壱
真っ赤な鮮血が舞ったかと思うや否や、崩れ落ちる胴体。
首と胴が分たれたせいである。
土に丸く掘られた穴に血溜まりが拡がるが、一升五合程流れ出るとそれも直ぐに止む。
急激な血管の収縮によるものだろう。
……込み上げる嘔吐感を必死に堪える。
くっ、罪人の首一つ跳ねるだけでこうも心を乱しおって。
身から出た錆とは言え、天狐たる私が斯様な目に遭わねばならぬとは……。
血振をしてから刀を鞘に収めると、ひょろっとした男は踵を返し麻裃を纏った牢奉行に一礼する。
そして直ぐに首斬場を後にしようと大股に歩き始めた。
「相変わらず見事なもんだ。 お務めも終わったことだし、中で茶でも飲んで行かれては?」
「いえ、人を待たせておりますので某はこれにて……」
同心が男を引き留めるが、そう断りの言葉を残してそそくさと牢屋敷を後にする。
そりゃそうだろう……、今お茶なぞ飲もうものなら堪え切れぬ吐瀉物を辺り一面にぶち撒けるだけだ。
涼しい顔を装って男は牢屋敷から出ると、おもむろに背中を丸めて練り塀に手を着く。
そして……、堀に向かって嘔吐する。
くっ、多少は成長したかと思えば結局嘔吐しおって……。
吐く物も無いのに嘔吐せねばならぬというこの身に起こる不運を嘆きながら、私は恨みを込めて男を睨む。
全てはあの子の為……。
この程度の災咎なぞ甘んじて受けようじゃないか。
今まで生きてきた千四百年の月日に比べれば短いものだ。
人の身で送る生涯は精々、五、六十年といったところだろう。
この男、「山野永久」の余生を見届けろというのが「ウカノミタマ」から科せられた私の罰なのだ。
私が一思いに殺してしまえばそれでこの男の余生は終わる。
だが……、そうもいかない。
ウカノミタマはこの男の、幸せな余生を見届けろとの条件を付けたからである。
考えあぐねた私は静かに「山野永久」が余生を終わらせるのをこうして見ているのだ。
フラつく足取りで自身の屋敷へと帰る永久の後ろに私も続く。
明らかに行き交う通行人は彼を避けるようにして擦れ違うが、本人は特段気にしてはいないようだ。
「待ってたぜ、山野様よぉ!」
皆が避ける中で如何にもごろつきといった風体をした、髭面で清潔感を微塵も感じさせぬ男が永久の前に立ち塞がった。
「某に何か用か?」
「金を貸してくれ! 少しで良いから!」
男を見もせずに永久が尋ねると、唐突に男は金の無心を要求し始めた。
人に物事を頼むのに頭一つ垂れぬとは、風体通りこの不潔な男は人に対する礼儀を持ち合わせていないと見える。
外に出て談笑していた町人達がその様子を見てそそくさと長屋の中に戻って行く。
巻き込まれたくないのであろう、賢明な判断だ。
「何故、面識も無い人間に金を貸さねばならぬのだ?」
「どうせそのうち旦那に首を落とされるんだ! 三途の川の渡し賃の前借りってことでさ!」
気怠げに尋ねる永久に、往来中響き渡る大声で男はガハハと笑いながら答える。
態度同様、声も何ともでかい。
「では、此処でその首刎ね落として構わぬか? さすれば六文銭はくれてやる」
永久は腰に差した刀の鯉口を切りながらニヤリと笑ってみせる。
「冗談だって、六文ごときで首を刎ねられちゃたまったもんじゃねぇ! あっ、俺用事を思い出した……。 すまねぇな、時間取らせちまって!」
大男は転がるようにしてその場から一目散に逃げていく。
態度はでかいが肝は小さかったようだ。
男が逃げて行くと同時に、少しだけ開いた長屋の戸が一斉にピシャっと音を立てて閉まった。
腰の刀を差し直すと、永久は素知らぬふうを装って歩き出した。
顔に出さぬようにしているが、内心安堵しているのは手に取るようにわかる。
何故なら……、私と永久は感覚を共有しているのだから。
共有と言うと語弊が有るかもしれない。
私の感覚は永久には伝わらない。
そもそも私が彼をずっとこうして見ているのすら気付く事は出来ないであろう。
一方的に私にだけ流れ込んでくる。
感覚だけでは無い、感情も記憶も自由に読み取ることが出来る。
尤も、私自身はこの男にこれっぽっちも興味は無いのだが……。
しばらく歩き続けると黒板塀に囲まれた屋敷が見えてくる。
幕臣でも無いのにこれだけの屋敷に住まうのは江戸中でも一握りであろう。
全く……、浪人風情がこんな贅沢な屋敷に住みおって。
だからあんなごろつきに絡まれるのだ。
そんな浪人に相応しくない屋敷の門前に立つ小さな人影が見える。
「お帰りなさいませ、永久様」
永久の姿を見つけるとその人影は仰々しく礼をする。
「あぁ……、来ていたのか。 こんな処に立たずとも、勝手に上がってくれていて良かったのに」
白い小袖に緋袴、赤い鼻緒の草履。
一目見て神事に奉職する者で有ると判る出立ち。
だが、常人と異なるのはその髪と瞳の色。
老成によるものとは異なる艶やかな光沢を放つ銀糸の如き眩い髪。
椿の花よりも深く美しい澄んだ真紅の虹彩。
おおよそ通常の人間とは異なる浮世離れした特徴を持つ彼女……。
彼女こそが私の生きる意味。
そして生きる全てである。
彼女の為ならこの身の全てを捧げても良い、そう思う程に私は彼女を溺愛している。
例え触れる事叶わなくとも……。
例え言葉が交わせなくても……。
例えこの身が無に帰そうとも……。
この子が幸せなら私はそれだけで良い。
「いえ、勝手にお上がりするなんて滅相もない!」
彼女は大袈裟な身振りで手を振って永久にそう応じた。
小袖から覗く白く華奢な腕が風花のように美しく映える。
「こんな処にずっと立っていたら脚も疲れるだろうに。 ほら、茶ぐらいしか出せんが中に入ろう、苦参」
「苦参」それが最愛の人の名である。
永久め、私の苦参の名を気安く呼びおって。
「永久様……、本当にお優しくなられましたね」
「そうか?」
「以前までは、私は敷居を跨ぐことすら許されませんでしたので……」
おっかなびっくりと敷居を越えつつ苦参は小さくそう呟く。
「苦参、それはもう何回も聞いた。 ほら、入るぞ」
「それでも未だに信じられなくて……。 本当に人が変わったように永久様はお優しくなられました」
人が変わった、……か。
真実を知らぬというのに、言い得て妙である。
文字通り、……人が変わったのだ。
この男は「山野永久」であって「山野永久」では無い。
その事実は私とウカノミタマ、そして彼自身しか知らぬ処。
もっとも、永久自身の認識は朧げで了知には至らぬと言ったところだが。
「不服か?」
「とんでも御座いません! 大事にして頂けるのは……嬉しいです。 でも、わたくしなんかが良いのかと思いまして……」
「そんな卑下した事は申すなと言ってるだろう? 不服でないなら問題は無い、伴侶として相応しい扱いをしているまで」
伴侶という言葉に私は耳をぴくりとさせると、波立つ心を苦参の美しい横顔を見て鎮める。
苦参と私が出会ったのは、まだ彼女が齢幾何もしない頃だった。
私は祀られる対象である祭神として、苦参は私を祀る神社の子として。
そもそも稲荷神社が祀る対象はウカノミタマである。
戦乱の世が終わり太平の世となったのは結構だが、人々は平和を手にしたと思うと次はより豊かな生活を求め始めた。
人の欲というものは奈落の如く際限が無い。
そんな事情で江戸の街には稲荷神社が乱立する運びとなった。
ウカノミタマだけではとても手が回らないと、代役として多数の空狐や天狐が駆り出された訳だ。
苦参はその特異な外見のせいで周囲に疎まれた。
そんな彼女が心の拠り所としてくれたのが私だったのだ。
苦参は一日の終わりに必ず社に訪れ、その日一日の出来事を私に話してくれた。
最初は何だこの無礼な小娘は、と思っていたのだが……。
返事なんて返って来るはずも無いのに、毎夜毎晩欠かさずに苦参は社に訪れた。
徐々にそんな彼女の事が愛おしくて堪らなくなったのである。
千四百年の月日を過ごして来て、こんな感情が私の中に芽生えたのは初めてであった。
ある日を境に苦参が訪れない夜が続いたのだ。
彼女の身に何か起きたのやもと私は祭神としてあるまじき事だが、酷く心を掻き乱した。
幾つかの夜を経て、ようやく苦参が社に訪れた。
私は苦参が無事であったことに安堵したが、彼女の言葉で再び波立つ事となる。
聞けば苦参は「山野永久」なる人物に見染められ、許嫁となったと言うではないか。
この山野永久という男、『刀剣御試役』なる役に就く武士とのこと。
私は狼狽えたが苦参が幸せならばと自分に言い聞かせた。
だが、聞けば聞く程にこの「山野永久」なる人物の悪人ぶりが露呈していく。
私は胸中で沸々と鬱積する怒りをただ耐え忍んだ。
山野永久の仕事は『罪人』を斬ることと『妖』を斬る事。
それだけならば別段問題は無い。
だが、それは刀の斬れ味を試す事も兼ねておりむしろ其方に重きを置いているものであった。
地位有る武士どもは自身の所有する刀がどれだけ人を斬ったか、どれだけ妖を斬ったかでその箔を競うのだと。
それをあたかも自分の力のようにひけらかし誇示し合う。
全く……、人間の考える自己顕示欲というのは馬鹿げた話である。
おまけに己に妖を斬る力量も無い癖に、そんな既成事実だけを欲する。
だからこそ、他の誰かがお役目という名目で金と引き換えに請け負う訳だ。
そんなつまらぬ話に今更私は憤りもしないし、好きにすれば良いと思った。
だが、そんな愚かな人の輪の中に苦参が巻き込まれているとなると話は別だ。
人が妖を斬ればその身に瘴気を取り込む。
その瘴気はやがて穢れとなって身体を蝕んでいく。
……苦参にはその穢れを祓う特殊な力が有ったのだ。
そんな彼女の力に目を付けた山野は、役目以外にも積極的に試し斬り名目の妖狩りを請け負った。
全ては己が私服を肥やすが為に。
それでも苦参は嬉しそうだった。
誰かに必要とされる事に心からの喜びを感じているようだった。
それが人としてでは無く、金儲けの道具としてでも。
ある夜、苦参は腕に怪我をして社を訪れた。
聞けばあの男に目隠しをされたまま妖の住処に放置され、彼女は妖を誘き寄せる囮に使われたのだという。
腕の怪我はその時に負ったものなのだと。
怪我をしているというのに彼女は、山野の役に立てたと嬉しそうだった。
あの男の苦参に対する扱いは日増しに酷くなる一方である。
このままではいずれ苦参は……。
許せない。
いっそこの手で……。
そう考えた瞬間、義憤が理性を上回った。
腹に据え兼ねた私は社を飛び出して山野永久の屋敷をまっしぐらに目指していた。
事も有ろうにこの男、苦参に怪我をさせておいて呑気にも酒を引っ掛けている。
私の怒りは頂点に達して尚も加速していく。
そんなに斬るのが好きだと言うのなら、いっそその身で斬れ味試してくれよう……。
ここ数百年は人の姿なぞ取ったことは無かったというのに斯様な形で使うことになるとは。
私は無造作に置かれた刀の内の一振りを手に取る。
大きく振り上げた刀を躊躇いなく、片膝を着いてお猪口を啜る山野の肩口目掛けて斜めに一気に振り下ろす。
振り抜いた刀から血が滴り落ち、袈裟斬りにした山野は血飛沫を立てながら絶命した。
こびりつく血すら拭わずに私は刀を鞘に収めようと、鎺が鞘に押し込まれる抵抗を感じたところでふと我に帰る。
血塗れで転がるこの男の命を怒りに任せて奪ってしまったが……。
善狐たる私が悪戯に人を殺めたとウカノミタマに知れたらどうなる?
如何なる罰を下されても構わぬが、当然の如く私は祭神としての座を追われるだろう。
勿論、苦参とはもう会えまい……。
それだけは何としても阻止せねば。
さすれど、この男を手に掛けてしまった事実は消えない。
そしてこの男を生かしておくつもりも毛頭ない。
だが、苦参と会えなくなるのはご免だ。
浅ましい考えの末に私が導き出したのは……、「稀人」の魂を山野永久に移す。
先の世か後の世か、いつの世の者かも知れぬ常世と現世を彷徨う魂。
それをこの男の躯を器として現世に留まらせる。
「山野永久」として。
躯はとてもじゃないが使えた物ではなく、姿形も稀人のものになってしまったが仕方ないだろう。
齢五十に届こうかというこの者の姿が急に別人の若者へと変わろうと、誰も不思議には思わない。
私の手でこの「山野永久」という人間の存在は歪められたのだから。
関わった者の記憶もそれに合わせて書き換わる。
つまり、記憶の中のこの男は全て今の姿に置き換わり上書きされるのである。
直ぐに私の行いはウカノミタマに露見した。
私は祭神を追われるのは免れたが、社への立ち入りを禁ぜられると共に力の大半をも封ぜられる結果となった。
おまけに、私が顕現させた「山野永久」であって「山野永久」でない者の行く末を見届けよ、とウカノミタマはそう仰った。
その後については私の行動如何で決めるとの御達しである。
私は自身の処遇を特に不満は述べず受け入れた。
苦参との安らかな刻を奪われはしたものの、影から見守ることは出来ようと心弛びさえ覚えたのだ。
こうして、ほぼ御霊のみの存在となった私は今に至る。