない、と悲壮な覚悟を決める寸前だったのだ。
いや。食べないけど。
人間なんぞ食べれば、お腹を壊しそう。
「そういう問題か!」
フルトブラントの叫び声が聞こえた気がするが、幻聴だろう。
なにしろわたくしは、胸の中でこれらを考えているだけなのである。
「全部、口から出ているぞ!」
高尚な水の精はそんなものを口にはしない。
だがお腹が空いてしまったのだ。しかたがない。
だいたい、お腹が空くという生理現象が初めての経験なのだから、これは本当にしかたがない。そうに違いない。
これまでは夜露に木の実、花の蜜を吸えばそれで事足りたというのに。
「夜露? 木の実? 花の蜜? 虫でも獣でも食らっていそうだがな……」
鬱陶しいような、不思議と胸がムカムカするような塩梅であったので、手頃なフルトブラントの太ももをつねっておいた。スッキリした。
「暴力妖怪め……」
しかし、キューレボルン伯父様め。
わたくしに人間と同じ魂を持たせよ、人間の娘の取り替え子として、わたくしを漁師夫妻のもとに託せ、というお父様からの命を受けていたにも関わらず、すっかり失念していたからといって、人魚の畔に現れた騎士にこれ幸いと私を押しつけるなど。
テヘペロ、じゃない。
驚愕と激昂とで、思わず伯父様に向かって、噴水攻撃してしまったではないか。
フルトブラントしか濡れていなかったが。よくよく考えると、フルトブラントも巻き込まれただけの被害者な気がするが。
「被害者だっ! 私はまぎれもなく被害者だ!」
まあそれはいい。どうでもいい。
「よくないぞ! まったくもってよくないぞ!」
これまでのあらすじを言い終えて、スッキリした。
だが、まだ少し続く。
「長いわ!」
そもそも人間の魂を得るには、人間の男と愛し合う必要があるのではなかったのだろうか。
「あ、愛っ!? 愛だと……! そ、それはまあ、確かに私は一目見たときから、むしろ物心ついた折より――いや! それはよい! だがウンディーネは私に興味などまるで……」
なぜわたくしはお腹が空いているのだ。
この体に、重たくのしかかり、どろどろと渦巻く得体の知れぬもの。これはまさしく、人間の魂というやつではないだろうか。そして暴力的な空腹。
「そうだろうよ。ウンディーネは私より空腹が一大事なのだ。やはりアレは、私の妄想に過ぎぬか……」
腑に落ちん。
あとフルトブラントが、イジイジじめじめしていて、鬱陶しい。
ブツクサ聞き取れぬ音量でひとりごとを口にするなら、隠し通すか、はっきり言葉にするか。どちらかにしてほしい。
かまってちゃんか。
「かまってちゃんで悪かったな!」
わたくしの耳の奥、それを伝い頭にまで、フルトブラントのうるさい声が紛れ込んでいるような気がして、頭を振って、その不気味な考えを追い払う。
フルトブラントの呆れ顔が目に入った。
「だから全部口に出ていると、何度言えば……」