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戦士ティタン 3


 「なぁ、おい」

 「はい、ティタン様」


 ティタンの為に用意されたらしい馬車は質素ではあるが決して粗雑な物ではなかった。建材としては上質とされるブラックウッド製で、飾り気無くパシャスの聖印のみが施されている。


 尻にがたごと不愉快な振動を感じながら、ティタンはパシャスの信徒ら……その筆頭格に声を掛ける。


 「お前は」


 正直に言えばフードの中が気になった。だがクラウグス人は神に仕える女が顔を隠していたらそれを無理に暴いたりはしない物だ。神の加護を求めず、その助力を必要としないティタンですら憚られる事である。


 「……パシャスの巫女なのか。薄いショールのみを纏い、聖水で満たした祭壇に身を委ね、パシャスより信託を授かると聞く」


 結局ティタンは適当な話題を投げ掛けて誤魔化す。信徒は深く一礼し、顔を伏せたまま答えた。


 「私は巫女ではありません。パシャス様よりティタン様の御傍に侍る使命を与えられた者です」

 「パシャスが? 直々に? ……解らんな」

 「ティタン様程の勇者であれば不思議ではありません。パシャス様はティタン様の戦う姿を知っておられます。私は恐れ多くもパシャス様の夢の中に招かれ、ティタン様の姿を拝見いたしました」


 大真面目に語る信徒には一片の気後れも見られない。言葉の意味は理解できない部分もあるが、つまりこの信徒は三百年前のティタンを知っているのだ。


 ならばそれは先程の予想通りだ。ティタンは気持ち悪さを感じた。何ともいえないもどかしさだった。


 「俺は女神の声を聞いた事も姿を見た事も無い。神殿に招かれたことも」

 「パシャス様は……その事に関して主神を初めとするいと尊き神々と…………その、何と言いましょうか……」

 「なんだ?」

 「えぇと、はい……。ティタン様にとっては名誉なことです。……詰まり、パシャス様はティタン様の事に関して、他の神々と深く話し合う必要があったのです」

 「俺のことを話し合う? 要領を得んぞ」

 「申し訳ありません」


 言い難い事らしかった。少なくともこの信徒の口からは。


 そうこうする内に馬車が止まる。目的地に着いたらしい。信徒はこれ幸いとばかりに乗降口を開き、ティタンを手招きした。


 「……どうぞこちらへおいで下さい。パシャス様がお待ちです」

 「……そりゃまた、なんとも……」

 「あの方は三百年、この時を待っておられました。私もずっと」


 幾分か昂りを見せる信徒の声に、ティタンは眉を顰めた。



――



 今の厳かさを失った雑多なアッズワースにあっても聖堂とは静謐な場所だった。夕暮れも近く、市井では人々が夜を迎える準備をするために忙しく行き交っているが、ティタンが足を踏み入れた聖堂は静かなものだ。

 入ってまず目に付くのが長い布を握り締めた裸婦像。この聖堂の祀神である女神パシャスの像だ。一般的な信徒はこの広間で祈りを奉げる。

 像の横をすり抜けて奥へと向かえば黒檀の扉があり、そこから先はパシャスの為に働くより敬虔な信徒達の居住区となっている。


 ティタン達が向かうのはそれよりも更に奥。地下へと降りる薄暗い階段だ。


 「……どうやら、本気か」


 擦れ違う信徒達は皆ティタンに対し最大限の敬意を示す。厳かに跪き、掌を胸に当てて聖句を唱えるのだ。

 そして所作は優雅だった。彼等は己の行動が己の信奉する神の名声に直結することをよく理解している。


 幾分か落ち着かない気分を味わいながら、ティタンはとうとう神殿最奥部まで案内された。予想できなかったわけではないが冷や汗を流す思いだ。



 神殿最奥部。その聖域の中でも最も重要な場所。こんこんと水を湛える祭壇を備えた薄暗い部屋は、パシャスの信徒の中でも特に重要な役目を担う者しか入る事を許されない場所だ。


 そう、例えば……パシャスの巫女や、パシャス自身が見出した信仰の勇者などだ。


 「パシャス様はそちらにおわします」


 ティタンを案内した信徒達は黒いローブを翻し、跪いた。ティタンの目前、清らかな水の祭壇への道を示すよう左右に分かれて。


 地下だが、風の流れがあった。ひやりとした湿った空気の流れを感じながら、ティタンは水の祭壇へと近付く。


 「(……神が……俺の前に現れると言うのか? 本当に?)」


 流石のティタンも僅かな昂揚を感じていた。主神レイヒノムを始めとする太古よりクラウグスに加護を授けてきた神々。彼等に認められ、声を掛けられる……ましてや実際に謁見するなど、時のクラウグスの王にすら容易では無い事だ。


 戦士としての力を認められての事ならば、これ程名誉なことは無い。愛した者を失い、生きる意味を失い、これまで己の築き上げた物を失っても、戦士としての魂は失っていない。


 それに……パシャスならばティタンのもどかしさを解きほぐしてくれるかもしれない、と言う僅かな希望もあった。この三百年後の世界、誰も己を知らない世界で、ティタンは常にもがいていた。


 それから開放されるかもしれない。


 「(しかし、何故だ? あの女は口を濁した。パシャスは俺が何故ここに居るのか知っているに違いない。俺を正義と信仰の護り手として見出したと言うのならば、何故今だ?)」


 疑問は多い。それらはこれよりパシャスに目通り適えば解決する物なのだろうか。

 ティタンは恐る恐る最後の一歩を踏み出し、しまったと思った。


 「(いかん、身を清めていない。雑居房で適当に身体を拭いただけだ)」


 思考を散らした瞬間、鈴の音の如き女の声が、ティタンの耳朶を舐るかのような甘さで響いた。


 『良い、ティタン』


 ティタンの目の前で水がうねる。水の祭壇が波打ったかと思うと聖水が生き物の如くのたうち、宙を舞い、ティタンへと纏わり付いた。


 「ぬっ!」

 『抗うな。楽にせよ』


 気だるさを誘うような、力を奪うようなのんびりとした声。身構えるティタンを他所に実に寛いだ声だ。


 ティタンの体が持ち上がる。身を捩り、抗うことも出来なくは無いが。

 ティタンはこれがパシャスの仕業なのだと理解すると身体を強張らせつつも抵抗を止めた。


 ティタンは水の中に引き込まれた。冷たくは無い。全身が仄かに温かくすらある。


 外から見た水の祭壇はそれ程深くは無かった。ティタンを引きずり込んで自由にするほどの広さは無い。祭壇は入り口なのだ。パシャスの領域へと引きずり込まれたティタンは、上も下も解らない水中でパシャスの成すがままに身を委ねた。


 「(息が……)」

 『苦しくないであろう?』

 「(冬だと言うのに)」

 『暖かいであろう?』


 くすくすと笑い声を伴った声が響く。声の主はティタンの眼前に唐突に現れた。


 水中で奔放に広がる黒髪。くっきりとした大きなつり目。妖しく弧を描く唇はたっぷりと厚く瑞々しい。

 面立ちは細いがその身体は肉感的且つメリハリが効いている。手も足もほっそりとしているのに、胸も腿も豊満だ。

 朱色の布が申し訳程度にその肉体を覆っている。神話に残る、目的地までの道を指し示すというアリバスの朱衣だろう。ティタンのマントの倍程度の長さがあり、それを巻き付けてパシャスは妖しく微笑んでいる。


 成程、美しい。ティタンは素直にそう思った。

 慈愛の女神パシャス。水の恵みと闇の中での睦事、安産、全ての愛とそれによって起こる激しい戦いを司る。


 奔放な性と獣すら平伏する美貌を備え、決して堪えることをせず、躊躇わない。


 彼女は慈愛の女神でありながら、神々の中で最も我侭だと言われる。


 『ティタン、待っていた。三百年前、お前の魂が強く輝いた時から』

 「(……光栄だ、と言えば良いのか?)」


 この暖かい水中では口を開かずとも意思の疎通が出来る事にティタンは気付いた。


 右膝を抱え込み、流し目を送るパシャス。ちらりと真赤な舌が覗き、唇を一舐めして引っ込む。


 『我はパシャス。恋愛、親愛、友愛、情愛、全ての愛とその激しき感情を好み、知られざる戦いと復讐に加護を与える。我は感情の為に時として摂理に抗う者。神々の中で最も奔放で、最も美しく、……そして最も慈悲深く、また残酷な存在だ』


 パシャスは頭の後ろで手を組んで伸びをした。魅惑的な肉体が震える。その乳房、くびれた腰の誘惑に尋常の男ならば奮い立ちそうな物だが、ティタンは難しい顔をするだけだ。


 「(……神々に対する敬意はあるが……俺は礼節と言う奴まで熱心に学んだことが無い。その辺りは……)」

 『良い。気にせぬ。さぁティタン、お前の心は解っている。答えてやろう』


 パシャスが己の心臓の位置に手を這わせながら言う。その行動には意味がある。

 パシャスは初め、余りに奔放であったが為にその言葉を他の神々に信用されなかった。パシャスは主神を初めとする神々と相対した時自身の胸に手を当て、言葉の中に一つでも偽りがあれば血と心臓を譲り渡すという誓いを立てた。


 ティタンはどき、とした。偉大な神の一柱が、ティタンを相手に誓約の構えを取った。神が、それも最も我侭と言われる愛の女神が、ティタンを相手に真摯に向き合ったのだ。


 「(俺は死んだ)」

 『死んではいない』

 「(……死んでないのか?)」

 『くくく、下劣な魔獣どもにお前を渡してなるものか』


 また、くすくすと笑うパシャス。ティタンは何ともいえない気分だ。


 オーガの軍団との戦いの果て、首や脇腹、太腿、兎に角四方八方から喰らい付かれたのを覚えている。激痛、出血、力を失う身体と遠退く意識。


 まず間違いなく死んだ筈だ。ところがそうではなかった。


 「(では、アンタが俺を?)」

 『そうだ。ちと手違いで北の湖にお前を転移させてしまったが……まぁこうして無事でいるのだ、許してくれ。……冥界を治めるちんちくりんのウルルスンは死すべき定めの者を云々と説教を垂れておったが、片腹痛いと言う物よ』

 「(ちんちくりん……)」

 『事実だ。あの貧相な肉体ではたった一人の男も誘惑出来まい』


 パシャスの口から平然と他の神への暴言が飛び出して、ティタンは一瞬言葉を失った。


 「(ウルルスンの事は……良い。だが、何故?)」

 『何故とは可笑しな事を聞く。お前達は古来より武を好み、勇を讃え、それが名誉と栄光に繋がると信じていた。困難、強敵と相対しそれを打ち倒す事を望み、我等にその勇敢さを認められれば英霊の座へと招かれる事が叶うと。……正に今のお前そのままだ』

 「(では、何故今だ? 態々三百年も経ってから俺を復活させた?)」

 『レイヒノムや戦神の使徒どもが五月蝿かったからだ。私のものだと納得させるのに時間が掛かった。…………まぁそれだけではないが』


 パシャスは伝承に伝わるとおりの奔放さを遺憾なく発揮していた。主神や他の神々に対して全く憚らず、自然に不満を吐き出す。


 『あの欲張りども、多くの勇者達の魂を召し上げて己の軍団に加えたくせに、我の信徒たるお前まで寄越せと言いよった。このパシャスにようもまぁ言ったものだ。当然我はそれを拒否した』

 「(……あのフードの女が口籠った内容がそれか)」

 『屈強な戦士、叡智を備えし者、男も女も多くを他の神々に譲った。このパシャスがだぞ? 竜狩りの戦士の一人くらい正当な権利と言う物だ』

 「(確かに俺はアンタの信徒だが……)」

 『ティタン、お前はこのパシャスの下にあるのが最も自然なのだ。我の一番のお気に入りだ。我が聖剣を持たせ、我の印を縫い込んだマントを纏わせよう。我が名の元に、その雄叫びをクラウグスの大地に轟かせるのだ。他の何者にも渡しはしない』

 「(承諾した訳じゃない)」


 ティタンは眉を顰めていた。パシャスの物言い、言葉の節々に垣間見える感情の波。それはまるで独占欲を剥き出しにした子供のようだった。


 パシャスに悪意は無い。あるのは只管の傲慢さだ。ティタンは知らず知らずの内に奥歯を噛み締める。


 これが神。


 ティタンが最初感じた高揚は、どこかに消し飛ばされていた。


 「(確かにアンタに声を掛けられるのは光栄な事だ。俺とて北の大地を守り抜いてきたクラウグスの戦士、それがどれ程の事かは知っている。だが、俺は着せ替え人形でもなけりゃ、玩具でもない)」

 『不満そうだな。……良い、許す。感じたままに放つが良い。我はパシャス。我に強い感情があるように、人もそれを持っている事を知っている』

 「(敬意は払おう、だが俺は誰にでも傅く訳じゃない。俺の事を簡単に尻尾振る犬ころだと思っているような輩には特にな)」


 ティタンの明確な拒絶に対し、パシャスが見せたのは怒りではなく喜びだった。


 『……ふふふ、そうか、そうだな。お前達人間は何を考えていても建前と言う奴を大事にする。我がお前を手に入れようとするのが、子供の我儘に思えたのだな?』

 「(伝承に違わず、相手し甲斐のある美女だと痛感していただけだ)」

 『このパシャスをそのように評すのはお前が初めてだ』


 かつての黒竜との戦いで生まれた勇者達はどうやら多くは神々の戦士となったようだ。古から伝わる通りだ。戦いの中でその勇敢さ、優秀さを示した者は英霊の座に招かれる。嘘ではなかった。


 だが、今のパシャスの物言いは何だ、とティタンは目を鋭くさせる。


 黒竜戦役は過酷な戦いだった。今でも思い出せば震えが走る。貴人も賤民も区別なく焼き殺され、家、家畜、畑、何もかもが焼き滅ぼされた。絶望的な状況だった。

 だが戦士達はその中で足掻き抜いた。何もかもが奪われていく中で、唯一残った命を賭して。


 その戦士達の魂を、まるで人形でも奪い合うかのように。



 ティタンはどうしようもなく苛ついていた。神々の加護無くば勝利し得ぬ戦いだったのは確かだ。信仰も、敬意も、あって然るべきだろう。


 だが、ティタンは気に入らなかったのだ。


 『ふぅむ……。ティタン、今お前の心は不安定だ。戦い、瀕死の傷を負い、三百年の時を越え、何も寄る辺の無い世界に目覚めた。如何に頑健な精神を持つお前とはいえ仕方のない事だろう』

 「(俺がトチ狂ってアンタに刃向っていると? ……だとしてもそれも俺だ。傭兵なんぞ所詮は漂泊の民、夜盗扱いされる事も珍しくは無い。今更誰の顔色も気にする物かよ。気に入らない奴に気に入らんと言っているだけだ)」


 冷静な振りをしていてもその実そうではない、と言う自覚はあった。慣れ親しんだ筈でありながら全く馴染みの無い今のアッズワースにティタンは確かに疲れ果てていた。それは反論のしようもない。

 だがティタンの怒りが不安定な心から来る八つ当たり染みた物だとしても、今のティタンにはそれが全てだ。便宜上ティタンはパシャスの信徒だが、その魂や人格、品性までも神にささげた覚えは無い。


 ティタンはパシャス相手に我慢する心算は無かった。一度は死んだ身、今更何が起ころうと大した問題ではなかったのだ。


 美貌の女神はティタンの態度に全く動揺しない。全ての信徒を平伏させて然るべき慈愛の女神が、だ。


 『では、我はお前を愛し、お前を欲する者として、お前に愛される努力をしよう』


 パシャスは何が面白いのか目を細めて笑った。かと思うと、次の瞬間水に溶けるかのように消え失せる。


 ティタンが警戒して神経を尖らせれば背後に気配が現れた。身体の自由が効かない水中で身を捩るティタン。首だけで振り返れば直ぐ其処にパシャスの顔がある。


 もう一度、美しいと思った。ティタンにとってパシャスは最早苛立ちすら感じる相手だったがその妖艶な笑みを見ていると体の芯まで溶かされる気がした。


 パシャスの唇がティタンの唇に吸い付いてくる。抗う間も無い。

 途端に、ティタンの体を激しい熱が駆け巡る。


 「(何だ? 何をした。体が……!)」


 微かな鈍痛、痺れ。

 そしてそれを凌駕する圧倒的な熱と充足感。疲れが癒され力が満ちる感覚。


 パシャスはティタンの肉体に纏わりつきながら一つ一つ確認するようにその肉体を撫ぜる。


 『お前の力と技をそのままに肉体を若返らせた。よりしなやかで、より伸び代のあった時の肉体だ。……なに、レイヒノムは好き勝手にやっていたぞ? 私が同じことをしても悪いと言う事はあるまい』

 「(おい、剣やマントだけじゃなく身体まで弄繰り回そうってのか)」

 『不満か? その不満は私への苛立ちから来る物だろう? 身体が力を増したことに、お前は戦士として喜びを感じている筈だ』


 その通りだった。己の力を高めるのは戦士の本能だ。パシャス相手で無ければティタンも喜んで受け入れ、礼を言ったに違いないのだ。


 『これだけではない。我は我に忠実な者に対し寛大で、気前が良い。お前が望むのなら……そうだな』


 パシャスはティタンの頬を撫ぜた。そして見せ付ける様に五指を揺らめかせ、己の体に這わせる。白磁の如き指が露わになった臍を撫ぜ、水月を通り、胸の谷間を駆け上り、喉を越えてからうなじに方向転換し……。


 たったそれだけの仕草で腰が砕けるほどの色香だ。パシャスは己の美しさを自覚していた。


 『お前を未知の悦びへと誘ってやってもよい。……だがお前は伴侶を失って以来、ただの一人も女を抱いていない事を我は知っておる』

 「(余計なお世話だ)」

 『ふふふ、そういう所も我好み』


 ならば矢張りお前に与える物はこれだ。


 パシャスがそう言った途端、ティタンは引っ張られる感覚を覚えた。水中を無理矢理に引き回され、気付いた時には水の祭壇の中に居た。


 ティタンは水中から立ち上がった瞬間思い切り咳き込み、祭壇の淵に縋りつく。荒い息を吐きながらフードを外して顔を拭った。


 「クソ、何の心算だ……」

 「お帰りなさいませ、ティタン様」


 ローブの女がティタンに手を差し出してくる。ティタンはその手を取り水の祭壇から這い上がった。

 ずぶぬれの身体から異様な速さで水が引いていく。熱が奪われる感覚も無く体が乾いていく。水が球になって宙に浮き、弾けて消えていくのが解った。


 驚くべき現象だったが、そんな事よりも傲慢な女神の言葉の方が気に掛かる。


 祭壇から声が響く。先程まで聞いていた声、パシャスの声だ。


 『お前は切ない男だ。お前が本当に望むものは我ですら与えてやれぬ』

 「俺は何も望んじゃいない! 少なくともアンタにはな!」

 『我が信徒よ、お前の喪失感を慰めてやりたいのだ。……アメデュー』

 「何……?」


 アメデューの名にティタンが反応する。


 パシャスの声に促されるようにしてローブの女がティタンに対し跪く。


 女は短く祈りの言葉を捧げた後、ゆっくりとフードを取り払った。


 「おい……ウソだろ……」


 どのような暗闇でも見間違える筈がない。蜂蜜色の波打つ髪。形の良い眉。きり、と凛々しい瞳は、今は眠るかのように穏やかに閉じられている。


 アメデュー。忘れる筈がない。ティタンの足が震え出す。

 アメデュー。ティタンがただ一人愛した女。最後の最後まで勇敢で、高潔で、運命に殉じて死んだ女。


 アメデュー。ティタンを置いて行った女。


 ティタンは暫し呼吸すらも忘れ、漸く否定の言葉を吐き出す。


 「違う……コイツは」

 『そうだとも。そこの者はお前のアメデューではない。我が見出し、選ばせ、名を与え、育てた。どうだ、よく似ておろう』


 ティタンは歯を食い縛った。叫び声を堪える為だ。


 似ているなんて物では無かった。瓜二つだ。きっと怒った顔も、笑った顔もアメデューそのままなのだろうな、とティタンは思う。


 だがアメデューではない。


 「ティタン様、お仕えできて光栄です。幼き頃パシャス様に見出され、貴方の戦いの全てを知りました。戦いも、その他の事でも、決して足手纏いにはなりません。どうぞこのアメデューをお連れ下さい」


 止めろ、と叫びだす所だった。ティタンの震えは何時しか猛烈な怒りから来る物に変わる。


 パシャスは、この我儘な女神は、人間の事など丁度良い玩具程度にしか思っていない。ティタンはそう断じた。


 「……よくもこの俺を相手に」

 「え?」

 「パシャス!」


 疑問符を浮かべるアメデューに良く似た女とは違い、女神パシャスには変わらぬ余裕がある。ティタンの怒りすらも楽しんでいる節がある。


 「褒美だと? クソ食らえだ! 名誉も栄光もいるものかよ! ……パシャス、俺がアンタに祈りを捧げる事はもう二度とない」

 『それがお前の返答か?』

 「アンタの為には戦わん!」


 ティタンは早足で歩き出した。その剣呑な雰囲気に危機感を覚えたらしいアメデューに似た女は堪らずティタンの手を掴む。

 振り返るティタンの形相は酷い物だった。皺の寄った眉間、食い縛られた歯、見開かれた目。オーガでもここまでは、と言うほどの怒りを感じさせる。


 「どちらへ」

 「お前に関係あるか?」

 「あ……、わ、私も」

 「離せ!」


 ティタンは手を振り払う。乱暴に女を突き飛ばし聖域の扉を蹴り開けた。


 そこは広めの通路になっている。常に掃き清められ、赤い絨毯が真直ぐのびている。入る時も通った道だ、訝しがる事では無い。そこに無数の信徒達が平伏して待ち構えていなければ、だ。


 「我等の勇者よ、どうかお待ちを」

 「怒りをお静め下さい」

 「我等が神の事を貴方は誤解なさっておいでです」


 『良い』


 口々にティタンを宥めようとする信徒達をパシャスの一声が制す。余裕たっぷりの口調がティタンの神経を逆撫でする。


 『我はパシャス、愛の神。愛とは優しいだけの……生温い物ではない。怒り、嘆き、憎しみすらも内包し、我はその感情を愛している。……ティタン、お前から向けられる物ならば、その激しい敵意すらも心地よい』

 「知った風な事を言って余裕ぶりやがって」

 『ふふふ、今は行くが良い。アッズワースの冷たい風で心を落ち着かせ、いつかその怒りも静めておくれ。……我はお前を愛しているのだ。いずれお前も解ってくれるだろう』

 「…………!」


 あまりの不愉快さに言葉すら失い、ティタンは信徒達を押し退けて外を目指した。


 アメデューに似た女は去っていくティタンの背と水の祭壇を交互に見遣り、不安そうな顔を冷静さで覆い隠すことも出来ずうろたえている。


 ティタンが去った聖域でパシャスは姿を顕現させた。豊満な肢体を空中に浮かせて水を弄ぶパシャスは美顔に指を這わせて呟く。


 『可愛い奴だ、喜ばせてやりたい。だがティタン、お前は妥協せねばならないのだ』



――



 ティタンは早々に宿に戻り大して好きでもない酒を注文して一息に干した。荒れている、と言う自覚はあった。


 宿屋の娘が心配顔でティタンに新しい杯を持ってくる。ごろつきと揉めて兵士に引っ張っていかれたと思ったら三日も戻らず、いざ帰ってきたら何時に無く怒りを滾らせた様子で酒を呷る。


 娘から見ても、ティタンの様子は尋常ではなかった。


 「ティタンさん、何かあったんですか」

 「何か、だと? ふん」


 ティタンは唇を噛んだ。八つ当たりでこの娘に罵声を投げ付ける事はしたくない。



 アメデューの顔が脳裏にちらつく。敵の血を浴びて勇ましく戦う姿。炎に照らし出された汗に濡れた肌。

 乱れたシーツの中から送られる荒い吐息と艶やかな微笑み。木漏れ日に目を閉じ、ティタンの肩に身体を預けてくる無防備さ。


 様々な情景、様々な表情。森で、荒野で、街で、共に生き、喜びも苦しみも分かち合った。


 パシャスの聖域でフードを取り払う姿が浮かぶ。

 違う、とティタンは頭を振った。


 「おやぁ、思ったよりも早く出てきたじゃねぇか」


 ティタンが思考に埋没しているとその背中に馴れ馴れしく声を掛けてくる者があった。

 振り返るまでもない。ティタンが数日前に肩を外してやった男だ。あれだけみっともなく泣き叫んでいたくせに、熱さも咽もと過ぎれば何とやら、たった数日でたちまち元気を取り戻したらしい。


 「その様子じゃ大分懲りたみてぇだな」

 「……」

 「ん? どうだ? 若いの、敬意の払い方って奴がわかってきたんじゃねぇか?」


 俯いているティタンの様子をどう勘違いしたのか男はしたり顔で言葉を続けた。ティタンはより怒りを募らせる。


 考え事をするには雑音が多過ぎるのだ。パシャスの顔、アメデューの顔、アメデューに似た女の顔、ぐるぐるとティタンの頭の中を巡るそれらは苛立ちを煽り、聞きたくも無いのに耳に入ってくる周囲の雑音がそれを助長する。


 ティタンは食い縛った歯を開き、漸くと言った感じで漸く言葉を発した。


 「大人しくしていれば見逃してやったのに」

 「おぉっと、そうしてお前はまた頭を冷やす事になる訳だ。次はいつ出られるか解らねぇぜ」


 ティタンが立ち上がるのと宿屋のドアを開いて大勢が乗り込んでくるのはほぼ同時だった。


 ティタンは顔を顰めた。パシャスの聖印が施されたローブを纏いフードで頭をすっぽり覆った者達。背丈、気配から見て先程のアメデューに良く似た女とその部下達か。

 それを案内しているらしい女騎士も居る。雑居房で見た生真面目そうな顔だ。


 酒場の入り口でちびちびと呑んでいた年嵩の男が一団に向けて印を切り、祈りの言葉を呟いた。高位の神職の者が市井に現れるのは稀であった。


 「ティタン様」

 「態々追って来やがったのか」


 膝を折りティタンに対し深々と一礼するパシャスの信徒らに宿屋に居た者達はぎょっとした。明らかに一傭兵に払う礼ではない。


 「そちらの者はティタン様を傷つけようとした集団の一味ですね」

 「こいつは……明日には魔物の餌になってる。お前には関係の無い事だ」


 ティタンとパシャスの信徒、女騎士に囲まれる形となった男は四方に忙しなく視線を飛ばしながら呆けたように疑問符を飛ばしていた。


 アメデューに似た女はその男を指し示す。信徒達が素早く動き、男を拘束して跪かせる。


 「なんだアンタら! 離せ!」

 「ティタン様の御手を煩わせるまでもありません、この者は我々が。……横暴な振る舞いをしていた牢番の事と併せ、然るべき人物に話を通しておきます」

 「畜生! 離せってんだ! 後悔するぞ!」

 「お前には関係の無い事、と言わなかったか?」


 隣の騎士を差し置いての物言いにティタンはパシャスの力がアッズワース要塞の深くまで及んでいることを感じた。神職の者は古くから敬われ、その発言にも大きな影響力があったが、それでも政や法に軽々しく踏み込める程ではなかった。


 目を鋭くしたティタンに女騎士が困ったような顔をする。ティタンに対する態度を決めかねているようだ。


 「あー……なんだ、貴殿の怒りは正当な物だが、ここは我々に譲ってくれないか? ……無駄に人死にを出したくないし」

 「……」


 ティタンは舌打ちだけを返して再び椅子に腰を下ろす。ぎゃあぎゃあと喚く男は宿屋の外へと引き摺り出され、どこかへと連れて行かれる。


 アメデューに似た女は近くから椅子を引っ張って、ティタンの居る卓へと並べた。


 「誰かと呑む気分じゃない」


 ぴしゃりと言うティタン。アメデューに似た女は椅子に座るのを止め、ティタンの傍らに立ち尽くす。


 「帰れ。パシャスには他を当たれと伝えろ」

 「……何故でしょう。貴方はアッズワースの戦士。戦いに生きる貴方にとって、最高の名誉の一つである筈です」

 「そりゃ間違いじゃない。だが何事にも例外はある」


 ティタンは女のフードの内側まで睨みつける。アメデューと全く同じ顔が、全く違う不安そうな表情に歪んでいる。


 「何て不愉快な女なんだ。気に入らねぇ」

 「……それは……何が……」

 「だがお前に罪は無い。所詮お前はパシャスの人形、ただの玩具だ。……だからお前に向かって無分別に怒鳴りつける事はしない」


 女は暫し沈黙し、やがて意を決して口を開く。


 「パシャス様は私を導かれました。しかし、それは決して強制ではありませんでした。私は命令されてここに居るのではありません。私は私の主を私自身の意思で選びました。私は貴方の戦う姿に惚れ込んだのです」

 「笑わせるな」


 ティタンは杯を握る手に力を込めた。粗末な木の器はティタンの握力でみしみしと音を立てている。

 表情は硬く、無機質な物になっていた。古ぼけた椅子に足を掛け行儀悪く膝を立てたティタンは、これ以上アメデューに似た顔を直視していられなくて目を伏せる。


 「お前の名は誰が与えた物だ。誰がアメデューだなんて」


 声はほんの僅か、余程注意していなければ気付けない程度に震えていた。


 「……パシャス様です」

 「お前は俺をどうやって知った」

 「申し上げたとおり、パシャス様の夢の中、戦いの記憶を」

 「そのパシャスにああしろこうしろと言われて、お前はアメデューそっくりの姿になった訳か?」


 ティタンの冷たい声に女は沈黙するしかない。自分の中で如何に道理が通っているように感じられても、それでティタンを納得させられる訳ではないと気付いたのだ。



 「お前の何処に人間の誇りがある」



 ティタンは卓を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。宿屋の娘に銀貨を放り、早足で外へと出て行く。


 「ティタン様!」

 「……アメデュー殿、あの者はいったい……。どういった事情がおありなので?」

 「…………」

 「何にせよ貴方達の事をあまり好いては居ないようですね」


 突然の騒動に静まり返った宿屋。怪訝そうな騎士の声が白々しく響く。



――



 肉体が猛っていた。逸っていた。沈殿する汚泥のように心の奥底に溜まり続ける暗い怒りが、ティタンを連日の戦いへと駆り立てた。


 雨の振る荒野でゴブリンを、木漏れ日の和やかな水辺でワーウルフを、闇夜の渓谷でオーガを、腐臭の漂う洞窟でジャイアントバットを。


 斬った。心を細く鋭く研ぎ澄ませ、斬ろう、と思えば余りに容易く敵を斬る事ができた。パシャスの手によって若返った肉体は明らかに力を増しており、そのしなやかさも相まってティタンの理想とする体裁き、剣の閃きを実現させた。


 ティタンは強かった。ごちゃごちゃと理屈をつける必要は無い。


 ティタンは強かったのだ。その強さを怒りのままに振り回し、ティタンは雄叫びを上げて強敵を求めた。



 ざぶ、と冷たい川の流れに身を浸し、返り血を流す。赤い魔獣の革鎧の隙間に冷たい水が入り込み火照った身体を冷やしていく。

 喘ぐように立ち上がり、水を払う。髪を掻き揚げ天を仰ぎ大きく息を吸い込んだ。


 季節はずれの暖かい日だった。


 アッズワース要塞から程近い草原。遠方では農夫が火を使っているのか灰色の煙が上がっている。真青な空を何羽もの鳥が飛び回っている。風は凪いでいる。


 のろのろと革鎧を外し、川辺に放り出した剣とマントの近くへと投げた。川の中に立ち尽くし、呼吸を落ち着ける。


 「だらしねぇな、俺も」


 自嘲の言葉だった。腹の虫を落ち着ける為に五日もの間連日戦いに赴き、八つ当たり染みた剣を叩きつけていた己への。


 ティタンは自分の事をもっと冷静な人間だと思っていたがどうやらそれは己惚れだったらしい。一度癇癪を起こせばどうにも止まらない暴れ牛のような馬鹿だった訳だ。

 怒りをぶつける相手を求めてアッズワース要塞と北の監視砦を往復する五日間。漸く、ティタンは突き動かされるような熱い衝動を燃焼しきった。



 川から這い上がり草原に腰を下ろす。剣を鞘から抜き刀身を確かめる。

 皮袋を開いて襤褸切れと油の小瓶を取り出すと剣の手入れを始める。髪から滴る水にも構わず、ティタンは作業に没頭した。


 これまでの事と、これからの事を考えていた。何をすればいいのだろう、とか、何故生きているのだろう、とか、以前の自分が聞いたならば鼻で笑うような内容が頭の中でぐるぐる回っている。


 自分が此処に居る理由は理解できた。クソ喰らえだ。怒りは静まったが、パシャスの事を思い出すと不愉快になる。


 もう何をどうすれば良いのか全く解らなかった。大きく溜息を吐き出す。ティタンは虚しかった。



 剣を磨き、油を引き終えて、ティタンはぼんやりとしていた。太陽が低くなり始めている。昼下がりの陽光でティタンの身体は乾いていく。

 ずうっとそうしていた。頭を空にして天を見上げ、陽光の暖かさや時折流れる風を感じていた。


 ふと、アッズワースから伸びる街道に目をやった。三百年前は無かった整備された道は、軍の輸送や隊商たちの移動を大きく助けているらしい。

 その街道の遥か遠く、ティタンの目は狂ったように走る荷馬車を捉えた。

 御者がどんな人物なのかは遠過ぎて解らない。だが馬に対し執拗に鞭を入れている。相当な焦り具合だ。

 荷馬車は二頭引きの立派な物で、大柄な馬達は御者の鞭に応えてよく走っている。しかし如何せん牽いている荷馬車が大きいため、どうにも遅い。


 ティタンは不穏な気配を感じて革鎧に手を伸ばす。澱みない動作で着込み、防塵マントを装着してフードを被る。


 荷馬車の方を注視していると、その後方にも複数の荷馬車を確認できた。先頭を走る荷馬車と同じように必死になって走っている。隊商らしかったが、あれ程の焦り方と来れば状況は予想できた。


 「(襲われているな)」


 ティタンは剣を腰に佩いて街道を歩き始めた。隊商が何に追われているのかは知らないが、護衛も付けずにアッズワースを訪れたりはすまい。

 それがあの慌て振り、護衛が役に立たなかった事の証だ。強敵が期待できる。ティタンは冷えた身体の筋肉を解し、力を込めていく。


 荷馬車との距離は大分近付いている。ティタンは隊商の尻に喰らいつく襲撃者たちの姿を確認した。


 そして、ほぉ、と息を漏らす。隊商を追うのは黒い毛並みの固体に率いられたワーウルフの群れだった。


 「黒い狼! 夜の神シンデュラの寵愛を受けしワーウルフか! 面白い!!」


 ティタンは走り出す。強敵を前に胸は震え、肩が戦慄く。戦いの喜びがティタンを埋め尽くす。


 ワーウルフは通常白い体毛を持っている。年経る毎にその毛並みは灰色へと近付いていき、そういった固体は強力で、しかも狡猾だ。

 そして年経た灰色のワーウルフの中から稀に黒い毛へと生え変わる固体が出る。黒いワーウルフはワーウルフよりも尚強く、俊敏で、群れを強固に統率する。

 夜の神シンデュラの寵愛を受けたワーウルフがその加護によって生まれ変った姿だと伝承には残る。一部地域では黒いワーウルフを信仰の対象とする邪教や蛮族たちすら居る。


 夜の神の加護が本当かどうかティタンは知らない。だが強敵なのは間違いなかった。ティタンは吼えた。


 「Wooooo!!!!!」


 凄まじい怒声。戦いの雄叫びだ。空気をびりびりと震わせ、天を突き抜けていく。


 猛然と走る荷馬車は近い。御者は商人らしき身形の壮年の男で、剣を閃かせて全身に闘志を漲らせるティタンに懇願する。


 「助け、助けてくれぇぇ!!」


 黒いワーウルフが高く吼えた。ティタンの雄叫びに引き寄せられるかのように狙いを隊商からティタンに変える。


 隊商の荷馬車三台がティタンの横を抜けて行く。ティタンは右手で剣を緩く握り、左手を刀身に這わせる。腰を落とし、身を引き絞るように捻り、呼吸を整えた。


 ワーウルフは三匹。一頭が黒く、他の二頭は白い。ワーウルフが作る群れとしては一般的な規模の三匹の群れだ。


 身体は熱いのに、頭の奥が冷たく冷えていく。意識を細く鋭く研ぎ澄ませ、ティタンはぬるりと前に踏み出した。



 先頭を走るワーウルフ。まずこれは確実に瞬殺する必要があった。もし僅かでも手間取れば確実に二頭目が、そして群れの最後尾を走ってくる黒いワーウルフがティタンの喉頸を食い千切るだろう。


 飛び掛る白い野獣。牙を剥きだしにし、鼻をひくつかせ、濁った眼光は妖しくティタンを捉えている。


 発達した前足に鋭く硬い爪。ティタンはそれを掻い潜って肩からワーウルフの胴体にぶつかって行く。


 同時に繰り出されたティタンの剣。その刺突の鋭さ。

 刃は魔法のようにワーウルフの身体に滑り込んだ。するり、と針金のような体毛と皮を貫き、その心臓を止めた。


 ティタンは身を更に沈みこませ、流れるような足運びで前へ出る。一頭目のワーウルフは自身が飛び掛った勢いのまま大地に叩きつけられ、二度と起き上がることは無い。


 土を蹴り払うように右足を振る。蹴り足は円を描いている。ティタンの体がぐるりと回転し右肩を前に突き出す格好になった。身体の左に引き寄せた剣が新たな敵の血を求めて静かに光る。


 二頭目のワーウルフは地面を滑るようにしてティタンに肉薄した。ティタンの腹に狙いを定め、その臓物と滴る血の味を想像し涎をたらしていた。


 ティタンの右手は剣の柄を、左手は柄尻をそれぞれ握り締めていた。迫るワーウルフに対しティタンは腰の左に構えた剣を繰り出す。


 矢張り、突き。一瞬の間、一呼吸よりも尚早く敵を殺そうと思うのならば、鍛え上げられた刺突の技による急所の破壊だとティタンは思っている。


 その突きは稲妻の如く早く、また激しかった。低い体勢で迫るワーウルフより尚低い位置から繰り出された突きはその顎を貫き、口蓋を引き裂き、頭蓋を割って脳を破壊した。


 一瞬抱き合うようにティタンとワーウルフは密着する。噴出する血潮を浴びてティタンは猛った。

 素早く剣を引き抜けばどさりと落ちる巨大な二足の狼。ティタンはそれを踏み越えて黒いワーウルフと対峙した。


 黒いワーウルフは足を止めてティタンを見ていた。刹那の間に二頭の仲間を殺した戦士の姿を。


 ティタンは剣を振った。ぶ、と風を裂く鈍い音。剣に付着した血が飛び散る。


 睨みあう。ティタンは噛み合せた歯の隙間からシィィと呼気を漏らす。ワーウルフは唸り声を上げている。

 ティタンの血に濡れた刃とワーウルフの妖しく光る牙が向かい合う。


 「震えるぜ」


 ティタンはワーウルフに語り掛けるように言った。彼の黒いワーウルフの隆々とした腿。荒々しき殺意。こうして向かい合うだけでその強力さが伝わってくる。


 強敵と相対しこれを打ち破る。苦難に臨みそれを打ち破る。


 クラウグスの戦士の本懐だ。ティタンは強敵と戦う喜びに震えているのだ。



 背後から複数の蹄の音が聞こえてきた。ティタンはワーウルフと見詰め合ったまま舌打ちした。


 アッズワースから街道警備の部隊でも出てきたらしい。邪魔が入ったと言うのがティタンの正直な気持ちだった。


 黒いワーウルフはもう一度高く吼えるとティタンに背を向けて走っていく。ティタンは蹄の音が近付く中で、ジッとその背を見詰めていた。


 「……黒狼、一月後、シンデュラの権能高まりし時、また俺の前に現れるが良い」


 その時こそ、互いの命を賭して戦おう。ティタンは襤褸切れを取り出して剣を丹念に拭うと、色気のある動作でゆっくりと鞘に収めた。


 「其処の者!」


 戦いの余韻に浸る間も無くティタンを呼ぶ声があった。蹄の音は止まっていて、ティタンはそこで漸く背後を振り返る。


 騎兵の集団だった。五名の兵士とサーコートを付けた騎士が二名、壮年の男と年若い女だ。騎士も兵士も背筋はピンと伸び、高い士気が感じられる。


 先頭に立つのは女騎士だった。頬に纏わりつく栗色の髪を払うように頭を振り、騎馬から降りる。


 「見事よ! 見ていたわ、貴方が風の如くワーウルフに襲い掛かり、貴方の剣が稲妻の如く閃くのを!」

 「一番の好敵手とは戦えなかった」


 ティタンは名残惜しそうに地平の彼方を見遣る。ワーウルフが走り去った方向だ。

 栗毛の女騎士は自身の興奮を宥めながら鷹揚にティタンに言う。


 「あの黒い奴ね。黒いワーウルフは手が付けられない程強いと聞くけれど、貴方ならばきっと勝利したに違いない。……コホン、私はディオ・ユージオ・セリウ。貴方は傭兵かしら?」

 「ティタンだ。礼儀が無いのは許してくれ」

 「ティタン、その名に恥じぬ強さね」


 ディオは優雅に微笑むと、右手で握り拳を作ってみせる。

 篭手に包まれたそれを胸に叩きつけ、次いで額に叩きつけ、最後にティタンに差し出して見せた。その拳を見てティタンは堪らなく嬉しくなった。


 「強き戦士ティタンに敬意を」


 堂々と言うディオ。ヴァン・カロッサ。“戦士の宣誓”の握り拳だ。


 戦士の宣誓。勇敢であれ、高潔であれ、契約と誓約を遵守し、虚偽を許すな。誇り高き全ての兄弟達に敬意を払い、全ての無辜の同胞達を愛せ。真の戦士として、死を恐れず戦い抜け。

 誇りと力は胸に宿り、気高さと神々は額へと宿る。戦う意思と勇気は握り拳に宿り、その拳が胸を打ち、額を打ち、戦士の誓いとして相対する尊敬すべき同胞、兄弟に差し出される。


 契約を交わす時、敬意を示す時。自らの忠誠や、勇気や、潔白を証明する時。相手を受け入れる時、或いは見送る時。いにしえの戦士達はこの宣誓の握り拳でその心を顕した。


 それがヴァン・カロッサ。揺ぎ無き誓い。

 今では忘れ去られてしまったらしい儀式だ。それを覚えている者が居た。だからティタンは思わず頬を綻ばせた。


 「光栄だ、戦士ディオ」


 ティタンはディオの拳に己の拳を合わせ、その拳で胸を打ち、額を打ち、再度ディオの拳に合わせた。完璧な答礼だ。


 「驚いた。自分でやっておいてなんだけど、まさか答礼出来るなんて」

 「戦士の技と魂が正しく継承されていればな」

 「……気に入ったわ、ティタン。失礼な言い方だけど……傭兵にも貴方のような人が居るのね」


 ティタンは肩を竦めて見せる。皮肉気な笑みを隠しようもなかった。


 「だらしないのが多過ぎる。アンタがそう思うのも無理は無い」

 「我々はこの事を報告に戻らねばならないのだけれど……。貴方とは日を改めて語らいたいわ」


 傭兵相手に世辞を言っても大した物は出てこない。このディオと言う女は奇特な奴だな、とティタンは思った。


 「それは光栄だ」


 ティタンの返答に満足げに頷くとディオは踵を返す。軽やかに馬に跨りその首を撫ぜた。


 「貴方の名を覚えておく。いずれまた会いましょう」

 「俺もアンタの名を覚えておこう。ディオ・ユージオ・セリウ」

 「ではさらばティタン! 貴方の鋭き剣が、魔物達を悉く打ち倒す事を願うわ!」


 ディオは馬上で腕を掲げた。指先までピンと伸びた腕は天を指し示す。騎士が行う敬礼の作法の一つだ。


 「名誉ある戦士に!」


 そしてディオは馬を駆る。壮年の騎士と兵士達が巧みな馬術でそれを追う。アッズワースに向かうその背中はどんどん遠くなっていく。


 「名誉ある戦士か。……買被られたモンだな」


 ディオ・ユージオ・セリウ。気高い光を瞳に宿していた。慌しかったが、清廉な薫風が如き人物だ。


 ディオ。古き戦士の宣誓を知る者。ティタンはもう一度頬を綻ばせた。


 胸の底に溜まった汚泥の如き怒りの燃え滓と虚無感が押し流されていった気がした。良き敵と良き同胞。昔は簡単に手に入れられたそれが、今ではこんなにも貴重だ。


 良い女だったな。ティタンは天を見上げた。


 導入部終了。

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