煤色の霧2
ヴァノーランは名を上げた。そしてそれは利益と共に不利益も呼び込む。
威勢の良い目立つ集団だ。様々な者達が彼等を利用しようと企んでいる。それが互いに分相応の利益を得られる物なら良いが、そうでない事の方が多い。誰しも自分の取り分は沢山欲しいに決まってる。
そしてヴァノーランは戦闘集団だ。そういった手合への対応は決して上手くない。その中で唯一まともにそういった類の話が出来るのが、アーマンズだった。
「なぁ、あんた方の言いたい事はよーく分かったんだが、金の計算が可笑しくないか」
現在、ヴァノーランは総数二十名を数える。名を上げたい腕自慢の若手はヴァノーランへの入団を熱望し、シェフ、ティタンはその中の極僅かを迎え入れた。
歴史の浅い傭兵団の中ならば直ぐに頭角を表せると信じた者達である。実際彼等の大半は勇敢で、自信相応の実力を備えていた。
そう言った者達を取り込んで規模を拡大し、不足していた様々な物を補ったヴァノーランは、少しばかり商売の手段を増やした。
アッズワース要塞へ訪れる商人達や、その販路の護衛である。
「可笑しい、とはどういう事でしょうか」
アーマンズはヴァノーランの屋敷の客室で商人と顔を突き合わせていた。でっぷりと太った如何にも貫禄のある男で、景気の良さそうなにっこり笑顔を浮かべている。
「ちょいと小耳に挟んだ内容だが、“熾烈な牙”はこの販路を月四回の四十万で護衛したそうだな。俺達にその五分の四で受けろってのは、少しばかり……」
「あぁ、いえいえ、こちらの荷はその件とは別の商いでして。運んでいる物も全くの別物で御座います」
「へぇ」
「品の重要性が変われば、使う手間暇も変わる物です。掛ける金も」
「じゃぁその条件でソーズマンに話を通してみたらどうだ? 俺達は賭けをするよ。アンタが前歯を圧し折られるかどうか」
「これは手厳しいですな」
熾烈な牙傭兵団へ払う場代を誤魔化した露天商が歯を圧し折られて晒し者にされたのはつい最近の話だ。この哀れな商人は正規の営業許可も得ていなかったらしく、助けに現れる衛兵は居なかった。
「でも、アンタの都合も分かる。アンタの上司は結構怖い人らしいな。俺達みたいな成り上がりの馬鹿ぐらい、簡単に手玉に取れると思ってそうだ」
「まさか! そのような事はありませんとも」
しかし彼等の本心は数字に現れている。熾烈な牙とヴァノーランの格を比べて相応しい値段を付けた、とでも考えているのだろう。
アーマンズは意地の悪い顔をする。
「ところで二日前だったかな。アンタの部下が“群青の大樹”で酒を呑みながら、ウチのシェフを馬鹿にしたってのは本当かい?」
うーん、と唸り声。
商人は愛嬌のある笑みを浮かべながら、困ったように頭を掻いた。
――
「販路の護衛なんてやめちまったら良いじゃねぇか」
屋敷の広間で食事中のロールフの、あっけらかんとした物言い。アーマンズは肩を竦めるしかない。
ふてぶてしい顔をして半生の肉を齧るロールフに羊皮紙を放る。ロールフは口をもごもごさせながらそれを広げた。
「……よく分からん」
「まぁ、ちょっと割に合わん仕事ではあるな」
「なら決まりだな、やめちまおう。俺は元々こんな仕事は好きじゃ無かったんだ」
「どうして?」
「強敵も居なけりゃ見返りも少ない。名声も得られない。俺達には、もっと相応しい戦場がある筈だ」
困った野郎だぜ。アーマンズは呟くが、ロールフの意見を否定はしない。
ヴァノーランのシェフ、ティタンは、アッズワースを牛耳るパシャス教から非常に強い庇護を受けている。本人が聞けば眉を顰めるだろうが、パシャス教の名で多くの災難を避けられているのは確かである。
それにアッズワースの一部の上級将校達への伝手もあり、覚えも良い。ヴァノーランが誰の顔色も気にせずに居られるのは、彼等の影響力があるからだ。
確かにヴァノーランを利用したがったり目障りに思う者は、ヴァノーランの友人達よりもずっと多い。だがこれらの擁護者が居るのなら、とアーマンズでも思ってしまう。
「信用を買える仕事も、悪く無いと思うんだがな」
「……長生きしたけりゃそうするべきなんだろう。銭勘定をしていると戦士の誇りも鼾を掻き始めるんだぜ、アーマンズ」
ロールフの挑発に流石のアーマンズも顔色を変えた。今の言葉はヴァノーランの一員に取って明確な侮辱だった。
「……喧嘩を売ってるのか」
「お前が変わっちまったんじゃないかって、ちょっと不安なだけだ」
睨み合う二人。
広間に居たヴァノーラン達がロールフとアーマンズ、二人の間に漂う剣呑な気配に気付く。血の気の多い者達だから喧嘩など珍しくもない。
揉め事か、と暖炉の前で火にあたっていた者達が集まり始めた。気の早い者はどちらが勝つか賭けを始めようとしている。
「ロールフ、良い機会だから教えてやる」
アッズワースで最も命知らずなシェフの許、厳しい戦場で戦い、己達の力で黄金と名声を掴み取る。
日々を悔いなく生き、その時至らば迷い無く死ぬ。戦いに次ぐ戦い、雄叫に次ぐ雄叫び。その末に臓物を撒き散らして、血と泥の中に消えていく。
そうして勇敢に死んだ者には、確かな名誉が残る。
それこそがヴァノーラン、ヴァン・オウル・アッズワースだ。
アーマンズにもその誇りがある。
「お前は隊の大体の奴に慕われてる古株だが、シェフはお前に指揮を任せようとしない。何故だと思う?」
アーマンズは杯の中の水をゆらゆらさせながら静かに言う。
「何が言いてぇ」
「シェフはこう考えてるのさ。『ロールフは蛮勇ばかりを頼みにして、同胞の死に名誉を添える事が出来ない。仕方ないからアーマンズにでもやらせておくか』ってな」
ロールフは齧りかけの肉を暖炉の中に放り捨てて立ち上がった。
アーマンズはこちらも立ち上がると左右の拳を引き寄せて構える。
周囲から野次と声援が飛ぶ。
「負けたら奢れよロールフ!」
「アーマンズ! 教育してやれ!」
その時、屋敷の扉が開かれた。外から強い寒風と雪が吹き込む。
現れたのはオーメルキンだ。扉を閉めたオーメルキンは睨み合うロールフとアーマンズを見て何が起こっているのか把握すると、迷うこと無く言った。
「同胞に忠誠を!」
『忠誠を!』
ヴァノーラン達の声が唱和する。ロールフとアーマンズすら、睨み合いながらも忠誠の言葉を疎かにしない。
オーメルキンは更に続けた。
「ロールフに五万クワン!」
途端に周囲のヴァノーラン達は賭けに興じた。
「よし、俺が胴元をやるぜ!」
「メルキンに乗った! ロールフに二万だ!」
「馬鹿野郎、アーマンズに三万!」
唸り声を上げてロールフとアーマンズが殴り合いを始める。体力ではロールフだが、アーマンズには技術がある。どうなるかは分からない。
オーメルキンは近くに居たヴァノーランに尋ねた。
「シェフは?」
「熾烈な牙に招かれて出掛けている。ひょっとしたら今日は戻らんかもな」
オーメルキンは表情を暗くした。懐の生暖かさが彼女を不安にさせていた。
――
「アッズワースに御禁制の品が流れ込んでる。その大半は、薬の類だ」
「白々しい事を言う。それらを買い漁っているのはお前だろう」
重々しく述べるソーズマンにオレヴィは間髪入れず食って掛かった。
ソーズマンはその反応を予想していたのか即座に言い返す。
「其処が誤解だ。経路は俺達が商売に使っていた物だが、薬なんぞは扱っちゃいない。俺達は薬の拡散を抑えるために買占めを行ったんだ」
「それを信じろと?」
「少しぐらい調べてあるんじゃないか? 騎士オレヴィ」
ティタンは薬、と言う単語に嫌な物を感じた。
古来、戦士もそういった霊薬を用いる事がある。痛みを消す霊薬。勇気を与える霊薬。心身を擦り減らす厳しい戦いの中、そう言った物を求めた者達は確かにいた。
だがティタンに言わせればそんな物に頼るのは自らの未熟を触れ回っているのと同じだ。恥ずべき行いだった。
「薬とはどういった物だ」
「お前が嫌いそうな薬さ。男も女も、富める者も貧しき者も、骨抜きにされる」
「成程な。反吐が出る。売る奴も、買う奴も」
オレヴィが何か思案しながら言った。
「お前が無関係だと信じるとして、だから何だと言うんだ」
「騎士オレヴィは知っているんだろうが、一月前からペルギスはこの問題を解決しようと躍起になっている。成果はあまり上がっていない」
「だから、それで?」
「俺は薬の流通と共に、それを広めようとしている連中を探った。アントーンと言う娼館、そして一部の傭兵崩れと結託したベニシオと言う胡散臭い商会、後は騎士オレヴィ、アンタが愛して止まない警備隊の連中だ」
ティタンはオレヴィの撃発を予想して彼女を見遣ったが、驚くべき事に彼女は冷静だった。
不愉快そうな顔を隠しもしなかったが、ソーズマンの言葉を受け止めている。詰まり、彼女もある程度それを把握していたと言う事だろう。
ティタンはソーズマンの言いたい事を察した。
「俺はパシャス教に顔が利く。女神パシャスは快楽や性愛、そして肉体を賭して戦士達を慰める者の擁護者でもあり、アッズワースの娼館は奴の庇護下だ。俺を此処に呼んだのは、アントーンとか言う娼館を探らせろと言う事か」
「察しが良くて嬉しいぜ。ベニシオ商会と傭兵どもは俺の方で何とでも出来る。後は……」
「屑め。私に仲間達の腹を探れと?」
ソーズマンはオレヴィを嘲笑っていた。
「騎士オレヴィ、アンタの同僚全てがアンタのように高潔であれば、こんな事は頼まずに済んだんだぜ」
「今まで自分がやってきた事を忘れたのか? 都合の良い頭をしているな」
「俺にはそれをする必要が、そしてアンタ達にはそうされる隙があった」
ティタンがうんざりだとばかりに口を挟む。
「事情は知らんが、そうやって話をややこしくするのがお前達の趣味なのか?」
「ティタン殿」
「騎士オレヴィ、俺はソーズマンにオーメルキンの件で借りがある。それを返さなければならない」
「貴殿はもう少し考えるべきだ」
「考えている内にアッズワースに下らない薬が蔓延するのは我慢ならん。アンタはどうだ?
オレヴィは大きな溜息と共に吐き捨てた。
「……手間を割こう」
――
オーメルキンはアッズワースの大通りを急いでいた。
太陽は殆ど沈み、直に夜が来る。アッズワースは夜でも通りに松明が焚かれ人が行き交うが、こうも寒い風が吹いているとそれも少ない。
向かう先はパシャスの神殿だ。オーメルキンは昼間盗人から取り上げた黒い小箱が気になって仕方がなかった。
最初はティタンに任せてしまおうと思っていたが、彼はまだ戻らない。
こんな物を抱えて一夜を過ごしたくはない。オーメルキンが感じる、理由の説明出来ない不快感と恐怖は、次第に大きな物へとなっていた。
「メル……メル……!」
大通りを抜けてパシャスの神殿のある区域に入った時、服屋の横にある路地から何者かが声を掛けてくるのにオーメルキンは気付く。
視線をやって、危うく声を上げる所だった。其処に居たのは藍色のローブを纏った女、ゼタであった。
オーメルキンは小走りに路地へと入り、ゼタの名を呼んだ。
「ゼタ! 今まで何処に?!」
「メル、御免なさい。問題が幾つもあって」
フードですっぽりと顔を隠したゼタはここ一月程全く姿を見せて居なかった。宿を訪ねても捕まらず、オーメルキンは彼女なりに手を尽くしてゼタを探したが、結局これまで行方は知れなかった。
何処かで何か問題に巻き込まれ野垂れ死んだのかも知れないと半ば諦め掛けていた。オーメルキンはゼタに飛び付いて、彼女の無事を喜んだ。
「心配したじゃないか!」
「メル、ここで何をしているの? 何処に向かっているの?」
口調こそ静かだったが、オーメルキンはゼタの気配に鬼気迫る物を感じた。
「あたしは女神様の神殿に」
「何故? 何のために?」
「それは……何でそんな事を聞くの?」
黒い小箱の事を聞かれている、とオーメルキンは感じた。
この嫌な気配のする物を、ゼタは探している。
何故だか話す気になれない。これはパシャスの巫女に間違いなく届けるべきだ。
オーメルキンは自らの直感に従う事にした。
「お願い、教えて、メル」
「……言いたくない」
適当な事を言って誤魔化す事も出来なくはない。だが、戦士の宣誓は虚偽を許さない。
オーメルキンに出来る返答は限られている。
ゼタは小さな溜息を吐きながらオーメルキンの頬をそっと撫ぜた。
「そう……御免なさい、メル。急に無理を言ってしまって」
「ずるいよ……。何処かに行っちゃったと思ったら、急に現れてさ」
「甘えたような声出さないの。貴女は一人前の戦士なんでしょう?」
「違うよ、ティタンはまだあたしの事、精々半人前だって」
苦笑しながらゼタはオーメルキンを抱き締めてくる。オーメルキンは拒まずにそれを受け入れた。
ゼタの身体が何だか頼りなく感じられる。以前と比べてはっきり分かる程に痩せているのだ。
顔色も悪い。オーメルキンは不安で堪らなくなった。
「何してるの? 今まで何処に居たの?」
「……貴女がそうであるように、私にも言えない事があるの」
ゼタはオーメルキンから離れ、瞳を覗き込む。
太陽は沈み、アッズワースを夜の闇が覆い隠していく。雪が舞い散る中で二人は暫し見つめ合い、そしてゼタは踵を返した。
「用事があるんでしょう? 引き止めて御免なさい」
「ゼタ」
「メル……出来るだけ早くそれを手放して。いつまでも持っていては危ないわ。用事を済ませたら真直ぐ帰って、暫くティタンの傍から離れないで」
「え? それって」
「彼なら貴女を守り抜く」
「ちょっと待ってよ!」
オーメルキンの制止も虚しく、ゼタは路地裏の奥へと駆けて行った。
当然オーメルキンはその後を追おうとするが、懐に妙な衝撃を感じて立ち止まる。
「動いた?」
懐で震える物がある。不愉快に生暖かく、不気味なあの小箱だ。
それがガタガタと音を立てて震えているのだ。オーメルキンは余りの異常事態に背筋を凍らせながら懐に手を突っ込む。
そしてオーメルキンは声にならない悲鳴を上げて小箱を取り落とした。
小箱が目を開いたのだ。
「……!!」
言葉で表すと何とも奇怪な物になる。しかし正に「目を開いた」と言うのが正しい。
奇妙な白い筋の走る黒い小箱、其処に亀裂のような線が入り、それが上下に開いて、中には人間の目があったのである。
憎しみの篭った目だとオーメルキンは感じた。その目は随分と長い時間オーメルキンを睨み付け、そして消えた。
後には何の痕跡も無い。目の錯覚だったのかと思う程に。
「(幻覚? 妄想?)」
オーメルキンは小箱を放り出して帰りたい衝動に駆られた。何もかも見なかった事にして、ヴァノーランの屋敷でティタンに抱き着いて寝たふりを決め込みたかった。
しかしこれを放置するのは只管に拙い気がする。
オーメルキンは恐怖で歯の根が噛み合わなかったが、結局小箱を懐に戻して走りだした。
――
オーメルキンが神殿に辿り着いた時、上手い具合にパシャスの巫女が一人、ファロと会う事が出来た。
ファロはオーメルキンと歳も近く親しい間柄だ。すぐさまオーメルキンの頼みを聞き入れ、黒い小箱を預かった。
最奥部の物とよく似た水の祭壇が設けられたパシャスの神像の前、祝福された聖水で身を清めたファロは改めて小箱を手に取る。
それを耳元で揺らす。何とも言えない音がした。
「……強い強い憎しみの声が聞こえる。苦しみ抜いた末に死んだ人間の魂が宿っている」
無表情に告げるファロ。オーメルキンはファロの話した内容に顔を青褪めさせた。
何せつい先程まで自らの懐に入れて運んでいた品だ。青くも赤くもなろう。
「恐ろしい……私の手には負えない。アメデュー様でないと」
ファロはぶるりと身体を震わせた後、小箱をパシャスの神像の前に置き、聖句を唱えた。
「ふぁ、ふぁ、ファロ」
「……なに?」
「さ、さっき、その箱が……目を開けて、あたしを睨んだんだ」
ファロは暫く祈りの言葉を唱え続けた。そしてそれが一区切りついてから、漸く言った。
「中に入っているのは……人骨と、腐った目玉」
オーメルキンは卒倒しかけた。
「オーメルキンも……沐浴を……」
「沐浴……? なんで……?」
「この箱は……貴女も憎いって言ってる。身を清めて、呪いを祓わなければ危ない……」
ファロが言い終えた瞬間、オーメルキンは聖水を湛えた祭壇に、服を着たまま飛び込んでいた。
――
ソーズマン達との会合を行ってから三日、ティタンはパシャスの筆頭巫女とアバカーン、そして少数の信徒達を連れ、アッズワース要塞西側の色街を訪れていた。
浮浪者が目立つ。帰る場所を持たず、寒さに震えながら日々過ごす者達だ。あっという間に凍死して数を減らしていそうな物だが、これが中々減っていかない。
路地裏から目付きの悪い男達がティタン達の一挙一投足を見張っている。ティタンは油断なく剣に手を掛けていたが、筆頭はそれが無用の心配である事を伝えた。
「彼等に敵意はありません。彼等は見た目以上に理性的で、パシャス様の教えに従っています」
女神パシャスは全ての愛を司る。人前で彼女の事が語られるとき、その清らかさと聖性ばかりが強調されるが、パシャスはもっと雑多な愛の支配者である。
汗と吐息、快楽と共にある一夜の愛。アッズワースの娼婦、男娼達も、ほぼ全てパシャスの庇護下だ。パシャスは時として軽蔑されがちな彼等の生業を厚く保護し、病を退ける神秘の力や、美しさを得るための知恵を与えた。
アッズワースで最もパシャス教の影響力が強い場所は、実はこういった色街だ。
「それにしてもティタン様」
「何だ」
「事態の解決に御出座し下さり、有難う御座います。私共も怪しげな薬の存在は把握していたのですが……」
筆頭は現在のアッズワースの状態を憂慮していた。
アッズワースでのパシャス教の影響力は依然として強い。利害や政治などと言った物に影響されない。
乱れた人心はパシャスの慈愛に寄る辺を求める。人々が苦しんでいる時ほど、神は必要とされる物だ。宗教的な強さだ。
自身の元に飛び込んでくる様々な情報に、彼女は心を痛めていた。そしてその解決の為にティタンが動いてくれると言うのなら、これほど嬉しい事もそう無い。
「……きな臭い物を感じている。ペルギスは無能じゃないし、ソーズマンも抜け目ない男だ。だと言うのにアッズワースは今混乱しつつある」
「はい」
「何か大きな力が働いている。……シャーロスが居てくれたらな……」
灰色の仮面で顔を隠した嘗ての王は、今は何処かへと姿を消していた。クラウグスに蠢動する闇の神々の信徒達の足跡を追う為にあちらこちらと忙しなく駆けずり回っている。
アッズワースでも、それ以外でも、何かが起こっていた。ティタンは鼻を鳴らした。
筆頭が表情を固くして言う。
「ティタン様、三日前オーメルキンが持ってきた物ですが」
「小箱か。奴め、暫く俺のマントを掴んで離そうとしなかった。魔道の領域なんだな?」
「はい、危険な魔術具です。……口に出すのもおぞましい邪悪な存在との交信、使役の為に用いられるらしく、中には人間の怨念が封じ込められています」
「……そういった類の品を見た事がある。三百年前に俺達と激しく争った邪教徒達も、その手の破廉恥な魔法の道具を自慢気に振り回していた」
「恐らくは炎の使い手ゼタが以前より探し求めていた物かと。……闇の神アーヴァルの、残酷な供犠にも用いられる品です」
思わずティタンは筆頭を睨みつけていた。
「奴が悪神達の下僕だと? そんな愚かな女には見えない」
「賢愚の別なく、全ての者にとってあの小箱は大きな力を秘めた恐ろしい物なのです、ティタン様」
ティタンは唸った。ゼタがいつも浮かべていた澄まし顔を思い出す。
ここ暫く顔を見ていないがゼタは大体の場合オーメルキンを気に掛けていた。ティタンと衝突する時は、大抵オーメルキンの事だった。
闇の神々の残虐な支配を望むような狂人が、オーメルキンのような何の役にも立たない子供の事を気に掛けるか?
ティタンには疑問だった。
「……奴は此処暫く姿を消している。見つけ出せ。……出来れば殺すな」
「承知致しました」
「取り敢えずは目の前の問題を片付けるべきだろう。アントーンの館と言うのはまだなのか」
ティタンは話を切り替えるように筆頭に聞いた。ごちゃごちゃと雑多な感じのする色街は、雪の降る中にあっても奇妙な活気がある。
時刻は昼。色街が商い始めるには少しばかり早い。筆頭はティタンを先導して入り組んだ路地を抜ける。
「あちらです。何度か人をやっていますが、どうにも館の支配人が捕まらず……」
「適当にあしらわれた訳か。……ガキの使い走りで無い事を教えてやるしかないだろう」
歴史を感じさせる二階建ての館だった。所々、壁や屋根の塗料が剥げていたりするが、周囲と見比べても立派な建築物である。
門扉や柵などに蔦が張っている部分がある。夜、館の中を蝋燭の火でいっぱいにすれば、さぞや雰囲気が出る事だろう。小金を持て余した客を、怪しげな夜の世界に御招待と言う訳だ。
筆頭が前を歩き、薔薇が彫り込まれた扉のノッカーで音を立てた。
間を置かず、扉の覗き窓が開かれる。ティタンは其処から漏れだした香りに思わず眉を顰めた。
猛烈に甘い匂いだ。果実か、花か、何だか分からないが、度を越して甘ったるい匂いが覗き窓から漏れ出している。
「早い時間から失礼する。マダムにお会いしたい」
覗き窓から応答する人物はどうやら男らしかった。深い隈を作った目をぎょろつかせ、ティタン達の様子を深く観察している。
「マダム・アントーンは外出中です」
「……それは困る。使いに遣った者からは、今日の昼ならば話が出来るとマダムから伺ったそうだが」
「はぁ……私には分からない話です」
ティタンの背後でアバカーンが唸る。
「何だか……妙な気配がする」
それはティタンも同感だった。ふと頭上に視線をやると、窓からこちらを伺う者が居る事に気付く。
娼婦であろうか、その人物はティタンと目が合うと直ぐに身を翻して姿を隠した。
「兎に角、館には今私以外誰も居りませんので」
では、俺が今見た女は幻覚か?
ティタンは覗き窓の男を睨み付ける。
さっきから鼻を突く臭いに我慢がならなくなっていた。それは、ただ甘いだけではない。
「娼館の割には陰気な連中が揃ってる。おい、アバカーン」
「は、ティタン様」
「臭う。……剣を抜いておけ」
ティタンは覗き窓の男と話を続ける筆頭を横に押し退け、牡鹿の剣を抜いた。
吐気がする程の甘い匂いの中に確かな血の臭いを嗅ぎ取っていたのだ。
ティタンは身を沈めて扉に体当たりする。内側から閂が掛けられていたようだが、老朽化したそれはティタンが一当てする毎に酷く軋む。
二度、三度、そして四度目の体当たりで、とうとう閂は圧し折れて扉が開いた。
アントーンの館に押し入ったティタンは、肩を竦めながら筆頭に言った。
「お前が話していたのは誰だ?」
扉の内側にあったのは粗末な椅子と、それに腰掛けた老人の死体だ。
筆頭は険しい顔で涙の聖印を握り締める。……死体は、話したりなどしない。
「探せ、邪悪な魔物が潜んでいる! この不愉快な館を浄化しろ!」
『Woo!!』
ティタンの声に応えて二人の巫女は館へと踏み込んでいく。その後を追う信徒達。
ティタンは老人の死体を見下ろしながら吐き捨てる。
「これもマトの奸計の内か? ……しかし所詮は虚仮威しに過ぎない」
アッズワースを狙い続ける邪悪な神々の蠢動を、どうして現状と無関係だと考えられるだろうか。
悪神マトは邪悪の顕現。煤色の霧を操り、その中にこの世ならざる不可思議な現象を引き起こす。
マトの操る霧の中では全てが穢され、冒涜される。不浄な邪霊が地より湧き出し、人間の魂を翻弄し、弄ぶ。
しかしその霧中に何が潜んでいようと、恐るに足らぬとティタンは断じた。
戦士は、戦士でない者を恐れない。マトやその眷属に少しでも怯んだ姿を見せるのは、屈辱だった。




