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年上の人

作者: あさな

 夕暮れの喧騒――改札を抜けると商店街を行きかう人々はみんな足早に見えた。

 早く帰って食事の支度をしたり、食事の用意をして待ってくれている家族のために、自然と足が速くなる。そんな幸せな光景に胸を痛めるようになったのはいつからだろうか。考えてみても、うまくは思い出せない。

 私は小さく呼吸をしてから、自転車置き場に向かうために一歩を踏み出した。


「トーコ」


 引き留める声がした。

 声がした方角へ顔を向ければこちらに駆け寄ってくるスーツ姿の男性がいる。

 逆光になっていて顔がよく見えない。片手をあげる仕草が朱く照りつける太陽から助けを求めて手を伸ばしているように思えたが、私は手を差し出すこともせず黙ってその姿を見つめていた。

 傍まで来るとようやく顔がはっきりした――時島陽一だ。

 いや、本当は顔など見なくとも「トーコ」と言ったときの、少し躊躇いがちでありながら人懐っこい声で見当はついていたけれど。間違えてはいなかった。そのことに胸を撫で下ろし、それからほんの少しだけ寂しい気持ちになった。


 時島陽一。

 同じマンションに住んでいた。

 私は三階で、彼は七階。何号室かまでは知らない。

 同じマンションといっても、年齢が離れていたから幼馴染というわけでもなく、親が一緒のときにエレベーターで乗り合わせたら挨拶はするけど、二人きりで遭遇したら挨拶もない。ただ、先に乗り込んだ方が黙って相手の階数を押し、押してもらった方が「どうも」とか軽く会釈する、そんな感じの間柄だった。

 それが少し変化を見せたのは、六年前だ。

 私は中学に入ったばかりで、そろそろ塾へ通わせた方がいいのではないか、という話になった。

 両親は特別教育熱心でもなかったし、私も特別成績が悪かったわけでもなかったので、これまでそのような話をすることもなくのんきに構えていたが、学校の授業だけでは足りないのではないか、とおそらくよその家では小学生くらいからなされるだろう話がようやく食卓で取り上げられた。

 そうだよなぁ、と父がいい、そうよね、と母が頷き、そうかもね、と私も同意したけれど何も決まらないまま食事は終わった。しばらくはずるずる行くのだろうな、両親も私も物事をすぐに決めるのは苦手としていたから切羽詰るまでこのままだろうな、と思っていた。ところが、三日後、時島陽一に家庭教師をしてもらうことになった、と言われた。

 大学生だった時島陽一は時給がいいからと家庭教師のアルバイトをはじめようとしたが「人様のお子さんに勉強を教えて、成果があがらなかったらどうするのだ」と両親の反対にあった。それにはかつて時島陽一自身が家庭教師をしてもらっていたことが関係している。まったく成績が上がらないどころか下がってしまい、家庭教師派遣会社と随分揉めたことがあって、それを心配し口を挟んできたのだ、とのちに時島陽一から聞いた。

 母は時島陽一の母親と世間話という形でそれを知り、ならばうちの娘の家庭教師をして様子をみるというのはどうかと提案したらしい。

 母はおっとりしているが時々信じがたい行動力を見せる。それはだいたい決まって善意という動機から発揮される。今回のこれも母としては時島親子の仲裁のつもりだったのだろう。けれど、お試しされる私のことを考えてくれているのだろうか。もし成績が落ちたら母と時島陽一の母親との関係もぎくしゃくするではないか。いろんなことがめまぐるしく私の中で揺れ動いたが、「明日の夜から来てもらうから」という決定通知に、もうそんなところまで決まっているのかとくらりとした。


「時島さんはそれで納得しているの?」

「あったりまえじゃない。そりゃ奥さんも最初は戸惑ってたけど、いつまでも息子さんと臨戦状態はつらいからね」

「違うよ。奥さんじゃなくて息子の方! 本人は納得してるの?」

「そりゃ納得するでしょ。だってやりたかった家庭教師のバイトが出来るんだから」


 母は簡単に言ったが、そうかなぁ、と私は訝しく思った。

 反対されて反抗しているところへ親が家庭教師の口をとってきた、ここならしてもいいわよ、と言っても余計反感を買うのではないか。いつまでも子ども扱いするなと話がますますややこしくなる場合もある。この話は立ち消えになるのではないかな、と私は考えていた。

 でもその思惑は見事に外れた。

 次の日の夜、時島陽一は本当にやってきた。お世話になるのはこっちなのに、お世話になりますと手土産にケーキまで持ってきた。母親に持っていくように言われたそうだが、おとなしく従ったことに、時島陽一はひょっとしてマザコンなのだろうかと疑った。でも、本人がやってきたのにここで私がやっぱり嫌とはもう言えない。こうして私は時島陽一の生徒になったのだ。


 結論から言えば、時島陽一の教え方はとてもわかりやすかった。私の成績は見事にあがった。

 それには成績が下がればいろいろ大変そうだというプレッシャーからいつもより頑張った私の努力もかなりあったと思うけれど、それを差し引いても時島陽一はいい先生だった。

 おそらく、時島陽一は先生に向いているのだろう。本人も思うところがあったのか、私の先生をしている間に教師になることを決めた。まさかこの関係が彼の将来に深く関わるようになるなど思っていなかったので、話を聞いたときはどきどきとした。ただ、そのためにはかなりの準備が必要らしかった。彼が大学でどのような専攻をしていたのか詳しくは知らないが、方向転換が必要でそのために家庭教師は一年ほどで終了した。

 その後、時島陽一は見事教員試験に合格し教師になった。

 今は学校で教鞭を振るっている。


「走ったりしてよかったんですか」


 傍まできて立ち止まった彼に向けて言うと、え、っと小さく声を漏らした。

 私は彼の持っている箱を指差した。

 初めて家庭教師をしてくれた日に持ってきてくれたのと同じケーキの箱を手にしている。ここのケーキ屋は時島家の御用達らしい。大きさからしておそらくホールケーキだろう。そんなものを持って走ったりしたら中身が潰れないのかと心配した。

「あー」と彼は自分がケーキを持っていたことなどすっかり忘れていたような、ため息とも諦めともとれる声を出したあと「うん、でもまぁ、家で食べるやつだし。僕がへまをやらかすのは慣れているだろうし」となんとも情けない言い訳を口にした。


「先生は、相変わらずですね」


 勉強の教え方は上手でも、日常生活は下手だ。それは当時からだった。

 たとえばものを食べるときとか。休憩にと母がお茶を入れてくれるが、お茶請けのクッキーを食べるのにボロボロとこぼす。こぼしながら、わーしまったーと騒々しく謝る。こぼしてはいけないという意識はあるのに、食べるときには忘れて無防備になるらしい。時々、この人は本当に年上なのか怪しく思った。思いながら、彼が帰ったあと、母が食器を片づけに来る前に、ささっと掃除してしまう。彼の名誉を守るためだ。だらしないとか、マナーがなってないとか、時島陽一が万が一にでもそんな風な言われ方をしないように私は証拠隠滅をはかった。


「久しぶりなのに変なところを見られてしまった」


 彼は照れたように、はは、っと笑いを漏らしたので改めて「お久しぶりです」と挨拶した。


「本当に久しぶり。どれぐらいぶりだろう?」

「二年ぶりですよ」


 私はすぐに答えた。

 よく覚えているね、と言われるかと思ったが、彼は、そっか、二年か、と繰り返しただけだった。


「こっちにはちょこちょこ帰ってるんだけど、トーコとはなかなか会わないからな」


 続いた言葉に私も頷いた。

 彼は教師になってから、一人暮らしを始め実家を離れた。偶然エレベーターホールで会うこともなくなった。すると一切の関わりが途絶えた。私たちは親戚でもなければマメに連絡を取り合うほど仲良くもないのだから仕方ない。

 それでもこうして私の姿を見かけて呼び止めてくれた。それだけで十分だと思う。


「先生。私、自転車なんですけど……」


 駅の月極め自転車置き場に停めているのだと話せば、じゃあ、ここで、と別れることになると思った。でも彼は「とっておいで。もう日も暮れるし一緒に帰ろう」と言った。



 自転車置き場は混雑していた。この時間はいつものことだ。

 私は定位置に置いた自分の自転車の傍に行き、鞄から鍵を取り出した。一人のときは音楽を聴きながら帰るためにipodも出すのだが今日は鍵だけ。それを鍵穴にねじ込む。高校入学のときに買い替えた自転車はそろそろ年季が入ってきて鍵の立てつけもスムースにいかなくなっているけれど、カチャン、と力強い音がして一発でうまく外れた。

 人とぶつからないよう出入り口へ向かう。 

 彼は先ほど別れた場所に立っていた。

 今度は私が小走りに近寄り声をかける。彼は日が眩しいのか手で日よけを作り私の顔を確認した。


「お待たせしました」


 それから、前かごに乗せていた荷物をどけて、ケーキの箱を入れてくださいと告げた。前かごは大きいのでケーキの箱がちょうどいい感じでおさまる。手で持つよりいいだろうと私は提案した。


「え、いいよ。そんなの」

「目で食べるっていうし、それ以上の惨劇にならないように」

「そう? じゃあ、代わりにこの鞄を持つよ」


 彼はそう言うとサドルに乗せている私の鞄を持った。


「いいですよ。ハンドルにひっかけますから」

「それだとバランスが悪いから」


 バランス、と言われて私は何のバランスのことか一瞬考え込んでしまった。私がケーキを持つなら交換で自分も何か持たないと一方的という意味だろうか。それとも、ハンドルにひっかけると重心がぶれるという意味だろうか。


「トーコ」


 突っ立っていると、すでに歩き始めてしまっていた彼が私を振り返った。

 我に返り、いいです、ともう一度言ったけれど、彼はそれには答えずまた歩みを再開させた。

 ガヤガヤとした商店街を自転車を間に挟んで歩きながらも、私は彼の持ってくれている鞄が気になった。


「辞書も入っているから重いんじゃないですか」


 彼は私の質問には答えずに、


「ちゃんと辞書を持ち帰ってるなんて偉いじゃないか。うちの学校の生徒なんて置いて帰る子が多いからなぁ。辞書は勉強の大事な相棒だから持って帰るように言うんだけど、注意しても、家にもう一冊あるからいいんです、とか言われちゃって参るよ」


 口から零れる言葉に私の知ることはない彼の日常の様子が垣間見えた。

 俯くと視線の先には今年の春先に新しくなったばかりのタイルが敷き詰められている。灰色のタイルの隙間を赤と緑が等間隔にはめられていた。

 チリンチリンチリンと急かすような自転車のベルがして反射的に歩みを止めた。振り返ると年配の女性が通り過ぎていく。前と後ろのかご、両ハンドルにも荷物を提げていて、自分では人をよけることが出来ないのでベルを鳴らして避けてもらっていた。あんなにたくさんの買い物が一日で必要だとしたら、どれほどの大家族だろうと思った。

 それから並んで歩くと邪魔になるから彼が前を私が後ろを一列に並んで歩いた。ときどき私の気配を伺う仕草を見せたので、はぐれていないと示すように少しだけ距離を詰めると彼はまた意識を前に向けた。それを二度、三度と繰り返しているとようやく商店街のアーケードが終わりまた太陽が姿を見せた。今日の名残のように朱く揺れている。

 商店街を抜けると人の流れが急になくなり静けさが満ちていった。夕闇が背中から迫ってきて、私と彼の影が並んで長く伸びている。歩くとゆらゆら揺れて、もう少しでふれあいそうなのに、僅かの距離が埋まることは絶対になかった。

 彼は小石を蹴った。たまたま足が当たったのか、故意に蹴ったのか、どちらだろうなと考えた。


 一度だけ、こうして彼とこの道を歩いたことがあった。


 家庭教師が終わり、先生と生徒という間柄ではなくなってしまうと、私のほうはなんとなくぎくしゃくした態度になった。エレベーターで乗り合わせると「おう」と気安い感じで声をかけてくる彼に「どうも」と素っ気なくなってしまう。どうしてこんな態度しかとれないのだろう。もう彼とはこうしてエレベーターで会うぐらいしかないのにと思うほど私の態度は委縮していった。

 そんなとき、今日みたいにばったりと駅前で会った。

 時間は八時前だった。私は塾に通い始めてその帰り、彼はどこかへ出かけるところだった。

 カラカラカラっと異質な音を出す自転車に気づいて、


「パンクしたのか?」


 と彼が言ったので私は頷いた。

 先週の日曜日に空気を入れたばかりだったのに、授業が終わるとパンクしていた。

 おそらく誰かのいたずらだろう。前輪が鋭利な刃物で切り付けられているのが目で見てもわかった。他にも自転車の鍵穴も傷だらけになっている。盗もうとしたが鍵がうまく外れずに腹いせにタイヤを切り裂いたのかもしれない。商店街の中に自転車屋があったけれどすでに閉店してしまっている。このまま置いて帰るわけにもいかず、押して帰るところだった。

 タイヤの空気が抜けきった自転車を押していると落ち込んでいく。こんな風に誰かの理不尽な暴力を受けるのはほとんど経験がなく、どう気持ちを保てばいいのかわからなかった。


「じゃあ、一緒に帰ろう」


 え、っと私は彼を見た。


「もう遅いし、歩いて帰るのは怖いだろう。一人じゃ危ないから」


 目の前の怒りとも悲しみともつかないどんよりとした空気に飲み込まれていて、そこまで考える余裕はなかったけれど、彼が言うように、マンションまでの道のりは街灯が少なく、自転車で駆け抜けてしまえばそれほどでもないが、パンクした自転車を押しながらとぼとぼ歩いていくのは怖い。申し出は有難いものだった。


「でも、出かけるところだったんじゃないんですか」


 素直にお願いしますと言えず、迷惑かけるわけにはいかないと断ったら


「うん、大丈夫。友だちと飲むだけだから。事情を話せば少しぐらい遅れても怒られたりしないし、それよりトーコに何かあったらそっちの方が大変だろう。一生後悔する」


 一生後悔、というのは大袈裟ではないだろうか、と思った。

 だけど彼はそう言うと歩き始めた。私はあとに続いた。


 あのとき、どんな会話をしたかはよく覚えていない。ひょっとして何も話していなかったのかもしれない。ただ、彼の息遣いや、腕の肘を折り曲げたり伸ばしたりストレッチをしながら歩く姿を鮮明に覚えている。そんなにも肩がこっているのだろうかと思ったが口にすることはなった。

 今思えば彼もまた二人で歩く夜道が気詰まりだったのかもしれない。

 私からもっと話しかければよかった。プライベートにずかずか踏み込む真似をしてはいけないと、知りたい気持ちを抑え込んでいた。


「今日はどうして実家へ?」


 彼はまた小石を蹴った。加わった力の分、小石は一度坂を上がって、それからコロコロ転がり落ちていく。


「ああ、妻が里帰りしてるんだ。もうすぐ臨月だから。それで僕も里帰り」


 二年前、彼が結婚したのは知っている。

 それまでは割と頻繁にこちらへ顔を出していたけれど、結婚し家庭を持てばパタリと来なくなった。それは夫婦関係がうまくいっているということだろう。でも、今日は実家に帰ってきた。それも平日。何かあったのだろうかと気になって尋ねたのだけれど、まったく想像していなかったのでカウンターパンチを受けた気分だった。


「お子さん、出来たんですか」


 心臓が早まっていくのを気づかれないように、私はなるべく自然な声を出すよう注意しながら言った。


「うん。今月の七日が出産予定日」

「七夕に生まれるなんて、ロマンチックですね」

「そうだろう? 芸術家にでもなるんじゃないかな。現代を代表する詩人とか画家とかさ」

「先生、すでに親バカですか」


 私が言うと、彼は声を立てて笑った。


 マンションまでたどり着くと、彼は先にエントランスへ入り、私は自転車置き場へ向かった。

 ケーキの箱は私の前かごにまだある。そして、私の荷物は彼が持ってくれている。待ってくれているのはわかっていたのに私の動きは鈍かった。

 自転車の鍵をかけるとまたしてもスムースにかかった。私はキーホルダーを人差し指にひっかけてケーキの箱を持った。

 エントランスを抜けると、彼がエレベーターの前に立っていた。その後ろ姿を見つめながら、先ほど聞かされた話を思い出していた。


 そうか、この人は父親になるのか。


 それはものすごくおめでたいことで、嬉しいことで、幸せなことと喜んでしかるべきだった。だから私は努めて笑顔を振りまいたけれど、同時に柔らかで丸みのある優しい感覚がどうしようもなく遠のいていくのを感じていた。

 彼の結婚を知ったときよりも、うんと私は傷ついている。まだ彼のことでこれほど傷つけることに眩暈を覚えながら、浅い呼吸を繰り返した。


 私が近寄ると振り返ったので箱を渡し鞄を返してもらう。

 エレベーターが開き先に彼が乗り込み私も続いた。

 彼が三階と七階のボタンを押し私は「どうも」と小さくお礼を言った。

 ああ、懐かしいな、と思った。

 本当のことをいうと、私は普段、人と乗り合わせそうなときは階段を駆け上がる。誰かと二人きりになるなど落ち着かないのでそうする。三階なら楽勝だった。

 でも、エントランスで彼の姿を見つけると、私は彼の後ろに立ちエレベーターに乗り込んだ。それどころか、彼が自転車置き場に消える姿を見かけると、エレベーターの開ボタンを押して待っていた。エントランス入ってきた彼が待っているのに気づいて走って乗り込んでくる。そのささやかな私への気遣いに、にやつきたい気持ちを抑えて、何食わぬ顔で、誰にでもそうしているんだという態度で、七階のボタンを押した。

 それが私の精いっぱいだった。それで十分心は華やいだ。その気持ちを何と呼ぶか、名づけることもせずにきた。名づけてしまったら特別ではなくなると思ったから。どこにでもあるありふれたものになるのが嫌だった。

 やがてエレベーターが三階で停止する。彼は開ボタンを押しながら私のほうを見て、


「じゃあ、また」


 と告げた。

 私も「では」と言って彼の傍をすり抜けて外へ出た。

 このまま真っ直ぐ廊下を歩いていく。

 そうするべきだし、そうするつもりでいたし、そうしなければならなかった。今更、何も言えない。彼は結婚して幸せな家庭を作っている。もうすぐ赤ちゃんだって生まれる。その人に、私が何を言えるのか。たとえばそれが遥か昔の淡い記憶だったとしても、言っていいことではないように思う。まして、私の場合、それは過去の出来事ではいのだから。そう、思うのに、思いとは裏腹に私は振り返えってしまった。

 たぶん、きっとこれが最後のチャンスだ。まだ、今なら許されるのではないか。かろうじて許してもらえるのではないか。許してほしいと思った。


「先生に教えてもらっていたとき、私は一番勉強しました」


 私の言葉に彼は一瞬面食らったような顔になって、それから目元を緩めた。そんな顔を見るのは初めてで、私は息を飲んだ。


「君は僕の一番最初の生徒です。とてもいい生徒だった。君を教えたことが僕の自信に繋がった。ずっと、忘れない」


 それは紛れもない教師の顔だった。

 生徒の突拍子もない話に動じることなく、臆することなく、凛然とした姿に彼は本当に教師になったのだと思った。そして、彼の最初の生徒は私だ。それだけは今後も絶対に変わることないものだ。彼はそう言ってくれた。

 疼くような痛みが駆け巡り手足が痺れてしまいそうだった。それでも私はまっすぐ視線を上げた。閉ざされていく扉の向こうの彼の顔はかすんでいてよく見えなかった。

読んでくださりありがとうございました。



当該作品は、以前運営していた「アナログ電波塔」というサイトに掲載していた物語を少々改稿したものになります。



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