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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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夏の青いベンチ

作者: 加藤

ほんの少し、彼の頃の色と匂いと味と音とを思い出す。

僕は小さな公園にいた。

さび色の匂いを携えた風が頬を刺す。灰色の雲からは今にも雨が降ってきそうだ。

昔は緑に囲まれていたそこは、今では見る影もない。周りにはコンクリート色のマンションばかり立ち並んでいる。

よく遊んでいたブランコも撤去されてしまっている。きっと留め具が古くなったとかそういう理由だろう。ゴロウちゃんと遊んでいたシーソーもボロボロだ。何度も一人で練習した鉄棒。あの頃は随分と高い場所にあると感じた鉄の棒も、今では僕の腰の高さ程も無い。広いと思っていた砂場も、久しぶりに見ると、実はひどく小さかった事が分かる。

ひゅう、と不意に冷たい風が吹いた。鉄と錆びの匂いがする。風に熱が奪われていく。その風と同時に、みゃあ、と鈴の音を転がすような、温かさのある鳴き声も聞こえた気がした。居場所を知らせるような、そんな声。探すまでも無く、すぐにその子は僕の目に入って来た。

 カトウさんがいつも座っていたベンチの上に、その子はいた。青かった筈の、今は塗装が剥がれ、茶色い板が表出してしまっているベンチ。その上に、前脚を体の下に折り畳みながら猫が座っている。黒い、艶やのある毛並み。真っ直ぐに僕を見据えるその瞳は、その猫の気性を感じさせた。ぼさっとしていないで早く此方に来い。不思議とこの黒猫がそう言っている様に感じた。促されるままにベンチに近づいて行く。

近付くと、ベンチの変わり様をよりよく感じた。可愛らしい明るい青色をしていたベンチは、僅かに残っている青色が黒く濁っており、茶色い板が見えている部分はささくれ立ってしまっている。何故だか寂しい気分になりながら、僕は黒猫の隣に座った。長く歩いてきたせいで、少し疲れている。背もたれに背を預け、息をほぉっと吐き出す。それに合わせてか、猫もまた僕を見て、みゃあ、と鳴いた。この猫も近くで見ると随分と歳を取っていた。毛並みは整えられているが、艶はあっても張りがない。黒い毛に映える桃色の鼻をしているが、鼻には少し潤いが無い。毛が良く整えられているのは、あるいは何処かの飼い猫だからなのかもしれない。それなら、これだけ近づいても逃げない理由も分かる。

黒猫は僕をじっと見つめている。僕も何の気なしに見つめ返していると、猫の桃色の鼻の真ん中に、墨汁を付けたような黒い点を見つけた。可笑しくて、つい手を伸ばして猫の鼻を触ってしまった。猫は迷惑そうな顔をしつつも、目をつむって、逃げる事は無い。肝が据わっているのか、単に怖いもの知らずなだけか。僕が苦笑しながら手を放すと、猫は痒そうに、器用に自分の舌で鼻を舐めだした。

その仕草に見覚えがあった。ボクジュ。そう呟く。猫はまた、みゃあ、と鳴いた。

びゅう、と不意に風が吹いた。懐かしい、緑色の匂いがする。

思い出す。全てが鮮やかに目に映っていたあの頃を。思い出す。緑色の日々を。真っ赤だった想いを。暗かったあの冷たさを。思い出す。大切だった友人達を。

そして、あの大木の様な老人を。

この公園から失われてしまった筈の風が、僕の記憶から吹き出していった。

蝉の声が、僕の住む町を覆い尽くしていた季節。鼻がかすれてしまいそうな、温い、水っ気を奪う風がいつも吹いていた。


みみみみみみみみみ。

 お母さんに持っていきなさいと言われて肩にかけている、紐付きの水筒の蓋を開け、冷たくて美味しい水を飲む。喉から鳴る音は、自分の体に水が沁みわたって行く音のようで気持ちが良かった。体の中に入っていく冷たい水のおかげで、火照った体が冷まされていく。水があんまりに美味しかったものだから、つい半分まで飲んでしまった。蓋を閉めて、公園へと足を動かしていく。頑張って早起きしたから少し眠い。でも自分で起きられたから、お母さんが褒めてくれた。三文の得よって言ってたから、きっと今日は良い日になる。

風が吹いた。空気が焼けている様な、焦げた匂いがした。周りからは蝉の声が聞こえる。みみみみみみみ。何だか急かされている様な気分になって、僕は走り出した。

 乾いた暑い空気を体で感じながら、僕は走る。蝉の声に背中を追われるように走っていると、やがていつも遊んでいる公園が見えて来た。

焦げた匂いが、緑色の、生きた匂いに変わっていく。この匂いが、何だか良く分からないけど好きだ。深い緑色の葉っぱが沢山生えている木に囲まれた公園。そこに僕は走りながら入って行く。強い日差しを沢山の大きい葉っぱが遮ってくれるから、涼しい。

着くと、一旦止まって僕は大きく深呼吸した。充満した葉っぱの匂いが、体に吸い込まれていく。野菜は嫌いな物もあるけれど、この匂いならいくらでもお腹いっぱい吸い込める。辺りを見渡すと、他には誰もいなかった。ゴロウちゃんも、他の小さい子達もいない。一番乗りだ。やった、と両手を握りこんでガッツポーズを取る。後から来るゴロウちゃんにいっぱい自慢してやろう。

僕は公園にある青いベンチに勢いよく座った。明るい青色をしたベンチは、座っていると公園全部を見渡せる。僕や他の子も大好きな、一番人気のブランコ。ゴロウちゃんがいつも乗っているシーソー。ちょっと高めの鉄棒。遊ぶのに十分な大きさの砂場。

このベンチに座って公園全部を見渡すのが好きだった。小さくてこの公園にたった一つしか無いこのベンチが気に入っていた。

鉄棒を練習しようと思って、隣に水筒を置いた。名前を書いているからきっと取られたりはしない筈。鉄棒に近づいて行って、手を上に伸ばして鉄の棒を握り絞める。クラスで僕だけが逆上がりを出来なかった。三年生にもなって逆上がりが出来ないなんて恥ずかしいから、夏休み中に出来る様になるのが、僕の目標の一つ。足を蹴って体を頑張って上に反らす。勢いが足りなかったのか、鉄棒の半分くらいの高さで体が止まってしまった。次はもっと助走を付けようと思って、鉄棒から出来るだけ足を遠くやってもう一度挑戦する。けれどやっぱり駄目。何が駄目なんだろう?

そうやって練習を続けていると、いつの間にか青いベンチに、おじいさんが座っているのに気が付いた。鉄棒に夢中になりすぎて、いつからいたのか気が付かなかった。おじいさんは小柄で、短く切り揃えられた頭の毛が全部真っ白になってしまっている。でも、とても健康そう。肩から水筒を掛けていた。僕が持ってきたのより凄く大きい。

おじいさんは何かを見ている訳でもなく、ボーっとしているようだった。そこで僕は喉がカラカラになっているのに気が付いた。公園は他より涼しいけれど、やっぱり夏だから動いたら暑い。何回も鉄棒をしてたから、汗もびっしょり掻いてしまっていた。ベンチに近づいて水筒を取る。蓋を開けながら横目でおじいさんを覗き見た。

とっても大きな木みたいだ。このおじいさんを見ると、そんな様に感じた。お母さんとお父さんと一緒に旅行に行った時に見た、とってもとっても大きかった木。お父さんが樹齢千年だって言っていた。千年もずっとそこに在り続けたというのが全然想像が付かなくて、千歳ってどれ位いって聞いたら、お父さんが笑いながら触ってごらんって言った。そーっと触ってみたら、冷たいような、とても暖かいような、不思議な感触がした。ずっしりとしていて、何だか包み込まれるような気分になったのを覚えている。それが千年の感触だよとお父さんは言っていた。このおじいさんは、体は小さいのにあの木と同じような雰囲気をしていた。

そんな事を思い出しつつ水を飲んでいると、水筒の水を全部飲み干してしまった。まだ飲み足りないのに、何度口を逆さにして振っても一滴も出て来ない。この公園にも水道はあるけど、お母さんに、公園の水は汚いから飲んだら駄目と言われている。どうしようと思っていると、おじいさんが僕の方を見ていた。

「お水がもう無いのですか?」

 おじいさんが急に喋りかけてきたのにびっくりしつつ、は、はい。と返す。低くしゃがれているけど、全然耳障りじゃない声だった。おじいさんはにっこりして、大きい水筒を肩から外して僕の方に差し出してきた。お花が咲いた様な、赤ちゃんの笑顔にも似た、無邪気な笑顔。

「カトウは沢山お水を持ってきておりますので、よければどうぞ。まだカトウは口をつけていないので、綺麗です」

 知らない人から貰った物に口を付けたら駄目よ。僕の耳がキーンとなる位にお母さんがよく言っている言葉。でも、今僕はとっても水を飲みたい。お母さんの言葉。渇いた喉。危ないかもしれないという思い。優しそうなおじいさんの笑顔。

少しだけなら、きっと大丈夫。僕はおじいさんにありがとうと言いつつ水筒を受け取ろうとする。その時におじいさんと指が触れあった、あの大木と同じ、冷たいような、暖かいような、不思議な感触がした。大きい蓋を力一杯開ける。水筒に口を付けて、ごくごくと飲んでいく。とても冷たくて、ほのかに甘くて、美味しい。満足して口を離すと、大きい水筒の中の水が目に見えて減っていた。飲むのに夢中で気が付かなかったけど、飲み口が大きかったからか、地面に水がこぼれている。おじいさんは変わらずの笑顔で僕の方を見ていた。

「あの、ありがとうございます。沢山こぼしちゃってごめんなさい」

「いえいえ。(ぼっ)ちゃんの飲みっぷりの良さに、カトウは感服いたしました」

 僕がお礼を言って水筒を返すと、おじいさんは笑って受け取った。おじいさんの声は本当に楽しそうで、僕は僕で褒められて何だか照れてしまう。

「カトウとお話をして貰ってもよろしいですか?」

おじいさん、カトウさん? は僕の方をじっとみつめて話し掛けて来た。お母さんの、知らない人とは話したらいけませんという言葉を思い出す。でも、もう水を貰ったから知らない人じゃあ無いし、話をしても良いかな、と思う。僕はこくりと頷き、カトウさんの隣に座った。

「ありがとうございます。カトウは一人では寂しいのです。カトウはカトウと申します。今は子どもと子どものお嫁さんと一緒に暮らしております。どうぞカトウとお呼び下さい。坊ちゃんのお名前は何と言うのですか?」

「えっと、タキムラコウです。よろしくお願いします」

「コウさんですか。よいお名前なのです。コウさんのご両親は、どんな思いを込めてその名前をつけてくださったのでしょうか」

 僕の名前の意味。学校の授業で発表する為に、お父さんとお母さんに聞いた事がある。名前の意味を調べて来ようと言う道徳の授業。お父さんとお母さんで言っている事が違ったからよく分からなかった。

「お父さんは人や物と交わる子になって欲しいからって言ってたけど、お母さんは広い心を持った子になって欲しいからって言ってた。どっちみたいになったら良いか分かんないけど。カトウさんはどうしてカトウなの?」

「申し訳ございません。カトウはどうして自分がカトウと名付けられたのか知らないのです。カトウは父と母にそれを聴く機会が無かったものですから。でも、カトウはカトウという名前を気に入っております」

「どんな意味が込められているのかも分からないのに?」

「はい。かれこれ六十年以上カトウはカトウなものですから。意味は分かりませんが、いつの間にかに気に入っておりました」

 そんなものなんだろうか。想像はつかなかったけど、きっとそういうものなんだ。僕も意味は良く分かっていないけど、お父さんとお母さんに着けてもらったコウという名前は好きだ。

 みゃあ。カトウさんとそう話をしていると、猫の鳴き声が聞こえた。何処にいるんだろうと思って周りを見てみても見つからない。僕が首を傾げていると、カトウさんがついと指先を近くの雑木林へと向けた。僕もそちらを見る。

「猫さんはあそこにいるのです。猫さん。カトウとコウさんは危ない人ではないので、出て来て欲しいのです」

 カトウさんが雑木林に向かってそう声を掛けると、奥から一匹の黒猫が出てきた。痩せているけど、その目には卑屈そうなものは一切なく、じっとこちらを見据えている。猫はすらりとした身体つき、堂々とした足遣いで僕とカトウさんの下へと歩いて来る。そこに猫らしい警戒心は感じられない。黒猫は黒い毛並みに良く映える、綺麗な桃色の鼻をしていた。桃色の鼻の中心に、ぽつん、と黒い染みの様な点がある。近くで見ると、黒い毛並みは随分思い思いに跳ねていた。だから、多分野良猫。猫は僕とカトウさんの事なんてお構いなしに青いベンチに飛び乗ると、僕とカトウさんの間で前足を体の下に敷いて目を瞑った。

 驚いて、カトウさんの顔を見て尋ねた。

「カトウさんは、もしかして猫と話せるの?」

「いいえ。残念ながらカトウは猫さんとはお話は出来ません。ただ、カトウは何となしに、猫さんの考え事を感じられるのです。この猫さんは、この青いベンチに座りたがっておられるようでしたから」

「じゃあ、カトウさんが声を掛けたら猫が出てきたのは?」

「それはきっと、この猫さんに人を見る目と言うのがあるのでしょう」

 猫に人を見る目なんてあるのかな? 不思議に思いながら、僕はそぉっと黒猫の背中を撫でる。黒猫は薄目を開けて僕の方を軽くちらっと見たけど、特に鳴く事も無くまた目を瞑った。仕方がないから撫でさせておいてやると言っている様で、可笑しくて口元がにやけてしまう。今度は桃色の鼻にポツンとある黒い点を人差し指でちょんちょんと触ってみる。すると黒猫はまた目を開けて面倒くさそうな顔をしながら、舌で器用に自分の鼻を舐めだした。舌を伸ばして、鼻に寄せてざりざりと擦る様に舐めている。この猫の雰囲気に似合わない間が抜けたその仕草に、声を上げて笑ってしまった。

「猫さんはこの青いベンチがお気に入りの様なのです。このベンチに座って、お昼寝をする事を日課としてらっしゃるようです。カトウもお昼寝は大好きですし、このベンチで眠るのはとっても気持ちが良さそうなので、猫さんの気持ちは良く分かるのです」

「僕は何度もここで遊んでいるけど、一度もこの子と会った事は無いよ?」

「人がいる時は別の所でお昼寝をしている様です。猫さんは、気持ちよく寝られる場所を十個以上存じているとか。その中でも、特にここが一番寝心地が良いそうです。今日はカトウがいるので、コウさんがいてもここで寝る事にしたのでしょう」

 本当かなぁ? でも実際に猫は僕の隣で寝ようとしている訳だし、多分本当なんだ。猫の考えている事を感じられるなんて、ちょびっと信じられないけど、羨ましい。

 何か話しかけようと思ったけど、その前にこの猫の事を何て呼ぼうかと考える。ずっと黒猫さんとか猫さんと呼んでいるだけじゃあ、何だかつまらない。

「カトウさん。この猫さんの名前は分かる?」

「すみません。カトウには分かりません。そもそも、この猫さんには名前と言うものが無いのです。ですので、コウエンさんでも、モモイロおハナさんでも、コウさんのお好きに呼べば良いかと思います」

 そっか。やっぱり野良猫だから、名前は無かったんだ。なら、何て呼ぼう? 少なくとも、公園さんとか桃色お鼻さんは無いなと思う。

 みゃあ。何て呼ぼうかと考えていたら、唐突に、猫が目を開けて前を見ながら鳴いた。何だろうと思って見ると、良く知っている友達が走って来ていた。色が白いひょろりとした体に、丸まった背中。おかっぱ頭の、黒縁メガネを掛けた男の子が公園に向かって走って来ている。

 ゴロウちゃんだ。ゴロウちゃんも僕が見てるのに気が付いたのか、おーいおーいと声を上げながら走りつつ手を振って来ている。ゴロウちゃんは公園に入ると、真っ直ぐ僕とカトウさんと黒猫がいる青いベンチに近づいて来た。暑い中を走っていたせいで、ゴロウちゃんも汗だくになっている。息もぜぇぜぇと切らせながら喋りかけてきた。

「お、おはよぅ。は、早い、なぁ。ぼ、僕ぅも頑張って早起きしたけど、か、敵わへんかったわ。と、ところでコウちゃん。この横にいるおじいさんと猫さんは、ど、どちら様やぁ?」

 ゴロウちゃんの喋り方は独特だ。ここらへんでは聞き慣れない訛りに合わせて、何でか語尾が伸びる上に変に音が上がっている。それに、今は息を切らせているから特に酷いけど、普通の時にも大抵どもりどもりで人と話す。僕はゴロウちゃんの喋り方は独特で面白いと思うから好きだけれど、変な喋り方って言ってからかう子もいる。

ゴロウちゃんは、僕が二年生になったばかりの頃に学校に転校してきた。ご両親の都合で、ちょっと遠い所から引っ越して来たと先生は言っていた。最初の自己紹介の時に話し方が面白いなって思って話し掛けたのが友達になったきっかけ。その頃からいつも一緒に遊んでいる。

「カトウはナカタニカトウというのです。どうぞカトウとお呼び下さい。つい先程コウさんと知り合いになりました。後、こちらの猫さんには名前は無いのです。クロネコさんでも、ハナクロさんでも、好きに呼んでさしあげれば良いと思います」

「ぼ、僕ぅは、ケノウエゴロウ言います。よ、よろしく、お願いしますぅ。ね、猫さん、名前無いんかぁ。ほなら、何か、付けてあげへんかったらなぁ」

 ゴロウちゃんは顔をぐぅっと黒猫に近づけてまじまじと顔を眺めだした。人差し指で黒猫の鼻をつん、と突いた。黒猫は迷惑そうに顔を歪めて、また器用に舌で鼻をざりざりと舐めた。ゴロウちゃんはその仕草を見てにんまり笑うと、思いついた様に言った。

「こ、この猫さんの鼻、墨汁を溢したみたいな黒い点があるから、ボ、ボクジュいうんは、ど、どうやろぅ?」

「ボクジュ。カトウはとても良い名前だと思います。ボクジュさんも、何でもいいと思っていらっしゃるようですし」

 ボクジュ。確かに、鼻の点は墨汁を溢したように見えなくもない。それに墨汁だったら、黒猫の毛並みの色にも合っている。

「ボクジュ。今日からお前の名前はボクジュだよ」

 僕がボクジュの背中を撫でながらそう言うと、ボクジュは返事するように、みゃあ、と鳴いた。何でもいいからいいかげんに鼻を触るのを止めろ、と言っているみたいだった。

 その後、ボクジュを撫でながらカトウさんと話したり、ゴロウちゃんとシーソーをしたりして、暗くなってきてから家に帰った。カトウさんにまた明日って言ったら、また明日ですって言ってくれたから、きっと明日もまた会える。ボクジュはいつの間にかいなくなっていた。

お母さんにカトウさんとボクジュの事を話したら、知らない人から貰った物に口を付けたら駄目って言ったでしょう、って怒られた。でもすぐに笑って、素敵な出会いが在って良かったねって言ってくれた。今日の事を、夏休みの宿題の日記帳に書こうと思う。

 『今日はがんばって早起きをしました。そうしたら、公園でカトウさんと言うおじいさんと、ボクジュと名前を付けた黒猫に出会いました。ゴロウちゃんも同じに仲良くなりました。早起きは三文の得は、本当だと思います。また明日も会いたいです。今年の夏休みも、とっても楽しくなりそうな気がします』


 僕は学校のプールに来ていた。二十五メートルが泳げない子の為のプール教室。まっかっかな太陽が痛いくらいに暑くて、早くプールに浸かりたいなと思う。

「あ、あっついなぁ。お日さん、今日はえらい元気や。な、何かええことでも、あったんかなぁ」

 僕の隣ではゴロウちゃんが目に黒色のゴーグルを掛けながら俯いている。ゴロウちゃんも僕と同じで、二十五メートルが泳げない。まだプールに入ってないのにもうゴーグルを掛けているのは、ゴーグルを外した時の解放感をもっと気持ちよくする為やからやでと言っていた。ちょっと何言ってるのか分からなかったけど、ゴロウちゃんがよく分からないのはいつもの事だし。

「今日だけじゃなくて、最近ずっと暑いよね」

「そや、なぁ。ボクジュも、えらいしんどそうにしとったしなぁ。カ、カトウさんは、全然平気そうやったけど」

「慣れてるって言ってたよね。前まではもっと暑い所にいたって。どれだけ暑くてもいっつものほほんて顔してるから、仏様って呼んでる人までいるし」

 カトウさんとボクジュに初めて会ってからもう幾らか経っていた。あの日以降、カトウさんとボクシュは公園のマスコットの様になっていた。ボクジュは全然ベンチから逃げないせいで、毎日小さい子達にもみくちゃに撫でられている。嫌なら逃げたら良いのに、面倒くさそうな顔で睨むだけでベンチから動かない。そのせいで更に触られてたりしていた。特に皆、鼻をつんつんとするのが面白いみたい。僕も良くやる。間抜けで可愛いんだ。あれ。

 カトウさんはカトウさんで、小さい子達の人気者だった。優しそうな感じが伝わるのか、ベンチに座っているカトウさんの膝の上に座りたがる子が続出していた。にこにこしてるカトウさんの前で、どっちが膝の上に座るかでじゃんけんをしている小さい子は、可愛い。気持ちは分かる。僕も何度か乗せてもらったけど、凄く落ち着く。何でだろう? 不思議だ。

 不思議と言えば、カトウさんがいつも公園にいるのも不思議だけど、ちょっと目を離したら、いつの間にかボクジュ以外に猫が増えてたりする事があるからびっくりする。何処から出てきたのか、カトウさんの膝の上で白猫がすうすう丸まって寝てたり。頭の上に小鳥が乗ってたり。黒い毛並みの子猫がカトウさんの膝の上から頭に向かってよじ登ろうとしてたり。その子達は、僕が近づいたら逃げちゃうんだけど。カトウさんは全然気にせずにこにこしてるし。それを見た大人の人達が、仏様みたいな人だって言ってた。

「コ、コウちゃん。準備運動、は、始まるでぇ」

 隣のゴロウちゃんが声を掛けて来た。僕や他に並んでる子達皆の前で体育の先生が喋っている。ちょっとして、ラジオから音楽が流れだした。

 

 洗剤を飲んだら、きっとこんな味がする。そう思えるような、吐き気がしてくる水が口の中に流れ込んでくる。僕は我慢できず、両足をプールの床に付けた。おうぇと水を吐き出す。鼻水も沢山出てきて、他人事みたいに汚いなぁと思う。

「あぁ、コウちゃん、お、惜しかったなぁ。プールの水臭いから、大変やもんなぁ」

 隣のレーンから、ゴロウちゃんが話し掛けて来た。ビート板を持って立っている。ゴーグルが水に濡れて、目が見えない。さっきまでゴロウちゃんは水に顔をつける練習をしてた筈なのに、どうしたんだろう。

ゴロウちゃんが立って僕に話し掛けているのが分かったのか、少し離れたレーンの飛び込み台から、先生が大きく声を上げてきた。

「こらぁゴロウ。よそ見してないでちゃんと練習しろぉ。コウはちょっとこっち戻ってこぉい」

「は、はい。すいませぇん。で、でも先生ぇ、プールの水、く、臭くて臭くてたまらへんのです」

「消毒薬の匂いだ。我慢しろぉ。その匂いが無かったら、バイ菌が沢山生まれちゃんだから」

「バ、バイ菌かぁ。バイ菌が沢山いるのは、あ、あかんなぁ。でも、この臭いは、吐いてしまいそうや」

 ゴロウちゃんは最後先生に聞こえない様にそう呟くと、ビート板を使って、先生がいるのと反対の方向へバタ足で泳いでいく。僕は床を蹴りながら少しずつ先生の元へと向かう。泳ぐよりかは、こっちの方が速い。

「コウは息継ぎしようとすると、足が付いちゃうなぁ。息継ぎするのは怖いか?」

 僕がこくりと頷くと、先生は腕を組んで唸った。

「よし。コウは泳ぎじゃなくて、先に息継ぎの練習をしようか。先生は他の子も見なくちゃだから、ちょっと今は自由コーナーで練習しときなさい」

 先生はそう言って僕から離れて行く。僕もプールの中の自由コーナーに水中を歩きながら向かう。

 このプール教室では、僕やゴロウちゃんみたいな泳げない子の他に、単純にプールに入りたい子も来ている。そういう子が泳げない子の邪魔にならない為の場所が、自由コーナー。そこで泳いでいる子は、皆楽しそうにはしゃいでいる。僕も上手に泳げたら、きっとあんな風に楽しめるのに。羨ましいなぁと思いながら、人の少ない所に行って、プールサイドの縁を持ってバタ足を始める。

 水中に顔を埋めていると、隣に誰かがやってきた。顔を上げると、ゴロウちゃんがビート板を持たずに立っている。やっぱりゴーグルのせいで目が見えない。

「ぼ、僕ぅも、一人で練習しといてて、言われたわ。コウちゃん、隣、ええかぁ?」

「うん。いいよ。一人でバタ足やってるの、つまんないし」

 そう言うとゴロウちゃんは口元をにんまりとして、バタ足を始めた。顔を水から出して足だけバタバタさせているのと、何だかワンちゃんみたいだ。けれど突然、ゴロウちゃんの体が足元から引っ張られるように沈み込んだ。

「うぶぅ。あぶ。あ。ごぼ、助け、あぁぶ」

「ゴロウちゃん!」

 ゴロウちゃんの手はプールの縁を離してもがいている。急いでゴロウちゃんの体を支える様にすると、ゴロウちゃんはぐったりとしながらも何とか立った。ほっとすると、ゴロウちゃんの後ろの水中から人が浮かび上がってきた。この子がゴロウちゃんの足を引っ張ってたんだ。

「あぁ面白い。てか、だっさ。めちゃくちゃ焦ってんじゃん。だっさ! だっさ!」

「サイトウくん、何てことするのさ!危ないだろ!」

 サイトウシュウ君。よくゴロウちゃんにいじわるをする男の子。同じクラスだけど、全然一緒には遊ばないし、ちょっと嫌い。すぐにダサいダサい言って煩いし。

「早く水に慣れる手伝いしただけだって。泳げないとかダサいし。てか……もーらい!」

「あ、あぁ。や、やめてーや。な、何すんのさぁ」

 シュウ君はばっと手を伸ばすと、ゴロウちゃんのゴーグルを奪い取った。ゴロウちゃんはぐったりしてるし、僕はゴロウちゃんを支えてるしで止められなかった。ゴーグルが外れたゴロウちゃんの目は、糸みたいに細められている。

「ぼ、僕ぅ、目ぇ悪いから、それ無かったら、何も見えへんねん。それ、眼鏡と同じで、目ぇ見える様にするから。やから、返してぇ。何も見えんなってるから、返してぇ」

「何、これ無かったら目ぇ見えないの? うっわダサい。あはは。目ほっそ! 気持ち悪い。宇宙人みたい」

 シュウ君は、返してぇ返してぇと言うゴロウちゃんを笑っている。ゴロウちゃんはふらつきながらシュウ君に向かって歩いて行くけど、シュウ君が逃げる方が速い。だっさ、だっさ、と言って逃げていく。返してぇ。返してぇ。だっさ。だっさ。

 むかつく。

「止めろよ! ゴロウちゃんのゴーグル返せ!」

 プールの床を蹴ってシュウ君を追いかける。ゴロウちゃんを追い抜いた。やっぱり、泳ぐよりかこっちの方が速い。シュウ君を追い詰めた。返せよと手を伸ばす。

「何。だっさ。ムキになってるぅ。あはは、ダサい。何か怒ってるし。だっさぁ」

 ニヤニヤしてるシュウ君の腕を掴んで、揉みくちゃになって。

「何してんだお前らぁ!」

 先生に怒られた。


「水泳ですか。羨ましいのです。カトウは泳ぐのが得意なので、カトウも泳ぎたいのです。プールの水は苦手なので、海が良いですが」

 プール教室が終わった後。ゴロウちゃんと一緒に公園に来て、カトウさんに今日あった事を話すと、ちょっとずれた感想を貰った。隣ではボクジュが興味無さげに丸くなって寝ている。僕はボクジュを挟んでカトウさんの隣に座って、ボクジュの背中を撫でている。ゴロウちゃんはブランコに乗ってくねくねしてる。ブランコを漕がずにゴロウちゃんだけが揺れてるから、きっと妖怪がいたらあんな感じなんだろうなぁと思う。

「むかつく。シュウ君って何なんだろ。意地悪だしうるさいし。人の悪口ばっかり言うし」

「カトウにはよく分かりませんが、今のコウさんが言った事も、悪口のように思えます」

 そう言われてうっとなる。そんな事を言われたら、何も言えなくなる。仕方なくうーうー唸っていると、ボクジュが煩そうに、みゃあ、と鳴いた。何となく、ボクジュの体中をもふもふもふもふとしておいた。あ、凄く睨んできてる。可愛い。もう少し意地悪したくなって、鼻をつんつんと突いた。ボクジュが鼻をざりざりと舐める。つんつん。ざりざり。つんつん。ざりざり。

 うん。ちょっとだけすっきりした。ボクジュには悪いけど。そうだ。カトウさんに言っておかないと。

「カトウさん。僕明日から海に旅行行くから、ちょっとだけ公園に来れない」

「そうですか。それは、少しだけ寂しいのです。しかし、海は良いのです。お魚さんも沢山いらっしゃいますし、何より大きいので、カトウはいつも楽しかったですし、海は大好きなのです」

「カトウさん、海でよく泳いでたの?」

「はい。カトウは泳ぐ事だけは得意なのです。いつも叱られていましたが、これだけは褒められていました」

「へー。へー。じゃぁ、泳ぐコツみたいなのってあるの?」

「申し訳ありません。色々な方に尋ねられた事がありますが、カトウには説明が出来ないのです。カトウには、何故カトウが泳ぐのが得意なのか分からないのです」

 何だろう。カトウさんは泳ぐ天才だったのかな? 確かに、カトウさんが上手く泳げる理由を説明しているのは、想像できなかった。

「そっかぁ。あ。明日の用意するから早めに帰ってきなさいってお母さんに言われてた。帰るね」

「はい。また明日です」

 明日から旅行だって。ボクジュにも、海に行ってくるねって話し掛けた。ボクジュは、みゃあ、といつも通りの鳴き声を返した。ちょっとだけでも会えなくなるんだから、もう少し愛想よくしてくれても良いのに。でもやっぱり返事をしてくれるのが嬉しくて、頭を撫でる。珍しく、気持ち良さそうな顔をしてくれた。気がした。帰って来たら、もう一度撫で回してやろう。

ゴロウちゃんにも帰ると言って、僕は家に帰った。


 海は青いなぁって言うけど、何で青いんだろう。海を見ながら思った。砂浜が熱くて。けどサンダルを履いてたら何だか気持ちが悪くて。足が火傷しそうなくらい熱いのに、もっと砂に足を埋もれさせたくなる。ひょこひょこ飛びながら海に足を浸けたら、海も暑かった。腰に付けた浮き輪を掴んで、ちょっとずつ深い所へ進んでいく。少し離れた所から、お母さんの呼ぶ声が聞こえた。気にしない。浮き輪で体が浮いていくのを感じた。

 海に顔を入れる。匂いがした。息なんか出来ないのに。公園と同じ、生きた匂い。カトウさんが海は大好きですと言った理由が、少しだけ分かった。どうしていつもあの公園にいるのかも。カトウさんも、生きた匂いが好きなんだ。

 でも、公園よりも。海は広すぎて、深すぎて、怖い。

 お母さんに、深い所に行ったら駄目って言ったでしょうって怒られた。お父さんは、楽しかったかって笑いながら聞いて来たけど、お父さんもお母さんに怒られてた。お父さんに、どうして海は青いの? って聞いたみた。

 お父さんは、海には青春が詰まってるからさって言った。また、お母さんにはたかれてたけど。そっか。海は、青春の色なんだ。ゴロウちゃんにも教えてあげよう。青春って何なのかは、良く分からないけど。


 海から帰って来て公園に行ったら、カトウさんはいるのに、そこにボクジュはいなかった。

「ボクジュなぁ。コウちゃんが海行った次の日ぃから、公園におらんくなってん」

「はい。近くにもいらっしゃらない様なのです。カトウにも、今ボクジュさんがどうしておられるのかは分からないのです」

 ゴロウちゃんとカトウさんも見ていないと言った。カトウさんと出会ってからは、ボクジュは毎日公園に来て、青いベンチで寝ていたのに。他の小さい子達も、見ていないと言って寂しそうにしている。

「何でやろうなぁ。ボクジュ、ここに来んの、嫌になったんかなぁ。寂しいなぁ」

 そんな事、無いよ。ボクジュもきっとこの公園が好きだった。だってそうで無かったら、毎日来ない。小さい子達の相手だってしない。何より、最後、ボクジュは気持ちよさそうな顔をしてた。

「ゴロウちゃん。探そう。ボクジュ、探そう」

 僕とゴロウちゃんはボクジュを探し回った。色んな、猫が気持ちよく寝られそうな場所を見て回った。

 一日経った。二日経った。三日経った。それでも、ボクジュは見つからなかった。公園には現れなかった。

「ボクジュ、どこにもおらんなぁ。どうして、しまったんやろなぁ」

 青いベンチに座って、僕とゴロウちゃんはぐったりしていた。どれだけ探してもボクジュは見つからない。消えちゃったみたいだ。カトウさんは相変わらずのほほんと座っている。

「ちょっと、サイトウさん。止めましょうって」

「何でよ。この子達ずっと探し回ってるのよ。教えてあげなきゃ可哀想じゃない」

青いベンチに座っている僕達の所に、大人の女の人が二人近づいて来た。片方の女の人は、片手にスマホを持っている。何だか、目が怖い。スマホを持った女の人が話し掛けて来た。

「あのね、坊や達、この公園に来てた猫の事探してるでしょう? おばちゃんね、その猫がどうなったのか知ってるのよ」

「サイトウさん。だから……」

「うるさいわね。黙っときなさいって。坊や達、その猫さんがどうなったか、知りたい?」

「し、知りたいです。お、教えて、ください」

 どうなったか? 何処にいるのかじゃなくて? 僕がそう訊く前に、ゴロウちゃんが聞いていた。女の人の表情が消えた。びっくりさせようと考えてる時の、先生の顔と似ている。今から、びっくりする事を言うよ。

 女の人は鼻で一息ついて。

「死んだのよ。その猫」

「嘘や!」

 ゴロウちゃんが叫んだ。僕は、何だろう? 良く分からない。何も言えない。体が動かなくなって、胸の辺りがムカムカする。

「本当よぅ。おばちゃん嘘付いてないからね。ほら、写真撮ったのよ。見てみなさいって」

「サイトウさん!」

「うるさいって言ってんでしょ! ほら、見てみなさいって。ほら。ほらぁ。車で轢いちゃってねぇ。可哀想にねぇ。急に前に出てくるもんだからね。車にも傷ついちゃって。写真撮っとかないと、保険とか下りないかもしれないじゃない? だから念の為に撮っといたのよ。ほら、ちゃんと見なさいって。ほらぁ! にしてもだっさい猫よねぇ。車に轢かれて死ぬなんて。ほんとだっさい」

どうしてだろう。女の人は、楽しそうだ。

 うわあああああああああああぁ。

 ゴロウちゃんの叫び声。とんでもなく恐ろしい物を見てしまった様な。その視線は女の人が持っているスマホの画面に向けられている。体が動かない僕の目の前に、女の人が画面を向けて来た。


 くろいねこが。ももいろのはなが。まっかっかな。


 大きい音が、自分の口から出ているのだとは分からなかった。ムカムカが喉に駆け上がってきた。地面を向いて酸っぱい物を吐き出す。あぁ、今日の朝ご飯の卵焼きだ。珍しく、お母さんじゃなくて、お父さんが作ってくれた卵焼き。ボクジュが見つからなくて落ち込んでる僕を元気づけようと、にこにこして作ってくれた卵焼き。

「いい加減にしなさい! 子どもに何て物を見せるの! こっち、あんた、こっち来なさい!」

 もう片方の女の人が、スマホを持った女の人を連れて行った。怖い女の人が何か叫んでるけど、聞こえない。

 うわあああああ。ゴロウちゃんは叫びながら何処かへ走って行ってしまった。僕は変わらず動けない。自分の体じゃないみたいだ。目の前がぼやけて、立っているのか座っているのかも分からなくなった。……? 急に、暖かい何かに包まれた。強く抱きしめられている。

「コウさん。大丈夫です。大丈夫ですよ」

 カトウさんだ。カトウさんが僕を抱きしめていた。あぁ、僕は座り込んでたんだ。

「死んじゃった。ボクジュ、死んじゃった。カトウさん。死ぬって何さ。車に轢かれたって何。保険って何。ダサいって何さ。うあ。ああ。ああああああああ」

「申し訳ありません。カトウにも、死ぬという事が何なのかは分かりません。もう会えなくなってしまったとしか分かりません。ダサいというのが何なのかも分かりません。ボクジュさんはとてもご立派な猫さんでした。コウさん。ボクジュさんは、とてもご立派な猫さんだったんですよ」

 うわああ。うわああ。暖かかった、優しくて大好きな公園なのに。涙が止まらなくなった。悲しさでどうにかなってしまわないように、カトウさんの体にしがみついていた。

 家に帰ると、ニュースがやっていた。台風がやってくるとお天気屋さんが言っている。もうすぐ台風がやってくる。悲しくてたまらない僕の所に、大きい台風がやってくる。


 台風が来てるから、今日は外に出たら駄目よ。お母さんの言いつけは無視して、外に出た。体に強い風が吹きかかってくる。傘を差すけど、雨が強すぎて殆ど意味が無い。めんどうくさくなって、傘を閉じて公園へと走り出した。

 ゴロウちゃんが帰って来ていない。お母さんがゴロウちゃんのお母さんから連絡を貰ったのは、昨日の夜だった。お母さんに何か知らないかと聞かれて、ボクジュの事を話した。お母さんは僕の頭を一撫でしてから、またゴロウちゃんのお母さんと話し始めた。台風が来てるから、早く見つけないとって言っていた。

 公園に着いた。誰もいない。ボクジュも。ゴロウちゃんも。カトウさんも。周りの木が、びゅおー、びゅおー、と大きく揺れている。あぁ、吹き飛ばされちゃいそうだ。

 ゴロウちゃんはきっと、今もボクジュを探しているんだ。そんな事を思った。何となくだけど。

 探して。歩いて。今までにゴロウちゃんと遊んだ所や、ボクジュを探す為に行った所も探す。何処にもゴロウちゃんはいない。探す。探す。探す。雨が体中に打ち付けてきて、痛い。傘を差してみたけど、直ぐに裏返って壊れてしまった。夏なのに、寒い。

 歩いて、歩いて。見つけたのは、ゴロウちゃんじゃなくて、シュウ君だった。たまにゴロウちゃんとも水遊びをしていた川。今は茶色になって、みずかさも凄く高くなっている。怖い。見ていてそう思う。台風が来ると、何もかもが変わってしまう。その川沿いにシュウ君がいた。川を見て叫んでいる。ちらりと、川の中に誰かが見えた気がした。

「シュウ君! 何してるの!」

「お、俺悪くないからな! あいつが勝手に入ったんだからな! だ、ださいんだよ!」

 近づいて話し掛けると、シュウ君はよく分からない事を言い出した。川の中……? 川を見た。誰かが見え。

「ゴロウちゃん」

ゴロウちゃんは化け物みたいな川の少し中側、丁度抱きかかえられる程度の大きさのコンクリートの柱に、必死にしがみついていた。

「猫が川で溺れてるって言っただけで、あいつずんずん入っていったんだよ。そ、そんな訳ないのに。ちょっとからかうだけのつもりだったんだって。マジにしてさ。だっさ!」

 後ろから声が聞こえた。どうでもいい。足はゴロウちゃんに向かって進んでいる。止めとけよ。そう聞こえた。どうでもいい。ゴロウちゃんが居なくなってしまう。ボクジュみたいに。ゴロウちゃんと会えなくなってしまう。ボクジュみたいに。ゴロウちゃんが、死んでしまう。ボクジュの、様に。

 ごぼり。プールとは違う。海とも違う。砂と、泥と、何か怖いものが混じった水が、僕の中に。ゴロウちゃん。

 指に眼鏡のような物が触れた感触がした。


 気が付いた時には、僕はまたカトウさんに抱きしめられていた。毛布が体に巻かれた僕をカトウさんが痛いくらいに抱きしめて。僕が川に入ったすぐ後にカトウさんが来て、僕とゴロウちゃんを助けてくれたらしい。そう、シュウ君が言っていた。ごめんん。ごめんん。って涙と鼻水を垂らして。

ゴロウちゃんは、ボクジュ、どっかにおるはずやと思うてなぁ。ごめんなぁ。危ない目にあわせてもうて、ごめんなぁ。と言っていた。

 僕も、お母さんに今までに無いくらいに怒られた。怒られ通した後、抱きしめられた。暖かい、公園や、海と同じ匂いがした。

 カトウさんは、久しぶりに泳げて楽しかったのです。けど、あんなひやひやした泳ぎはもう御免なのです。なんて、呑気な事を言ってた。

その後。夏休みが明けると、カトウさんはいつのまにか公園に来ない様になって。僕も、小学校を卒業した後、お父さんの都合で遠くへ引っ越した。それ以来、カトウさんともゴロウちゃんとも会っていない。


「父さん。こんな所にいた。」

 昔を思い出していると、寝てしまっていたようだ。聞き慣れた声で目を覚ます。膝が妙に暖かいなと思うと、膝の上に先程の黒猫が乗っていた。何時の間にと思いながら、黒猫を撫でる。

「ボクジュも、ここにいたのか。お前、この公園のベンチ好きだなぁ」

 息子が腰を屈めて黒猫を撫でる。黒猫も、みゃあ、と鳴いた。

「ボクジュ……?」

「あれ、言ってなかったっけ? 子どもがさ、この公園で遊んでたら見つけたって言って、拾って来たんだよ。妙に人懐こいしふてぶてしいしで。で子どもがさ、鼻に墨汁溢したみたいな跡があるから、ボクジュがいいって。変な名前だよね」

 ボクジュ。そうか。この子の名前はボクジュと言うのか。よく似合う、良い名前だ。

「おじいちゃん!」

 呼ばれて顔を上げると、小さい子どもが走って来ていた。

「何だ、家で待ってろって言ったのに。おじいちゃんを待ちきれなかったのか? 父さんも父さんだよ。もう歳なんだから迎えに行くって言ったのに」

「あぁ。お前達が引っ越しった先が、昔住んでた町だったからな。つい懐かしくなってた。ほれ、じいちゃんが抱っこしてやろう」

「うん。あ、ボクジュも一緒が良い!」

「おお。よく抱えてな。それ」

 僕は孫を抱き抱えて、ゆっくりと公園を出ていく。孫の体は暖かくて、いつか嗅いだ匂いと同じものがする。

 風が吹いた。揺れる木は無い。けれど匂いが。音が。あの頃感じていたものを思い出す。ああ。ああ。


 ボクジュが、みゃあ、と鳴いた。


猫は死にません。猫は死にません。生まれ変わりとか魂の引継ぎとかで生きてます。きっと。

個人的に一番思い入れのある作品です。カトウさんのような人がいれば、きっともっとずっと色鮮やかに心の色を塗れた事だろうと思います。

感想等が頂けると嬉しいです。宜しくお願い致します。

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