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この日はやけに街が騒々しく感じた。

騒がしいのはいつものことだが、毛色の違う騒がしさである。

火事でも起きたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。


稲荷神社を出て屋敷に戻る最中、通りを往来する者は皆一様にして噂話に興じていた。

そんな中、永久は全く興味を示さず真っ直ぐに屋敷の方向へと戻っていく。


此奴の無関心ぶりといったら……。


 私でさえ何を話しているのか些かは耳を傾けたくなるというのに、この男はまるで耳に入れるつもりは無いと見える。

背中を丸めて歩く永久を尻目に、私は足を止めしばしの間ざわつく町人達の話に耳を傾けた。


「殺しだってよ……。 なんでも今朝方、河原で死体が見つかったらしいぜ」


ほう……、殺しか。


出職といった出立ちの(もも)引き姿をした町人同士が話している。

人の口には戸が立てられぬというが、人間という生き物は兎角噂話が好きなもんだ。


「ここ数日は余所者なんて見かけてねえぞ。 一体全体、何処のどいつが誰を殺したってんだ」


 この江戸という街は人が多い割に、意外なことに治安が良い。

隣近所が顔見知りという衆人環視の環境と、事件を起こせば縁者含めて同じ土地には住めなくなるといった連坐(れんざ)の風習のお陰かもしれない。


そんな訳で、何か事が起これば真っ先に疑われるのは他の土地から流れて来た者や無宿者(むしゅくもの)である。


「そりゃ俺が知るわけないだろ。 知ってりゃとっくに御用聞きの親分に報せてるっての」


騒ぎの原因が分かり、胸のつかえが取れたところで私はまた永久の後を追った。



 屋敷のすぐ傍まで帰ってきたところで、永久は慌てて塀の陰に身を隠す。


急にどうしたというのだ、……あぁ、そういうことか。


何やら屋敷の前で数人の男が揉めているようだ。

自分の家の前でいざこざが起きていると言うのに、この男ときたら……。


隠れる永久を置いて、私は何事かと屋敷の傍へと寄って行く。

見えないというのは時に不便で、時に便利なものである。


「山野様はお留守だって言ってんだろ! 帰ってくんな!」


屋敷の中から威勢の良い女の声が響く。

一見すると(しと)やかそうな(よそお)いだが、物怖じせずに間口の外でたむろする男連中に投げるように言う。


「くっ……、下女の分際で八丁堀の旦那に楯突くだなんて……」


見るからに粗暴そうな男に七尺程の刺又を突き付けられるが、女は身じろぎ一つせずに睨み返す。

折角美しい顔立ちだというに、眉間にこうも大きな(しわ)を作り目を釣り上げては台無しというもの。


「まぁ、止せ」


 男の一声で刺又が引っ込む。

間口の内と外で睨み合うのを割って入って仲裁するのは、着流し姿ではあるが二本差しに立派な(まげ)を結った男。


「では女、山野殿が戻るまで待たせては貰えぬか?」


ニヤリと口角を上げると男は、赤い房の付いた十手をひけらかすようにして、自身の肩に清目をトントンと当てながら尋ねた。


此奴は……定廻(じょうまわり)同心か。

岡っ引きを五人も引き連れての訪問とは。


「中には上がらせないよ! それでも良けりゃ好きにしな!」


凄んで見せる同心にたじろぐ素振りすら見せず、女はそう啖呵を切る。

全く、女だてらに大した度胸だ。


それに引き換え、永久の情けないこと……。


 呆れながら永久の潜む塀を見遣る。

どうやら諦めて出て来たようだ。

永久は身を隠して遠目に屋敷の様子を(うかが)っていたが、男達がその場から離れないのが分かるとすごすごと歩き始めた。


(それがし)に何か?」


咳払いをしてさも今しがた帰ってきたふうを装う永久。

始終を知る私の目には滑稽に見えたが、まさか隠れて見ていたなぞ誰も思うまい。


「これは山野先生、良いところに戻られた」


永久の声に同心は踵を返して小さく頭を下げるが、「先生」と口にする割にはその姿からはこれっぽっちも敬意というものが感じられなかった。


 牢屋敷見廻の同心との関係は良好なのだが、どうにも定廻同心と永久は反りが合わないらしい。

まぁ、原因は同心の一方的なやっかみなのだが。


立場としては無禄(むろく)の浪人である永久が広大な屋敷に住まい、片や自身は八丁堀の拝領屋敷。

やっかむ気持ちも分からなくはない。


 先生と呼称するのは永久が「谷流」の達人であり、多くの門人を抱えているからだ。

永久の弟子には大名家の家臣も多く、師事する者の中には旗本なんかも存在する。

無関心極まりない今となっては、積極的に教えに赴く事も無くなったのだが。


椿(つばき)……、戻っておったのか」


見るからにならず者の風体をした男がずらり並んで圧を掛けるが、永久はその横をするりと抜けて敷居を跨いでいく。

そして何食わぬ顔で間口に立ち塞がる女に声を掛けた。


「はい、旦那様。 すっかり遅くなってしまいました……、何卒お許しを」


椿と呼ばれた女は、さっきまでの粗暴な物言いはどこへやら、その淑やかそうな風貌に相応しい静かな語り口で永久に向かって頭を下げた。


「気にせずとも良い、顔を上げてくれ。 そもそも、某が頼んだ用事なのだから」


 いざ捕物と言わんばかりに居並ぶ男共がまるで居もしないかのように会話を続ける二人の様子に、痺れを切らしたのは連中の中で一番大柄の男。

地面に刺又の柄をぶつけると同時にがなり立てる。


「おいおい、俺達を放ったらかしで話してんじゃねぇぞ! ナリを見りゃどんな用で来たか分かんだろうが!」


「割って入って来んじゃないよ! 今はあたしが旦那様と話してんだ。 怒鳴れば話を聞いて貰えると思ったら大違い、あんたは引っ込んでな!」


下げていた頭を上げると、椿は凍てつく視線で大男を睨み付けると早口に捲し立てた。

矢面に晒された男は口をあんぐりと開いて呆気に取られている。


「ぐ……、なんと無礼な女子(おなご)か」


余りの勢いに圧倒されたのか、傍で見ていた同心は小さく呻いてたじろぐ。


「椿……、済まんが麦湯(むぎゆ)を入れてくれ。 歩き詰めで喉が乾いた」


このままでは事が荒立つばかりだと、永久はひとまず椿をその場から遠ざけることにしたようだ。


「いけない、あたしとしたことが……気が利きませんでした。 すぐにご用意致します故……」


「急がずとも良い、ゆっくり用意してくれ」


慌てて駆けていく椿の背中を見送ると、くるりと向きを変えて永久は自身を睨み付ける連中を一瞥する。


「待たせて相すまぬ」


「女中の(しつけ)がなっておらぬようだ。 無礼討(ぶれいうち)にしてくれても良いが、……此度は多目に見よう」


嫌味たらしく言うが同心の表情に出るのは隠し切れぬ安堵の色。


(かたじけな)い、言って聞かせる故。 して各々方(おのおのがた)は何用で?」


「昨晩殺しが有ってな……。 今朝方、冷たくなった仏さんが見つかり我らが奔走(ほんそう)しておる次第」


ようやく話が出来ると同心が屋敷を訪ねて来た用件を切り出す。

何を勿体つける必要があるのか、勿体ぶるような口振りが鼻についたが、きっとこの者の癖であろう。


「知らぬ……、その一件の詮議(せんぎ)に参ったと?」


永久は眉をピクリとさせ同心にそう投げ掛ける。


「そう睨みなさんなって。 先生のご意見を伺いたいと思って参ったのだ」


意見……、屍を見せもせずに検屍(けんし)をしろと?

いや、そういう意味での意見ではあるまい。


「なれば仔細お聞かせ願おう」


「いや、仏さんと先生が昨日、一悶着(ひともんちゃく)有ったって小耳に挟んだもんでしてね」


 同心は十手の房を手で(もてあそ)びつつ「心当たりが有るだろう」と言わんばかりに、(ねぶ)るようなねっとりとした視線を永久に這わせて呟く。

当の永久は当然ながら覚えが無く無表情を張り付かせたままである。


「こちとら調べはついてんだ! おめぇさんが腰のもんに手を掛けたら慌てて逃げてったってよ!」


先程椿に言いくるめられた大男が、憂さ晴らしも兼ねてか再び声を荒げて怒鳴り立てた。


はて、昨日……。

そうか、殺されたのはあの男か。


私は往来で永久に金の無心をしてきた、小汚い身なりの素寒貧(すかんぴん)を脳裏に浮かべる。


「あぁ……、つまり某が下手人(げしゅにん)だと?」


この光景を有様にすれば、永久がそう尋ねるのも無理はないだろう。

連中は下手人を取り押さえに来たとしか見えない装いである。


「こちとらお役目で話を聞きに来ただけ、そいつは早合点ってもんだ」


不機嫌さを露わにする永久にすかさず(なだ)めの言葉を掛ける同心であったが、どう見ても疑っているようにしか見えない。


「そうか……。 某が辻斬りなぞする(いとま)が無いのは承知で有ろう? それとも……、某がまだ斬り足らぬとでも?」


「誰も辻斬りとは申しておらぬ。 まぁ良い……」


得も言われぬ不気味さを感じたのか、同心は咳払いをしてからそれまで永久に向けていた視線を逸らした。


「参考までに、如何なる死に様で?」


話の主導権を握ったと見るや、間髪入れずに永久は尋ねる。


「胴を真横に三回斬られておった。 傷は何れも深いものの、断ち切るには至らず」


「ほう、辻斬りにしても余り腕は良くないようだ。 某なら……一刀で両断する」


ずっと無表情のままだった永久は、男の死に様を語る同心に向かってニィっと口角を上げて応ずる。


「これは確かに。 暇を取らせて済まなかった、……先生」


 ゾッとした表情で草履と地面の擦れる音を立てながら同心が後ずさる。

怖気づくのも無理は無い。

この場で全員を片っ端から斬り伏せるくらいの芸当、永久には容易い事である。


そうはならぬと承知していても、目の前の人物はこの江戸で誰よりも多く人を斬った人間だ。

一挙一動に恐怖を覚えるのもまともな人間なら当然だろう。


「いや、気に召されるな。 疑義が晴れたようで何より」


ふっと無表情に戻った永久だが、話が済んだのなら帰れと言わんばかりの態度である。

根は臆病者の癖に、こういった虚勢を張るのだけは上手い。


「では、此れにて。 ……だから言ったろう、あんな(なまくら)なのは刃傷沙汰だって」


 小さく頭を下げると、同心は早足に屋敷から遠ざかりつつも取り巻きの岡っ引きに、さも「お前のせいだ」と言わんばかりに小声で言う。


「そんな! 旦那だってヤツの鼻を明かしてやるって乗り気だったじゃねぇですか!」


五月蝿(うるさ)い、大声を出すな!」


怨言(えんげん)をぶつけられた岡っ引きと同心が言い合いながら遠ざかっていく。


 やれやれ……、一先ず永久が連れて行かれる事態にはならなかったようだ。

大番屋で尋問される永久も見てみたいには見てみたかったが。



 湯呑みに注がれた湯気を立てる琥珀色の液体に永久はゆっくりと口を付ける。

炒った麦を(ふるい)にかけて粉末にした物を湯で煎ずる「麦湯」という飲み物である。

この麦湯が永久は大層好きで、良く好んで口にしていた。


元々は貴族が口にする飲み物であったが時代が下るに連れ、武士から庶民と広く親しまれる飲み物となった。


永久が麦湯を口にするようになったのは最近のことで、うわばみの如く専ら酒ばかり飲んでいた頃には考えられない変化だ。

まぁ、どちらも穀物が原料という点では広義には同種なのかもしれない。


 私個人としては酒は余り好きでは無い。

神々の中でも酒は特別な物といった認識は有るには有るが……、これまで酒に溺れて狂った者を幾度も見てきた。


それは人も(しか)り。


程々が良いのは何も酒に限った話では無いのだが……。


(へりくだ)れとは言わぬが、余り見境なく噛み付くのは感心しないな」


注がれた麦湯を飲み干すと、湯呑みを盆の上に置いてから永久が椿を(たしな)める。


「あたしが忠義を尽くすのは旦那様だけです」


土間と居間の境に設けられた上框(あがりかまち)に正座した椿が伏し目がちに答える。


 全く……、苦参といいこの娘といい、こんな男に何故こうまで尽くすのか。

私には到底理解が及ばぬ。


「では……、その忠義を尽くす某の頼みだ」


「そう申されますと……」


曇った表情で顔を伏せたまま椿が呟く。

要約すれば「俺の頼みが聞けないのか?」という趣旨の言葉である。

忠義を尽くすと言った手前、断る訳にもいかないだろう。


「そもそもだ、某にもそうまで謙る必要はない。 だから、その半分でも他者に……」


困惑する椿の様子を目にして、意地の悪い言葉を掛けてしまったと気付いた永久はしどろもどろに口にした。


「いえ、これはあたしが望んでのことですので。 ……ご迷惑でしょうか?」


椿は伏した顔を持ち上げると、永久を上目遣いで見つめて尋ねる。


「そうは申しておらぬ……。 ところで、遣いの件はどうであった?」


今度は自身が困惑する羽目になってしまったところで、椿の問い掛けをはぐらかしつつ永久は話頭を転じた。


「はい、書状と携えた品は滞りなく。 『直ぐにでも参られよ』との事でした」


つい今までの態度とは違い、冷え冷えとした口調で椿が答える。


この娘……、どうしてこうも永久に関する話題以外にはとことん淡泊なのか。



 この椿という娘、元はといえばこの屋敷に盗みに入った盗人であった。

それが何の因果かこうして物好きにも女中として仕えている。


あれは一年程前であろうか……。


永久ときたら盗みに入った椿と鉢合わせると、取り抑えるどころか飯を振る舞った上に宿銭まで渡す始末。


当然ながら捕縛して突き出せば死罪は免れないであろう。

そして、その首を討つのは……。


不憫に思ったのか、それとも自身の背負う業に対する(あがな)いか。

そんな永久の行ないから、この椿という娘がこうまで心酔するに至ったわけだ。


こうも綺麗な女だ。

以前の永久に捕まっていれば、きっと遊郭にでも売り飛ばされていたであろう。

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