腐っていく正義
ガンッ、と鈍い音が響く。
壁に背中を押し付けた作は、瞬きをして鼻から流れる血液を舌で舐め取る。
「オミくん、顔、怖い」
「誰のせいだと思ってんだよ」
作の胸倉を掴み、壁に押し付けたまま言えば、本人は緩く首を傾ける。
眉間の皺が深くなるのを感じた。
しかし、そうさせている本人には一切自覚がない。
「ちょっと下敷きにしただけじゃない。今度は失敗しない。大丈夫」
重力に従って落としていた手を上げ、垂れてくる鼻血を拭う作は、長い睫毛を細かく揺らす。
不健康なくらい白い肌に、擦れた赤が嫌に映えた。
「そんなに重かった?」
「軽い」
「……あぁ、そう」
掴み上げた胸倉の下には、柔らかな曲線を描いた丘があり、プリーツスカートから伸びる足は白く細い。
どうしようもなく、女の体だ。
軽いに決まっている。
当の本人は、重くないという発言には、不服そうで自身の足元を見つめた。
俺が言いたいのは標準よりも軽い体重についてではなく、自分が何をしてどうなったのかについてだ。
膝下丈のソックスから覗く、白い膝には大きな青痣が出来上がっている。
「変なことするなって言ってるだろ」
「変なことを言うね、オミくん。人間は、と言うより今のボク達は生きているんだよ。死ぬことは、自然の摂理に従っていて、全く以て、何ら変なことではないはずなんだ」
Yシャツとセーターが皺になるのを見ながら、作はゆるりと首を傾ける。
長い前髪が同じ方向へ流れ、片目を完全に隠す。
「ちょっと階段から落ちてみただけじゃない」
事も無さげに言われれば、頭に血が上り、掴んだままの胸倉を引き寄せ、再度壁に叩き付ける。
鈍い音と小さな呻き声が響く。
人気のない階段と踊り場と廊下には、俺と作の影が二つだけ伸びている。
揺れたプリーツスカートと、見えそうで見えないその中身には、ドキリともしなかった。
むしろ、ヒヤリとしたもので、硝子玉の様な黒目と視線が交わった時には、体が動き、落ちてくる華奢な体を包み込んだ。
階段の段差に背中を打ち付け、腕を足を打ち、揃って踊り場へと落ちた。
腕の中の華奢な体は、非常に居心地が悪そうに身動ぎ、眉を寄せていたのだ。
「また、死ねなかった」と、聞き慣れた言葉に、反吐が出ると思った回数は、覚えていない。
「……汚れるよ」
一度止まったように見えた鼻血が落ちる。
リノリウムの床を汚し、俺のシャツに跡を残す。
「だったら止めろよ」
「いや、離せよ」
白いシャツが汚れていくのを見ているが、汚してる本人は俺の手を見ている。
鼻から流れ落ちる血は、鮮やか過ぎる赤で鼻下を伝い、唇を汚す。
両唇で挟み込んで飲み込む。
先程より流れ落ちる量が多い。
口紅とは違う生々しい赤に染まった唇に、同じように唇を寄せる。
ぬらり、とした感触と鉄錆の匂いは不快だ。
「むぐ……」
「止まったろ」
「うへぇ。不味い」
眉を寄せた作が、壁に後頭部を預けて舌を出す。
唇以外にも舌も赤くなっていた。
鼻血は止まっている。
「ねぇ、オミくんも落ちてみる?」
弧を描く唇は厭らしく、嫌らしかった。