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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

灰皿が消える

作者: サブロー




 悪いことが起こったあとには、必ず良いことがある、という言葉がある。


 結論から言うと、これは嘘だと思う。実際にそうだという人間がいるのなら、実証データを数値化して、論理的に説明してほしい。悪いことと良いことはきちんと交互にやってくるのだと、俺を納得させてほしいのだ。


 これは俺の体感だが、悪い出来事が十回起こったとすれば、良い出来事は一回くらいしか起こらない。調子が悪ければ十五回に一回、最悪のときはもっと確率は低くなる。


 しかも「悪いこと」に比べて、「良いこと」のレベルは著しく低いように思う。通勤時の信号がずっと青だったとか、コンビニの割引クーポンが当たるとか、そんな吹けば飛ぶ程度の幸運だ。


 宝くじが前後賞付きでドカンと一発当たるくらいのが来たら、俺もこんなにぶちぶち文句を言っていない。でも現実として、生きていたら悪いことの方が多い。絶対多い。間違いなく多い。俺はあまり気が強い方ではないが、これだけは力説したい。


 俺は真面目に生きてきた。特に社会に出てからは、仮病も使わず、人とも争わず、長いものには積極的にぐるぐる巻かれる感じの、毒にも薬にもならない生き方をしてきた。


 それなのにここに来て、社会人になって最大の「悪いこと」がやってきた。

 





 ◆






「今日でここも閉鎖ですね」

「……そうですね」


 淡々と煙を吐くハセガワさんを横目に、俺は小さく返事をした。


 定員六名の喫煙室には、今は俺とハセガワさんの二人だけが残されている。昼休憩直後の一番混む時間帯を越えた午後二時ころ、ハセガワさんは決まってここを訪れるのだ。


 俺の会社が入るビルが館内全面禁煙のお達しを出したのは、今からひと月前のことだ。社内メールで「お知らせ」が回ってきたときは目を疑った。煙草はそう簡単にやめられないのに、あまりにも急すぎる通告だ。禁煙外来へ行く暇も与えない気だ。行くつもりはこれっぽっちもないけど。


 俺だって、世間的な禁煙の波はひしひしと感じていた。ここのビルだって、俺が入社した当初は喫煙室が各階に設けられていたが、ひとつふたつとじわじわ減らされて、二年前からは二階の一カ所が残るのみだ。この試みで、ビル内に入る会社に勤める喫煙者はかなり減ったという。でも俺はしぶとく生き残っている。

 理由、というか目的があるからだ。


 俺の隣に颯爽と立つイケメン、ことハセガワさん。「格好いい」が服を着ているみたいな、すらりと背の高い爽やかな男。きれいに整えられた顎髭が、柔和な顔立ちをわずかに男らしく見せているのがたまらない。


 俺の目的は彼だ。二年前に喫煙所がひとつに統合されたとき、たまたま同じ時間帯に利用することが重なり、話をするようになった。


 年齢は聞いたことがないけれど、多分同じくらい。プライベートについて話すことはほとんどない。話すとすれば、ニュースのこととか、ゲームのこととか。

 そのうち、アメリカのプロバスケが好きだと分かり盛り上がった。ふたりで煙草片手にスマホを取り出し、それぞれの贔屓のチームの戦績だとか、選手のコンディションについて語るのだ。

 

 ハセガワさんは、同じビルで働くサラリーマンだ。サラリーマンといっても、勤めているのは資産運用アプリを作る新進のベンチャー企業らしく、およそサラリーマンらしくないラフな格好をしている。今日だって、デニムシャツにチノパンを合わせた格好だ。


 家で洗えるテカテカスーツを着ている俺とはまるで違うし、そもそもハセガワさんは腰の位置が高すぎるので、並ぶと少し悲しくなる。でも俺は隣に並ぶ。そのためにここへ来ている。


 俺は学生時代からの喫煙が習慣になってしまって口寂しいというのももちろんあるけれど、断然目的はハセガワさん。彼と同じ空間で話す機会が欲しくて、非喫煙者の冷たい視線を浴びてもこの喫煙室に通っている。


「今はどこも全面禁煙ですからね、仕方ないです」


 物分かりの良さそうな言葉をこぼしてみる。本当は納得なんてしていない。嗜好の自由を奪われた。でも俺が暴れたところで、決まったことは動かないのも知っている。諦めるのが上手くなければ、大人なんてやっていられない。


「困ったなぁ」


 ハセガワさんはぽつりとそうこぼしたが、あまり困っているようには見えなかった。彼はいつも飄々としている。


 喫煙室というのは不思議な空間だ。その中でだけ成立する人間関係がある。ここでは煙とともに、色んな言葉が吐き出されていく。


 同じ会社の人間同士であれば、オフィスでは言えない人間関係のゴシップで溢れる。そして時折その会話は、業務上重要な会議に発展することもある。入社したてのころ、「喫煙室へ行く奴は出世する」と先輩に言われた。残念ながら俺は出世に縁がないが、器用な奴ならこの場で独自の人脈を作り上げるのだろう。


 相手が違う会社の人間であれば、喫煙者たちは気取らない雑談をする。そのうち違うフロアの事情まで詳しくなり、口さがない連中は自らのオフィスに戻ると「何階の誰々と何回の誰々が付き合い始めたらしい」なんて、仕入れ立ての情報を披露する。


 貴重かつ重要な交流の場だ。だからこそ、非喫煙者たちからは忌み嫌われる。煙草を吸っている間は仕事から離れているというのは事実だから、そこに抵抗するつもりはない。


「困った」


 もう一度言って、人差し指と親指で煙草を摘まみ、ハセガワさんは少し顎を上げて煙を吐いた。イイ男には煙草が似合う。それも紙煙草が。


 電子タバコも悪くはないが、格好良さでいえば紙煙草の方が断然上。匂いがきついと周りからは嫌がられるけれど、ハセガワさんは煙草の匂いもまるごと「格好いい」に変換してしまうほどの魅力がある。同じ会社の奴らが心底羨ましい。


 知り合って間もないころ、ハセガワさんは煙草の箱に書かれた注意書きをじっくり眺めて「こんなにデカく書かなくてもいいと思いません?」と俺に笑いかけてきた。そして続けて「仕事の方がよっぽど身体に悪いのに」とも言った。


 なんだか、その気安さが良かった。良かったって何様だよお前、と自分でも思う。でも、とにかく良かった。

 ハセガワさんといると、肩の力が抜ける。少しの緊張はあるけれど、なぜか安心する。ハセガワさんが本当のところはどう感じているかは知らないが。


 長い睫毛を瞬かせて、ハセガワさんがこちらを向く。


「トモタさんは、これからどうするんですか」


 トモタさん、と俺を呼ぶハセガワさんの発音は独特だ。少し跳ねた小気味良い音。そして俺は単純なので、そのたびに嬉しくなる。なにせ、昔から見目麗しい男には目がない。

 けれどハセガワさんの問いの意味を図りかねて、俺は眉根を寄せて訊いた。


「どうする、っていうのは」

「煙草。どこかで吸うんですか」

「ああ」


 なるほど、そういう意味か。


 確かに、この喫煙所がなくなったら俺たち喫煙者は行き場を失う。トイレで隠れて吸ったりしたら火災報知器が鳴る、とビル管理者から脅されてもいる。同僚連中は、「これを機にやめる」なんて殊勝なことを言っているが、大方みんな外回りを理由に抜け出して、どこかの喫煙所で煙を吐き出すのだろう。

 俺は首を傾げてから答えた。


「考えてなかったですね。ハセガワさんは?」

「うーん」


 どうやら、ハセガワさんの方もあまり深く考えていなかったらしい。鼻筋の通った横顔を見つめていると、彼はしばらく黙ってから、言った。


「禁煙しようかなぁ」

「え、だめです」

「え?」

「あ」


 つい、本当についうっかり言葉が出てしまって、俺は慌てた。ごまかすように煙草を口に含み、思い切り煙を吸い込む。むせそうになったけど、耐えた。こんなとき、自分が煙草を吸う人間で良かったと思う。煙たいこの嗜好品は、場を持たせるためのツールとして非常に優れている。


 ハセガワさんは珍しく目を丸くして俺を見ていた。食い気味で禁煙に反対されたのに驚いているらしい。それはごもっとも。俺はちらりと視線をやってから、ぼそぼそと無理のある言い訳をした。


「……いや、ハセガワさんが煙草やめたら、アレじゃないですか」

「アレって?」

「仲間が減って、その、ますます肩身が狭くなるんで。うちのビルの喫煙率、下げないでくださいよ」


 嘘だった。混じりけなしの嘘の言い訳。

 本当は、話す機会がなくなってしまうのが嫌だから、禁煙してほしくない。


 この喫煙所がなくても、同じ建物に勤めていれば、近場の喫煙所で出くわして、言葉を交わすことができる。でもハセガワさんが煙草をやめてしまったら、その機会はゼロになる。運良くエレベーターで一緒になれるかな、くらいの確率になってしまう。それは嫌だった。


 俺は、ハセガワさんのことが好きだから。

 話せなくなるのは、会える口実がなくなるのは、困る。


 しかしハセガワさんはそんな理由で納得したのか、「なるほど」と言ってまた煙草を咥えた。俺は手を伸ばして、目の前の灰皿に灰を落とす。自分の言葉に後悔していた。今の言い方は気持ち悪かった。ねちょっとした感触の引き留め方だった。これはいただけない。

 

 ポケットに指先だけ突っ込まれた、ハセガワさんの左手を盗み見る。薬指の根元に、指輪はない。


 以前話の流れで、「部屋で吸ってたら彼女に怒られないですか?」と探りを入れてみたことがある。ハセガワさんは少し黙って、俺はその返答までの時間が長すぎて、心臓が壊れそうだった。けれどハセガワさんが「俺、フリーなので怒られるとかないです」と答えたので、俺の心臓は今も無事に動いている。


 だから何なんだ、と自分に言い聞かせる。

 ハセガワさんがフリーだからといって、俺にチャンスがあるわけじゃない。俺が一方的に好きなだけだ。長く骨張った指や、笑うと幼くなる顔や、穏やかな話し方に、俺が勝手に惹かれているだけ。


 俺、実はハセガワさんに惚れてるんですよ。

 今日が喫煙室の最後の日だから、冗談混じりに言ってやろうかとも思った。そこで不快な顔をされたら、多分俺はすっぱり煙草をやめられるのだろうとも思った。 

 

 でも、できない。冗談混じりになんか言えない。冗談で済まされる気持ちじゃない。ふざけて「ちょっといいな」とかじゃなくて、本当に好きだから。


 本気だから、言うべきじゃないのだと思う。俺は毒にも薬にもならないように生きてきた。でも、「同性から好かれる」という事実は、時として毒にもなる。相手にとっても、俺にとっても。これまでの経験でよく知っている。

 自分が楽になりたいから気持ちを告げるなんて、自分勝手な気がする。自分勝手だと思われて嫌われたくない。どこまでいっても俺は打算的だ。


 二年間、毎日この場所に来るのが楽しみで、時間が合わなくて会えない日はめちゃくちゃがっかりして、次の日会えると飛び上がるほど嬉しかった。煙草を吸うとき、いつも指が震える。でも、「のんきなトモタさん」として接してほしくて、俺なりに頑張ってきた。


 だから、最悪だ。

 この場所がなくなってしまうことは、本当に最悪。


 俺が今、世の中で一番嫌いな言葉は「禁煙」だ。受動喫煙がなんだってんだ。普通に有害なのは分かるし、煙草が嫌いな人に無理強いするのはだめだけど、俺がハセガワさんと会える機会を潰さないでほしい。

 

 しばらく沈黙が降りたあと、ハセガワさんはまた上を向いて煙を吐いた。

 俺が吸っている煙草よりも、重い匂い。

 

 突然、彼は言葉を紡いだ。


「じゃあ、トモタさんもやめないでください」

「え?」

「煙草」


 ハセガワさんは俺を見て目を細めた。とても楽しげに。


「トモタさんが禁煙しちゃったら、会えなくなるでしょう。それだと困るんで」


 せっかく無事に動いていた心臓が止まりそうになった。ついでに立ちくらみもした。しかし数秒後、「いやそんな深い意味はないだろ」と自分自身に突っ込んで、事なきを得た。


 危なかった。勘違いをして、自分の都合の良いように捉えるところだった。深い意味なんてないのに。


 しかし、「困る」とは。


 混乱の中にいる俺とは対照的に、ハセガワさんは静かに一口を吸い込み、それから灰皿に煙草を押し付けた。

 最後の煙が、俺とハセガワさんの間に流れる。 


「トモタさん、今晩空いてます?」


 何を訊かれたのか分からなかった。何かの暗号なのかとも思った。でも、どれほど頭の中でその音を弄んでも、訊かれている意味はひとつしかなかった。


 たっぷり十秒間黙り込んでから、俺はやっと「空いてる、と思います」とか細い声で答え、頷いた。


「俺、良い居酒屋知ってるんですよ」


 悪いことが起こったあとには、必ず良いことがある、という言葉がある。


 俺はこの言葉は嘘だと思っている。少なくとも、これまでの人生では嘘だった。そんな都合の良い毎日なんて存在しなかった。


 けれど。


「ちゃんと、煙草が吸えるとこです」

 

 もしかしたら俺には、宝くじがドカンと当たるレベルの、良いことがやってきたのかもしれない。








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[良い点] ぜんぶ
[良い点] この作品大好きです。何度読んでもフレッシュな。甘ずっぱい〜。トキメキ補給したくなったら読みにきています。楽しい。これから始まる、お互いを手探りで知っていく、最初のキュンキュンした感じが可愛…
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