赤い鎖
早織は規則的に首を振る扇風機に吹かれながら、上に何も掛けずに心地良く昼寝をしていた。しかし、夕暮れ時の蝉がジージーと五月蝿くて、布団に寝そべりながら白いスマートフォンを起動させ、小さい頭に黒いヘッドホンを付けた。風が、締め切られたカーテンを揺らし、隙間から自己主張する西日が、彼女の大きな欠伸を表に映した。
早織は録音した自分の歌声を聴きながら、目的も無く彼女自身のSNSのページを開いた。気怠そうに画面をスクロールして、時々いいねを押しながら、その殆どを流し読みしていた。彼女のアカウントは常に更新されるように多くをフォローしている反面、彼女は自分から発信することは少なかった。今は友人らしい友人もおらず、インターネット上に自分の居場所を観念していた。しかし、それが実体の無い口汚しのようなものだと彼女も気づいていた。
早織は閑静な住宅街の一角で一人暮らしをしていた。やや年季の入った木造建築のアパートで、その三階に彼女の部屋はあった。カーテンが締め切られた薄暗いワンルームの部屋には、彼女が横になっている布団とアコースティックギター、赤いノートパソコンが乗った炬燵テーブルしかなかった。物が少なく殺風景だが、几帳面に整っていた。
早織は売れないアマチュアミュージシャンであった。彼女は時々街中に赴いては弾き語りをしていた。しかし、売れないことが彼女の悩みではなかった。敢えて言葉にして言うなら、今当然のように生きていることに不安感を覚えているのであった。慣れとは心底恐ろしいものだと感じていた。幼少から生を当たり前に享受してきたつもりなのだが、その当たり前な理で毎日肩が凝っていた。なぜなら、最近当たり前に生きることができなくなってきてしまったからであった。
一つは金だ。早織は、先々月サービス業のバイトを辞めた。突然職場に向かえなくなってしまった。接客中知らない男性を目の前にすると、息の仕方が分からなくなり、その場から動けなくなってしまうのであった。初めは我慢していたが、そうこうするうち家からも出られなくなってしまった。上司や同僚は気遣いをしてくれていたのだが、これ以上迷惑をかけられないと思い辞めた。そして二月が経ち、少しはあった貯金が食費と光熱費と家賃、そして薬代で殆ど尽きてしまった。金が無くなると、自分への投資が馬鹿馬鹿しくなり、家族や行政に助けを求めるのも面倒になってしまっていた。
もう一つは生きる気力が無いということだ。言い換えるならば生きる方法が見つからないのだ。金が無いことは問題だが、それ以上に何処に向かえば良いのか分からない焦燥感の方が身体に毒であった。二進も三進も行かないまま同じ場所をぐるぐるしている訳である。気がついたらまた朝が来て、唸っている間に日が暮れる。早織が幾ら思い悩もうと、幸か不幸かお天道様は二十四時間年中無休で働くのである。今日は七月二十八日。間も無く月も変わってしまう。毎日を休日の如く過ごしていることに嫌気はあったが、正直カレンダーさえどうでも良くなってきてしまっていた。
早織は何か特別なことをする訳でもなく、そんな風に毎日を消化していた。何とかして金を確保することは急務であったが、自分の事はいつも後回しにしてしまうのであった。
自堕落な引き篭り生活であったが、一日一回日が暮れる前に、ギターを背負って、家から徒歩二十分ほどの二丁目の角のコンビニに足を運んでいた。そこでは真皓という友人がアルバイトをしているからであった。二人は元々SNSを通じて知り合ったが、近所に住んでいることが分かって会うようになったのであった。彼女は早織が音楽をやっていることを知り、応援もしてくれているのであった。
早織は今日も彼女の顔を見に行こうと、外着に着替えて、家を出た。夕暮れ時と言えどとても暑かったが、今の早織には片道二十分の道も苦ではなかった。雲一つない空に真っ赤な夕焼けが映し出されていた。
早織はコンビニに入ると、真皓を探し出し、十分くらいうろうろしながら観察した。店の中は仕事を終えた人たちで混んでいた。そのコンビニが余程人不足なのか、それとも別の理由なのか聞いてはいないが、真皓は粗毎日働いていた。彼女以外のスタッフが居ない訳ではないのだが、彼女だけが熱心に働いているように見えた。
気が済むと、早織は何時ものようにミックスサンドイッチと缶のカフェオレを手に取り、真皓の前のレジに並んだ。もう一つのレジの方が空いていたが、こちらを選択した。レジで真皓と二言三言会話するのがある種のルーティンとなっていた。
早織は購入後、コンビニすぐ横の公園にあるブランコに座って食べることにしていた。時々ゆらゆら揺れながら、遠くにうっすら見える街の灯りを繋いでいた。食べ終わると、お気に入りの煙草を吸いながら、アコースティックギターを取り出し、チューニングするのであった。
チューニングを終える頃に、休憩に入った真皓が走ってやって来た。彼女はブランコを囲う鉄柵に腰掛けて、飲み物と軽食を摂りながら、早織の観客になるのであった。街灯が丁度早織を照らし、ステージの様になっていた。
早織の歌は殆ど彼女自身の抱える苦しみの吐露であった。公園のブランコに支えられながら歌う。歌は苦悩の解決手段として始めたものであった。歌っている間だけは時間が経つのを忘れて自分の世界に没頭出来るのであった。
早織は毎回、十曲程ある自作曲を一通り歌うことにしていた。今日も同じように歌い出した。それを聴く一人の観客は、珍しく笑顔を止めて、胸元の銀の首飾りを手に取って少し寂しそうな顔をした。誰しも心内に抱えるものがあって、人間というのはそれを表に吐き出さなければ壊れてしまう生き物なのだと早織は知っていたが、真皓が見せた表情から何を抱えているのかを読み取ることはできなかった。
真皓は一曲終わる度に笑顔を戻して拍手した。早織は何も言わないが、その笑顔を見て少し心が安らいだ。しかし、また歌い出すと、その表情になった。
そうして、小一時間で歌うのを止めた。日はすっかり暮れていて、夏の夜になっていた。歌い終えた早織の耳に鈴虫や蟋蟀の心地良い鳴き声がうっすら流れてきた。早織はブランコを揺らしながらもう一本煙草を吸うことにした。その間に観客は荷物を纏め、懐から取り出した四号の封筒を早織の前に置いた。早織はその中身が五百円玉だと知っていた。何時も聴かせてくれた礼だと言って置いていくのだ。最初は断っていたのだが、彼女に説得されて受け取るようになった。
真皓は別れを口にして、走ってコンビニに戻っていった。早織はブランコから立ち上がって彼女を目で追った。今日の真皓が何だか奇妙に感じたからであった。
早織は真皓が見えなくなったのを確認して、吸い終えた煙草を携帯灰皿に片付けた。そして、その封筒を手に取ったのだが、何時もと違うことに気づいた。中に入っているのは手触りからして明らかにコインの類では無かった。では何だろうと不思議に思ったが、帰ってから確かめようと鞄に仕舞った。そして、ギターの弦をクロスで一本一本拭き、ケースに片付け、公園を後にした。
家に向かって帰る途中、忘れかけていた蝉の鳴き声が急に戻ってきた。何か大きな物がジリジリと背中に詰め寄ってくるような感覚であった。蝉がいくら風物詩と言えど、もう夜だ。夜鳴く蝉なんていないはずだと思ったが、彼らが短い命を全力で燃やしているのだと考えると、何も批判できなかった。寧ろ蝉と比較した時の自分の罪深さが身に沁みた。
早織は家に着くと鞄とギターケースを床に置き、身体を布団に投げ込んだ。先程の罪悪感が積もって黒い油のように変わり彼女の胸の中で蠢いていた。その気持ちの悪い苦しみが早織の手を動かし、首を絞めようとした。早織は何とかその意思に抗い、溢れる涙を後回しにしながら起き上がり、精神科に処方されている頓服の抗鬱薬を流し込んだ。
薬が効いてくるまでの三十分弱の時間、苦しみと格闘した。毎日のように同じような苦しみと闘っているが、今日は一段と苦しかった。いっそ死にたいから殺してくれと神に願いながらも、昔あの公園で彼女に会った時に貰った赤い首飾りを両手で握り締めた。
そもそも二人ともハンドメイドをしていたことが仲良くなった切っ掛けであった。初めて会ったその日に、早織は真皓に銀の首飾りを、真皓は早織に赤の首飾りを贈り合ったのであった。
そうしてから半年以上経つが、早織はその首飾りを一度も外したことがない。金属の鎖で出来ているので、風呂も付けたまま入ることが出来たのだ。彼女が苦しい時は、それを握って凌いできた。早織にとっては御守りのようなものであった。
鬱は容赦無く早織に苦しみを与えた。苦しい。
苦しい。ベランダから飛び降りなければ、どうにかなってしまいそうだ。
苦しいということ以外を考えられなかった。蝉の音がノイズのように頭に張り付いている。
苦しい。この胸を裂けば、全て流れ出て楽になれるだろうか。
早織は赤い鎖を握り締めながら、必死に彼女の笑顔を頭に留めた。
長い長い三十分が経ち、漸く薬が効いてきて、胸の苦しみは幾分楽になった。といっても何かする気にもならず、時間も九時を回っていたので、早織は大人しく眠ることにした。
歯を磨き、同じく処方されている睡眠薬を飲んだ。医師の指導で生活リズムを整えるように言われていて、そのための薬であった。早織は布団に入って間も無く、蝉の鳴き声に追われるように意識を落とされた。
早織は虫が知らせたかのように意識を再開した。というよりいつの間に眠っていたんだと思った。長い瞬きという感じがするのは、恐らく薬で眠っているからであった。外では相変わらず蝉が鳴いていた。
早織は、少し上体を起こして、机に置いてあったスマートフォンで時間を確認した。六時間余り眠っていたようだ。顔が何だか気持ち悪いと思ったら、何故だか目が涙に濡れていた。また悪夢でも見たのかもしれないが、さっぱり覚えていなかった。早織はよく夢で殺されるのだ。
寝起き特有の喉の痛みがあったので、早織は布団から這い出て、台所に水を飲みにいった。汗で夏風邪でもひいたかとも思ったが、薬の副作用に喉の乾燥があったのを思い出した。
時間も時間なので、布団に戻ってもう一度寝ようかとも考えたが、目が冴えてしまっていた。家の中で出来ることは特に無く、昨晩外着のまま着替えずにいたのもあって、近所を散歩をすることに決めた。早織は喘息持ちで、運動は得意ではなかったが、昔から散歩が好きであった。考え事をしたり、何もする気が起きない時に散歩することが多かった。
早織はアパートの階段をゆっくり下り、外に出ると、少し涼しい風が吹いていた。歩き煙草が良くないことだとは分かっていたが、誰も歩いてないことを良いことに、早織は鞄から煙草を取り出そうとした。そこで、昨夕真皓に貰った封筒に気がついた。帰ったら開けようと思っていたのだが、体調がそれどころではなく、失念していたのであった。
中身はやはり五百円玉では無かった。早織は煙草を口に咥えながら、その中に入っていた薄紫色の紙を取り出した。丁度封筒に収まるくらいの長方形の紙に、ボールペンで走り書きされたメッセージが書かれていた。
題を見て早織は目を見開いた。遺書、となっていたからである。
遺書
さっちゃんへ
さよなら。
今までありがとう。
真央
早織は上着のポケットから急いでスマートフォンを取り出して真皓に電話を掛けたが、出ない。もう一度と掛け直してみたが、やはり出ない。早織は咥えていた煙草を道端に吐き出して、真皓が働いているコンビニに向かって全力で走り出した。もしかしたらまだ働いているかもしれないと思ったからである。
すぐに息が上がって苦しかったが、赤信号も無視して走り続けた。信じられない。真皓の冗談に違いない。こんなの笑える訳がない。必死に自問自答しながら、走り続けた。途中サイレンを消した救急車とすれ違ったが、振り返らなかった。
コンビニまで後少しというところで、早織は左の足首を捻った。電気のような激痛が走って、一瞬立ち止まった。目に涙が浮かび、勢いで押し殺していた疲労がどっと降ってきた。それでも何とか脚を引きずりながら早足で歩いた。
コンビニに着き、入口のドアの手前で早織は一度深呼吸した。そしてドアを押し開けて、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。深夜ということもあって客は誰も居なかった。店員はというと、アジア系の外国人男性のみで、真皓の姿は無かった。きっともう上がってしまって、家にいるに違いないと言い聞かせた。不安は拭えなかったが、彼に確認する訳にもいかないと思い、店を出た。
早織は真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。彼女の家に押し掛けることも考えたが、家の場所を細かく知らなかった。足首の痛みが酷く、公園で少し休むことにした。何も考えたくなかった。落ち着ける場所に行きたかった。
何時ものようにブランコで気を紛らわそうと思った。しかし、そうはいかなかった。目を疑った。ブランコの間で、真皓がロープで首を吊っていた。公園内の街灯が彼女の首元を照らし、銀の首飾りが反射して輝いていた。彼女はライトアップされたように宵闇に浮かんでいた。早織は時間が止まったかのように動きを止め、それに見惚れていた。
数秒、いや十数秒経った頃に、早織はふっと我に帰り、改めて目の前の現実をぼやけた目で確認した。早織は突然陸と海が入れ替わったような重圧に襲われながら、バタバタと重たい空気を掻き分けてブランコの方へ駆け寄った。早織には真央がまだ死んでいないのではないかと思った。なぜなら、首吊り死体が悲惨な姿になることを調べて知っていたからだ。早織は真央の首元が楽になるように、身体を支えながら、片手でスマートフォンを取り出し、百十九番をした。
五分と経たずしてサイレン音をやや抑えた救急車がやってきた。三名の救急隊員の手によって、真央はブランコから大急ぎで降ろされ、担架に乗せられた。そして、そのまま救急車の方へ運ばれていった。
早織は一連の動きを横で見ていたのだが、真央が見えなくなると、腰が抜けてしまいブランコの横から動けなくなっていた。若い救急隊員が一緒に乗っていくかと早織に聞いたが、早織は言葉を出すことができなかった。その様子を見て救急隊員は迷いを振り切って、救急車の方へ走っていった。
程なくして救急車のランプが点灯して、何処かへと発進した。早織の頭の中ではさっき答えられなかった言葉がぐるぐる回っていた。
早織は、数時間もの間ブランコの横で座り込んでいた。時折公園の側を人が通り過ぎたり、寝静まった町が寝返りを打つ音が聞こえた。早織はただ呆然と遠くを見ながら今日の出来事を振り返った。疑念と不甲斐無さと、そして自分自身が生きている価値について、只管問答をしていた。真央は生きているだろうか。
徐々に東の空が明るんで、気づいた頃には朝日が顔を覗かせていた。眠っていた町も目を覚まし、車の往来がノイズのように静寂を打ち消した。それに負けじと蝉も活動を始め、賑やかな夏の景色に戻っていった。
小学生くらいの子ども集団が公園にやってきた。世間はもう夏休みであった。早織は何だか居辛さを感じ、家に帰ることにした。何も考えたくなかった。早織は俯きながら歩き出した。ブランコのすぐ側にある大木の下には数匹の蝉がひっくり返っていた。
真夏の太陽はまだ朝だというのに猛暑の働きであった。早織は少し汗ばみながら、歩き方を忘れてしまったかのような様子で家を目指した。
早織はやっとのことでアパートの階段を上り、家の扉を開けると、玄関に前のめりに倒れこんだ。そしてそのまま靴も脱がずに仰向けになった。胸を上下させながら、ただ呆然としていた。
そのままどれ程経っただろうか。憂鬱とは異なる絶望を溜め込んでいたのだが、突然チャイムが鳴った。早織は我に帰り、涙を服の袖で拭いながら、立ち上がった。靴を脱いで戻ってくるのが億劫で、インターホンには出ず、そのままドアを開けた。
そこには中年の郵便配達人が立っていた。何の用だと聞く前に現金書留だと伝えられた。それも真央からの。早織はなぜ真央から現金書留が来るのかと疑念を抱いたが、取り敢えずサインをして受け取ると、急いで部屋に戻った。
テーブルの前に正座して、パソコンを片付けた後、少し間を置いてから、早織はその書留を丁寧に開封した。中には三つ折りにされた手紙と、札束が入っていた。早織はその現金に戸惑いを隠せず、恐怖すら覚えた。早織は恐る恐る手紙を開いた。
遺書
伊藤早織様へ
この手紙を読んでいる貴女はきっと驚いているでしょう。貴女の話は結構聞き出したけど、私自分の話はあまりしなかったものね。遺書なんて書いてしまったけど、正しくはお別れの手紙です。貴女にはきちんと別れを言いたかったのですが、口では言えそうになかったので手紙にしました。ちなみに、この前の遺書はちょっとしたジョークです。貴女はきっと笑わなかったでしょうけど。
私は今日で命を終えようと決めていました。実は貴女に会う前から病気で余命を宣告されていました。もちろん悪あがきをして治療すれば多少なり伸びたかもしれません。しかし、私は、この自分の運命を受け入れることにしました。決めた日まで普通に生きて、そして自ら命を絶つということにしたのです。
毎日馬鹿みたいにコンビニでバイトしていたのは、仕事を辞めた貴女が毎日家を出る機会を作れたらなと勝手ながら思っていたからです。気づいていましたか?毎日働くようになったのは、貴女が仕事を辞めた後からだということを。なんてカッコつけたけど、ここ数ヶ月はお金が無くなってきていたのもあるんだけどね。
さっちゃん。貴女にしか歌えない歌が本当に好きでした。観客はいつも私だけでしたが、いつか世界に認められる日が来るはずです。今の貴女には世界がどのように見えているでしょうか。悪意やわだかまりで満たされているのかもしれません。しかし貴女にしか分からない世界の美しさがあります。私はそれを教わりました。私は命尽きようとも貴女の中に生きています。
それと同封されている現金は自由に使ってください。本当はこれからも貴女の歌を聴いていたかった。だからこれからも盗み聴きします。先払いということで受け取ってね。
最後にもう一つカッコつけて貴女に私の好きなアーティストから言葉を借りて贈ります。
All in all is all we are.
応援しています。
川村真央より
早織はあまりの衝撃に愕然とした。涙すら出ず、その整った文字列を何度も何度も読み返した。頭に真央の昨日の表情が過ぎり、その意味を漸く理解した。後悔の念が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。もっと真央のことを気にかけていれば、せめて話だけでも聞いておけば良かった。早織は何かが切れたかのように声を上げてわんわんと泣き出した。
後日、真央が助からなかったことが分かった。彼女の笑顔をもう見ることはできなくなってしまったのだ。早織はその都合の良すぎる金をどのように使うか、或いは使わないのか何日も悩んだ。最終的には、そのほぼ全額でアコースティックギターを一本買った。生活費に充てようかとも考えたが、そちらは主治医から行政に支援を頼むのが良いと勧められ、それに従うことにした。どうやら重度の鬱だったようだ。
それからも早織は歌い続けた。そのうちバーでの演奏を頼まれたり、イベントに呼んでもらえることも増えてきた。彼女のファンも増えてきたが、そこに真央がいないことが早織の一番の哀しみだった。何を歌っていいか分からなくなったり、何に対して歌っていいか分からなくなることも少なくなかった。
それでも早織は歌い続けた。自主制作だがCDを出すことができるようにもなった。このギターを持って歌い続けることが、彼女の今生きる意味であった。時折寂しさや絶望感から、苦しむこともあった。その度に首にかかった赤い首飾りを握りしめて耐え凌いだ。
今でも早織は毎日のようにあの公園に足を運んでいる。それを知るファンは誰もいない。早織は一人で歌っている。いつまでも。いつまでも。